自意識過剰あるある No.1

自分が自意識過剰なんだなぁと自覚したのは1年前くらい。

自覚すると、克服はできなくても飼い慣らそうとすることはできるなーと感じる今日この頃。

むしろ、欠点って個性で長所にも化けるものだから、克服するのは勿体無いなとすら思っている。だから飼い慣らしたい。

そんなわたしの飼い慣らしかけの自意識過剰あるあるを気が向いたときに書いていこうと思う。今回が第1回目。



先日、5年前に姉にプレゼントしてもらったダニエルウェリントンの腕時計を着けて出かけた。

暑い季節、革のベルトは蒸れて不快なので、電車に乗って体がある程度冷えるまでは一旦外している。

体から熱気が引いて、腕時計をつけようとしたときに針が指す数字がおかしいことに気がついた。

時計は永遠に9:31分なのだ。
ダニエルウェリントンは秒針がないので、正常に動いていても、「え?これもう壊れた?」と思うのはあるあるだ。
もうそのあるあるにも慣れていたので、その日も「はいはい、また死んだフリね」と思っていたのだが、今回は本当に動かなくなっていた。

そして次の日、もう動かないと知っているダニエルウェリントンを着けてアルバイトに向かった。


ここで、自意識過剰あるあるの話に戻る。
わたしは友人との待ち合わせに遅刻したとき、必ずやることがある。

それは、付けていた腕時計を外すということだ。

理由は、察しがつくかもしれないが、
「その腕時計、何のために着けてるの?ただの飾り?」
と思われたら嫌だから。

時間を確認するだけなら、携帯でも事足りる。だから、腕時計はアクセサリーであると同時に、瞬時に時間を確認することに特化している道具だと思っている。

そんな瞬時に時間を確認できる道具を身に着けている人間が待ち合わせに遅刻するなんてなにごと!!と思ってしまうのだ。

そう、自意識過剰で誰かにこう思われるかも、の「誰か」の大部分は自分のことなのだ。
自意識過剰者にとって、自分に1番批判を浴びせてくるのは自分なのである。

逆に言えば、自分が「そんなこと別にいいじゃん」って思えば、自意識過剰は個々の議題ごとに解決していくのだ。

そして、ここまで読んで、「あれ?」と思った人もいるのではないかと思う。

そう、私は動かなくなったダニエルウェリントンを着けて出かけていたのだ、しかも一度だけではない。二、三回どころでもない。

ただの飾りと承知で腕時計をつけていたのである。

この事実を自覚した時、「おれ、飼い慣らしてるぅぅ!」と少し高揚した。

なんとなく夏は服がシンプルになるし、腕になんもないの寂しいなと思って、本当に動かないダニエル君を着けていた。もちろん、動かない時計着けてる!って発見されるリスクも承知でだ。

人の目、主に自分が自分に向けてくる批判を認識した上で自分の感情を優先したのだ。


また別の日、友人と中華を食べに行く待ち合わせに遅れた。
トートバッグの小さいポケットには一時避難させた腕時計がいる。

飾りとしての腕時計の議題はクリアしたものの、機能としての腕時計の方は、まだ受け止め切れる器を持ち合わせていないらしい。

まだまだ精進が必要だ。

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