2015年8月の記事一覧
『マチネの終わりに』第六章(53)
過去は変えられる、と彼は言った。変わってしまうとも。――あんなに楽しそうに喋っていたあの笑顔も、無理に演じたものだったのか?
そんなはずはないと、彼女はただちに打ち消した。けれども、彼女が今し方目を通したたった一通のメールは、既にして、彼との思い出の一瞬一瞬に、暗い陰りを染み渡らせつつあった。
なぜ今になってと、彼を責める気持ちがあった。しかし、今だからこそだった。つまり、結婚というこれ
『マチネの終わりに』第六章(52)
目の前が光った。間を置かずに、巨木が真っ二つに引き裂かれるような音がして、何か悲劇的なまでに痛烈な落雷の地響きが伝わってきた。衝撃が、突然、洋子の乗っているエレヴェーターを停止させた。洋子は戦慄した。一人閉じ込められてしまったエレヴェーターの中で、逃げ惑う各階の人々の声が聞こえてくる。つい今し方まで彼女が話をしていた人々は、今は血塗れの遺体となって、ロビーの大理石の床に倒れている。あの大きなシャ
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今だけは何も起きないでほしかった。
洋子は、気を確かに持たねばと、唇を固く結んで息を吐いた。少し汗ばんだ右手を握って、親指で人差し指を擦っていたが、急にそれを止めると、カウンターの上の左腕に手を置いて、俯き加減に時計を軽く打ち続けた。
「お待たせしました、担当の者がお部屋までご案内します。」
巨大なシャンデリアが下がっている吹き抜けのロビーには、様々な国の言葉が溢れていた。つい今し方、
『マチネの終わりに』第六章(50)
「……はい、いいですよ。」
三谷は、拒むことも出来ず、不安に駆られながら洋子を宛先にしてメールの準備をした。
「今日、会う約束をしてたんだけど、……助かったよ、連絡が取れて。」
そう言いながら、蒔野は祖父江が倒れた事情を説明し、この場を離れられないので、今日はホテルに泊まってもらうか、ここまで来てもらえるなら部屋の鍵を渡すと書いた。三谷にまた使いに行ってもらうというのは、すまなくて頼めな
『マチネの終わりに』第六章(49)
三谷は酷く濡れていて、疲れ果てたような様子だった。そして、蒔野の前に立つと、泣き出してしまった。
「どうしたの?」
蒔野は礼を言いながら、驚いて理由を尋ねた。三谷はただ、携帯電話を水たまりに落として壊してしまったとだけ伝えた。
蒔野は、手渡された電話の電源ボタンを押し、それから手当たり次第に色んなボタンを押してみたが、何の反応もなかった。
「……すみませんでした。」
三谷は震えて
『マチネの終わりに』第六章(48)
当然、不審に思って電話かメールで連絡を取ろうとするだろう。すぐにバレてしまう! どうしてこんな馬鹿なことをしてしまったのだろう? 三谷は後悔に駆られて、たった今送信したばかりのメールを取り戻そうとしたが、その手は決して届かなかった。
絶望的なもどかしさに、彼女は血の気を失った。
蒔野は絶対に、自分を許さないだろう。激怒し、軽蔑し、自分をこそ彼の世界から消し去ってしまおうとするだろう! あ
『マチネの終わりに』第六章(47)
座席について読み返して、自分が書いたのではないような錯覚を抱いた。洋子と蒔野とが互いに連絡を取り合っているメールがあり、三谷自身の送信した仕事のメールがあり、そのあとに、蒔野が自分で書いたメールが未送信のまま残っているかのようだった。
三谷は、なぜか急に眠たくなって目を瞑った。駅に着くまでには、消すつもりだった。現実は現実として進んでゆく。その途中で、束の間、蒔野がこんなメールを洋子に送ると
『マチネの終わりに』第六章(46)
洋子は蒔野に何を告げられれば、彼との関係を断念するだろうかと、そのことだけを考えた。問題は二人ではなく、二人の愛だった。
三谷は、徐に顔を上げると、理由はわからないが、洋子と会って以来、蒔野が音楽的な危機に陥っているというのは事実なのだと自分に言い聞かせた。そして眉を顰めた。
「洋子さんへ」と、蒔野の送信履歴を参考にメールを書き出すと、三谷は一気に次のように書いてみた。本当に送るかどうか
『マチネの終わりに』第六章(45)
洋子は、蒔野を愛することによって美しくなり、これから蒔野に会うために美しいのだと、三谷は感じた。そして、身を裂かれるような激しい嫉妬に襲われた。
彼女は、夥しい数の乗客が行き交う改札の付近をうろうろした。時々人にぶつかりそうになり、何をしているのかと不審らしく振り返られた。苛々した。長居すると洋子に気づかれ兼ねず、実際、ここに留まっていても仕方がなかった。
恋敵が、一回り近くも歳上という
『マチネの終わりに』第六章(44)
恩師の危篤のために動揺し、他でもなく自分を頼ってきた蒔野の力になりたい一心で、土砂降りの中、「こんな日に仕事で呼び出されるの!?」と友人たちに目を丸くされながら、イタリアンのコースをパスタまでで諦めて、電車に飛び乗ったのだった。自分が二人の恋愛の成就の手助けをすることになるとも知らずに。
何をしているのだろうと、彼女は自分の人生を顧みた。蒔野のために尽くしたい。――その思いは純粋だったが、彼
『マチネの終わりに』第六章(43)
蒔野は、呼び寄せるつもりで電話したのではなかったが、そう言ってもらえると心強かった。万が一の時の関係者への連絡など、奏(かな)の負担を軽減する意味でも、三谷がいてくれれば助かるだろう。
「じゃあ、そうしてもらえるかな。せっかくの週末に、申し訳ないけど。」
「わたしの仕事ですから。携帯、タクシー会社に取りに行きましょうか?」
「うん、……そうしてもらえると、助かるよ。じゃあ、電話してどこにあ
『マチネの終わりに』第六章(42)
「聡史君、ごめんね。……何か予定があったんじゃないですか?」
十代の頃には、家族同然に親しんだだけに、少しく縁遠くなり、久しぶりに再会すると、思いがけず敬語が口を突いたりと、互いの口調そのものがなかなか定まらなかった。
蒔野は、大丈夫だと言ったが、
「ちょっと、電話してくる。」
と断って公衆電話を探しに行った。
テレフォンカードを買い、久しぶりに手に持った黄緑色の受話器は、懐か
『マチネの終わりに』第六章(41)
洋子と連絡を取る術がなくなってしまった。約束の時間までにはまだ余裕があるので、彼はとにかく、受付に尋ねて奏(かな)の元に急いだ。
奏は、一人でベンチに座って手術が終わるのを待っていたが、蒔野を見ると、立ち上がって涙ぐんだ。憔悴していた。蒔野は、肩の辺りに手を添えて宥めながら、
「大変だったね。」
と声を掛けた。
祖父江は、妻を亡くした後、ギター教室を併設した――蒔野もよく通った――
『マチネの終わりに』第六章(40)
一旦、走りかけたものの、運転手は左に車を寄せて停車し、ドアを開けた。蒔野は呆れて文句を言おうとしたが、その時間も惜しく、苛々しながらタクシーを降りた。運転席からは、弱々しい謝罪の声が聞こえた。蒔野は、丁度すぐ後ろから来たタクシーを強引に止めた。
今度は、問題なく車が走り出した。運転手は、
「お客さん、今、前のタクシー降りられたみたいですけど、何かありました?」
と尋ねたが、蒔野はそれに