ぼくは無理ゲー社会を生きようと思う
この事件とツイートが気になって橘 玲さんの「無理ゲー社会」を読了しました。
犯人の思想が全く理解出来なかったのですが、この本を読んで事件は氷山の一角であり、今の社会で起きている問題や事件を理解する。という点で良書でした。
*予防線*
今まで感じていた思考の靄がかかる部分。自分の感情を丁寧に切り取ってnoteを書きました。「無理ゲー社会」を全面的に推奨している訳ではなく、人によっては気分を害する可能性があるので書籍を読むかどうも自己判断と自己責任でお願いします。僕のnoteも個人の見解でしかなく、批判等は僕個人に向けてお願いします。
*予防線*
著者の橘令さんはリプでこの事件についてこう語っています。
自分らしく生きられない=下級国民
自分らしく生きる=上級国民
そもそも自分らしく生きるとは何か?僕なりに噛み砕いていきます。
自分らしく「何者かになりたい」という病
マンガ「左ききのエレン」で主人公の朝倉光一が天才山岸エレンに対して伝えるセリフです。この言葉には何者でもないものは退屈な人生を過ごさせねばならないとも捉えられます。
なぜ何者にならなければいけないと考えるのか。けんすうさんはSNSとの関連性を述べています。
世の中の中心がSNSになった、というと大げさに聞こえるかもしれませんが、政治から世論まで、かなりSNSに振り回されたといってもいいでしょう。
SNSは麻薬的なおもしろさがあるため、みんな多大な時間が費やしており、また、フォロー・フォロワーの仕組みで自然と意見が合う人がクラスタ化していくことで意見が相乗効果のように膨らむ、というので、陰謀論やQアノンなどの問題も起こりました。
また、圧倒的なフォロワーを集めてインフルエンサーになる人も多く出現しました。芸能人とはまた違った、商品を勧めたりすることでビジネスの場にも影響力を持ったり、D2Cがやりやすい環境になったことで自分のプロダクトを創るインフルエンサーも増えてきています。
そんなこんなで、TwitterやInstagramを開くと、多くの人がだいたい
- 友達とかの投稿
- 趣味や意見が合う人の投稿
- その中でも有名だったり人気がある人の投稿
が目につくような感じになっているんじゃないかなと。
そして、これによって、一部の若者が強烈に「何者かになりたい」と思うようになったのではないかと思っています。
僕らはSNSで繋がることによって良くも悪くも比較する対象が多くなってきています。
それは今まではクラスですごい奴との比較から全国、世界のすごい奴と比較する状態になり同年代の活躍に絶望することもあります。
「好きなことで、生きていく」という弊害
何者かにならなければいけない。この脅迫概念を強烈に感じたのは当時「好きなことで、生きていく」というYouTuberのCMが話題を呼びDJ社長(当時レペゼン地球の頃)が投稿した動画は友人からシェアされてきた時です。
でもみんな分かってんの
もうもう実際みんな分かってんの
そりゃ「好きなことして生きていきたい」
ってみんな思っている
当たり前や
けどね、みんなね、みんな思っているだけ 思っているだけ
「どーせ」とか「だって」とか「時間がない」
「お金がない」「世の中そんな甘くない」
「人脈がない」「親が許さない」「環境が」「時代が」
一生懸命色んな理由をつけて
動かない自分を正当化するんよね
でも、そうやってみんな好きなことやらないから
国がまわってんの
めちゃめちゃありがとう
みんなが好きなことやったら一瞬で国が滅ぶよ
言い得て妙なのですが「みんなが好きなことやったら一瞬で国が滅ぶよ」というのは自分らしく生きる=上級国民の自由は自分らしく生きられない=下級国民の上に成り立つという図式を当時は言語化はできていませんでしたが感じることはできました。
橘令さんの「無理ゲー社会」のあとがきにではこう述べています。
本書で述べたのは、とてもシンプルなことだ。あなたがいまの生活に満足しているとしたら素晴らしいことだが、その幸運は「自分らしく生きる」特権を奪われたひとたちの犠牲のうえに成り立っている。
現実を見ていないのではく、現実を直視して絶望しているからこそ、現実を見れない。受け入れられない。
「自分らしく生きられない現実」の言語化と社会の無理ゲー感を感じている人について小学館 少女コミックSho-Comi 編集長 畑中雅美さんがインタビューでマンガ現実逃避型と現実直視型の2タイプに分けて、消費者の苦しみや痛みからヒット作の分析について述べおり、現実逃避型の説明しています。
テストで全部赤点…でも、そんなことはテストを受ける前から知っている。しかも、ちょっとや、そっとで勉強をしても追いつかない。なぜなら、自分がどこの勉強から振り落とされたかがはっきりわかっているから。そういう子たちは、現実を直視して良い事なんてひとつもない。現実なんて、むしろ毎日誰よりも直視しているんですよ。だからこそ、そんな自分でも何かできるんじゃないか、自分には秘めた才能があるんじゃないか、ある日覚醒して、自分の可能性が広がることを信じさせてくれる物語が癒やしになる。現実ではなかなか起こらないかもしれない「漫画っぽい」物語、現実逃避の物語を楽しいと感じる。
そして、偏差値の分布がピラミッド状になるように、そういう現実に毎日直面している人の方が数が多かったりする。だからこそ、現実逃避型の物語の方がヒット作となりやすい。
「消費者のココロを掴め!ヒットメーカーに聞く「エンタメスタートアップの勝ち筋」MUGENLABO Magazineより引用
「自分らしく生きられない現実」このやり場のない感覚は、作品を通して救われるのであれば良いです。しかし、それだけでは済まない現実を知っています。それはSNSで日々繰り返される炎上や誹謗中傷を見ても感じることはできます。橘玲さんは「無理ゲー社会」でこう述べています。
自分よりすぐれたひとと比べるのが「上方比較」、劣ったひとと比べるのが「下方比較」だ。「上方比較の積極的な効果は希望や刺激であり、消極的な効果は嫉妬心」「下方比較の積極的な効果は感謝であり、消極的な効果は軽蔑」などといわれる。〜中略〜これをわかりやすくいうと、わたしたちは上方比較を損(罰)、下方比較を得(報酬)と感じているらしい。あらゆる生き物は、損失=苦痛を避けて利益=報酬を獲得する強力なエンジン(モチベーション)を脳(中枢神経系)に埋め込まれている。意識しているかどうかにかかわらず、わたしたちは、自分より恵まれたものを妬んでその地位から引きずり下ろそうとし、劣った者を蔑んでいい気分になろうとするよう進化の過程で「設計」されている。あらゆる社会問題の根底に、この生物学的メカニズムがあるのだろう。
橘玲. 無理ゲー社会(小学館新書)
エピローグ「評判格差社会」という無理ゲー
なぜ、SNSで炎上や誹謗中傷が無くならないのか?クソリプしても現実は変わらないのにずっと考えていた答え。
それは「自分らしく生きられない現実」に対してぼくも「何者かになりたい」と「上方比較」する様に「炎上や誹謗中傷」も「下方比較」する生物学的メカニズムがあり、繋がりすぎた世界では壮絶なる「上方比較と下方比較」を雨霰の如くSNSで浴び続けている現実はSNSの中で見えない血が流れ、傷つきあうリアルを感じます。
When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.
なぜぼくはこの事件に興味を持ち、無理ゲー社会を読んで自分の思考を記事にしようと、いや、しなければいけないと思ったのか?
それは「自分らしく生きられない」人の中から「大きく黒い犬」と「人間廃棄物」がいるこの事件の本質を、現実を知らなければいけないと考えたからです。
ひとは様々な理由で追いつめられることがある。だがほとんどひとが無差別殺人など起こさない。当然のことながら、非モテの男がすべて犯罪者予備軍だなどということはない。その一方で、世間を震撼させるような犯罪のほとんどは、なんらかの鬱屈を抱えている男が起こすことも間違いない。秋葉原無差別殺傷事件、やまゆり園事件だけでなく、川崎市登戸の通り魔事件、京都アニメーション放火殺人事件など、事件の動機はそれぞれちがうだろうが、犯人はいずれも現代社会において「自分らしく生きられない」男だ。こうした者たちを、評論家の御田寺圭は「大きく黒い犬」と呼び、社会学者ジークムント・バウマンは「人間廃棄物(wastedhumans)」だとした。彼らはリベラルな社会にとっての〝恥部〟であり、これまで「存在しないもの」として扱われてきた。「非モテのテロリズム」は、その屈辱的な扱いに対する(無自覚の)異議申し立てでもある。加藤智大が「なりすまし」を罰するためになぜ無差別殺人を起こしたかは、学校で理不尽な(しかし外部からはわからない)いじめにあっている子どもを考えれば理解できるのではないか。その子どもは、いじめを教師に訴えても、たいしたことではないと思われ相手にされないことを知っている。そのいじめが自分にとってはとてつもなく残酷なものだとわからせるには、大人の目を引くような「事件」が必要だ。
橘玲. 無理ゲー社会(小学館新書)
現実逃避型の最悪なパターンの可能性として(現実逃避が全て起こすとは考えていない)今回の事件の様に悲惨な思考にまで繋がる負の側面を「無理ゲー社会」で解説されています。
「評判格差社会」では自分らしく生きる=自由には個人の責任があり、その責任を取らずして自由にいきたいとは虫の良い話です。つまり、この現代において何者でもない「自分らしく生きられない」のは全て自己責任でしかありません。
そんなの当たり前だろ?それと現実逃避して行き着く先に無差別殺人と何を理解しろというのだと。そんなに現実逃避したかったら、周りを巻き込まずに自殺すればよいのではないか?と思われる方もいるでしょう。
ぼく個人としても、無差別殺人の言い訳や弁護をしている訳ではありません。只、その考え方は根本の問題を解決するものではないと、ひろゆきさんの切り抜き動画述べています。
自殺と他殺って全然別の様なものだと解釈している人がいるんですけど、
自殺も他殺も方向性は一緒なんですよね。
社会に対しての何らかの不満があってそこを変える方法として
①自分を殺して社会からドロップアウトする
②他人を殺して社会を変える
③他人を殺して社会も変えて、自分も殺して社会からドロップアウトするか
「社会に対しての不満」があり突飛な行動で結果を変えようとする。
この社会は僕を受け入れられる余地が無いんだから
どうせいなくなるんだったら一発何かやらかしてからいなくたってやれ
みたいな考え方になっちゃうので
あんまり僕はこういう言い方をしない方が良いと思う
犯人の思想が全く理解出来なかったのですが、この本を読んで事件は氷山の一角であり、今の社会で起きている問題や事件を理解することは必要と冒頭に書いた意味それは、
「自分らしく生きられない」現実逃避して行き着く先に、社会に対しての不満となって今回の様な「事件」が起こりうる可能性を示唆しているのではないでしょうか。
それはリベラルな社会の上で「存在しないもの」として扱われていた人たちのことを、自殺を志願する若者たちの声を理解する必要があると「無理ゲー社会」を読んで感じました。
「将来に対する不安が大きすぎて、早く死にたい」(埼玉県・20代)
「未来に絶望しかなく、どうせ年金受給の年齢が延ばされるのなら、60歳くらいで両親ともども命を絶ちたい」(兵庫県・30代)
「早く安楽死の合法化と自由に自殺できる制度がほしい」(埼玉県・30代) これらは、参議院議員の山田太郎氏が「不安に寄り添う政治のあり方勉強会」(参議院自民党)のために、SNSを通じて募集した若者たちの声だ。投稿が寄せられたのはコロナ前(2020年1月)だったが、日本の若者たちは将来に大きな不安を抱え、「苦しまずに自殺する権利」を求めていた。
「リベラル化」の潮流が若者を絶望に追い込み、「無理ゲー社会」を生んでいる 週刊ポスト2021年8月20日号 マネーポストWEBより引用
令和2年においてのデータとして現状を知って欲しいです。
令和2年中における自殺の状況令和3年3月16日
厚生労働省自殺対策推進室 警察庁生活安全局生活安全企画課の画像より引用
ぼくが逃げ出した社会の闇を見つめ直そうと思う
それは僕が大学生の頃に偶然飲み屋で知り合った女の子と出会いまで話は遡ります。色々とあって深夜の公園にて彼女は自身の秘密を打ち明けてくれました。それは両腕の付け根まで深々と複数箇所にいたるリストカットの痕跡でした。嗚咽を堪えながら話を聞きました。
高校を卒業後、彼女は実家暮らしで日中は祖母の介護を手伝い、夕方にはバイトにいきます。バイトが終わった後、家には帰らないでゲームセンターで毎日時間を過ごしているらしいです。
なぜ家に帰らないのか?それは父親からの虐待から逃げるためでした。父親が寝静まる時間帯までゲームセンターで時間を潰して家に帰る。
それが彼女の形成される社会であり、そんな現実を逃避するためにリストカットと薬物での自殺衝動を抑えて生きているとのこと。
その深夜の公園以降は彼女には会っていません。
最近「竜とそばかすの姫」を映画館で見てからこのレビューを見ました。タイトルにもある「危険すぎるメッセージと脚本の致命的な欠陥」このレビューの中で「傍観者」の問題と主人公のすずが導き出す答えにおいて是非を問いています。
*ここから先は映画の問題部分のネタバレになりますのでご注意ください。
すずの行動は、彼女の母が行った、自己犠牲に伴う少女の救出と対比される。反復を分かりやすくするため、劇中でわざわざ雨まで降らせているわけだが、であればすずの周りにいた大人たちは何に当たるのか。あの時川辺で危険にさらされていた子どもを眺め、何もせずにいた「傍観者」である。
合唱隊のメンバーはすずを物理的に誘導しているだけ、よりタチが悪い。あれでは濁流の川を前に、ただライフジャケットを手渡したようなものだ。時折インサートされる集合写真、及び小説版での“(すずは)私たちの子供みたいなもの”との描写があるが、あれで親代わりとするにはあまりにも無責任である。彼女たちはそもそもの立ち位置・行動が矛盾しており、またそれを正当化するほどの性格の描き込みが行われているわけでもない。残念ながら、物語上「すずを駅まで運ぶ」以外の要素が与えられていないのである。
助けられなかった彼女を重ねて、脚本の判断が良い、悪いで答えられる訳でなく、問題提起として世に問うという点でこの作品に価値があるとぼくは思います。
ぼくも彼女に対して「傍観者」であり、ぼくは彼女にやさしさを持って助けようと事件の介入まではしなかったです。そして何が正解なのかも答えは出ませんでした。(やさしさの定義は人それぞれ価値観も違うという前提で、ここでは御手寺圭さんの述べている有限のリソースと仮定する)
人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない。有限のリソースである。また、個々人がそれぞれに持つ「やさしさ」は、この社会ではだれに手渡すかを自由に決めてよいことになっている。分け与える対象を第三者に強制的に決定されるようなことはない。その結果として、多くの人から「やさしさ」をたくさん集められる人と、だれからも「やさしさ」を与えてもらえない人へと、ゆるやかに二極化していく。私たちは、自らが持つ有限の「やさしさ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている。私たちは「やさしさ」を道行く人へ適当に与えたりしない。自分の「やさしさ」を、もっとも喜んでくれる人に与えたいし、もっとも見返りが大きそうな人に与えたいと考える。私たちは「やさしさ」を一種の貨幣のように扱っている。
ぼくの祖母は戦争を体験している世代でして、昔の人の方が大変な時代を生きてきているのに今の若者は贅沢で〜と。昔からよく言われました。確かに特攻隊の人たちの様に命令されて死を選ばざる世界に比べたら、今の時代に日本で生まれることは贅沢でイージーゲームかもしれません。
ただ命令されて死ぬより、自分から死を選ぶ人がいる現実を、そして周りの人を陥れてでもという歪んだ思想にまで行き着く人間がいるという事実を、共感はできなくても、現実に起きていることを理解することは必要です。
現代の日本がイージーゲームという正論がまかり通るのなら「無理ゲー社会」というこの書籍も売れない訳ですし、自殺志望者もいないユートピアになっていると思います。
そして公園で打ち明けてくれた彼女に向かって、昔に比べてイージーゲーム。だからこの社会において自己責任でしょ?とは言えません。
それでもぼくは無理ゲー社会を生きていく
かつてのぼくは透明な人間でした。イジメを2年間受けていた頃、誇張せずに伝えると東京喰種の金木がヤモリに拷問されるシーンと同じくらい(再生能力がないだけで)精神的にも肉体的にも異常なまでに追い込まれていました。そんな現実に直視する毎日に生きることを諦めかけていました。
この間違った世界を救うには自殺することで相手を呪うか相手を殺すか当時は考えていました。つまり、僕の中の化物は方向性は同じで運が悪かったら人を殺してドロップアウトする可能性もありました。
それでも今を幸運に生きていられるのは、絶望の中でマンガとアニメに救われたからです。
東京喰種のリゼが言うように「この世の全ての不利益は当人の能力不足」という誰かの介入を求めるのではなく、自分で自分の世界を変えるために。
フルーツバスケットの紅葉が言うように「僕のための幸せはまだ まだこの先の未来で僕が来るのを待っているかもしれないだろう」とこの先の未来の幸せを信じて生きていこうと。
当時のぼくの判断は正しいかどうかは分かりません。これを強要しろとも思いません。
ぼくがnoteを書いた理由それは、理由は違えど「無理ゲー社会」に絶望している人に向けて、孤独を感じても、ドロップアウトせずに生きる選択をしたことで自分の世界を変えて、未来は変わったをことを伝えたかったからです。
テクノロジーの進歩によってわたしたちは社会的に孤立するようになったといわれるが、これは現実に起きていることを取り違えている。実際には、わたしたちはより多くのひとたちとつながるようになり、人間関係は過剰になっている。それがなぜ「孤独」と感じられるかというと、広大なネットワークのなかに溶け込み、希薄化しているからだ(ここでアニメ『攻殻機動隊』の草薙素子の科白「ネットは広大だわ……」を思い浮かべたひともいるだろう)。
橘玲. 無理ゲー社会(小学館新書)
この無理ゲー社会に生きる意味があるのか?答えがあるのかどうかは分からりません。けどあの時死なずに生きる選択をした自分の存在がやらなければいけないこと。
それは86-エイティシックス-のライデンが言うように「死刑台上るのは決まっていても 上り方は選べるだろうってそういう話だ 俺たちは選んで決めた あとはそのとおり 生き延びるだけだ」とこの現実を受け入れても、スピアヘッド戦隊のアンダーテイカーたちが"行き着く場所"を目指すように。
ぼくは無理ゲー社会を生きようと思う。
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