野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その6)
*ヘッダー画像:ロシアの教会。「魯西亜国漂舶聞書 巻之五」、山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社、p498-499より。
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大黒屋光太夫(その6)
【3】(のつづき)
1789年2月7日、イルクーツク到着。
「人家三千余有、甚繁華の地」(『北槎聞略』)の国際交易都市だ。
光太夫は総督府に帰国嘆願書を提出したが、反応は冷淡だった。漂民への支給金は出すが、帰国は論外だというのが当局の方針だった。
100年近く前の1696年、カムチャツカに漂着した大坂の船乗りデンベイは、当時の首都モスクワに連行されピョートル一世に謁見した。
デンベイの話をきいた大帝は、金銀の豊富な日本との通商を望むようになり、デンベイを日本語教師に任じた。
だが、教師として貢献すれば日本に送還するという約束は守られなかった。
教師職は南部領漂民サニマ、薩摩領漂民ゴンザ、ソウザへと引き継がれたが、その間新都ペテルブルグに日本語学校が開設され(のちイルクーツクに移設)、ゴンザの尽力で世界最初の露日辞典(実際は露薩辞典)も編纂された。
彼らはみなギリシア正教に帰依し、ロシアに帰化した。
洗礼をうけた漂民は、キリスト教を厳禁する日本には帰れなくなる。
ロシアからの帰還者は皆無だった。
8月、帰国をあきらめて仕官せよという回答が政府から通告されたが、光太夫は即座に拒絶した。
一方、イルクーツク到着後手術をうけ、脚を鋸で切断した庄蔵は、無事平癒はしたものの、その後の施療院生活のなかで帰国への希望を捨て、正教の洗礼をうけた。孤独な決断だった。
光太夫は、よるべない漂民をもてあそぶ理不尽な力の存在を実感し、恐怖と怒りとをおぼえただろう。
一行に手をさしのべてきた救いの神は、ホトケーヴィチの紹介で親交を結んだ博物学者キリル・ラクスマンだった。ペテルブルグ科学アカデミーの会員で、政府高官とだけでなく、啓蒙君主として名高いエカテリーナ二世とも近しいラクスマンは、漂民の送還が、日露間の通商樹立のチャンスになると考えた。
光太夫は、その助力で2度目の嘆願書を出すが、ロシア政府は好条件を餌にやはり帰化を求めてくる。
さらに3度目を出すと、支給されていた一切の生活費がとめられた。
帰化の強要だった。
これを知ったラクスマンは、ことが女帝に伝わっていない可能性があり、直訴こそが最良の策だとして、ロシアの西欧化政策の中心地であるペテルブルグの都へと光太夫を連れ出した。
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