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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その7)

★ヘッダー写真:エカテリーナ王宮
著作者:Александр Гришин CC表示-継承 3.0
https://ja.wikipedia.org/wiki/エカテリーナ宮殿#/media/ファイル:Музей-заповедник_Царское_Село._Большой_Екатерининский_дворец._3.jpg

(その6)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その7)

【4】


 ラクスマンの献身的奔走が実り、ペテルブルグ郊外の夏の離宮で光太夫エカテリーナ二世との謁見を果たしたのは、1791年5月28日。
宮中大広間で光太夫は、大勢の侍女と官人を従える62歳の女帝の前に進み出て、膝を折り、さしのべられた掌に3度接吻するという拝謁の作法を見事にこなしたのち、問われるままに漂流後の苦難を語り、望郷の念を訴えた。

エカテリーナ二世 著作者:アレクサンドル・ロスラン パブリック・ドメイン


「ヲホ、ジャウコ」(ああ、かわいそうに)という女帝の言葉を『北槎聞略』は伝えている。

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「ソフィアの歌」(通称)
画像をクリックすると音楽動画を視聴できます(大黒屋光太夫記念館)】
http://suzuka-bunka.jp/kodayu-news/918.html

光太夫が夏の離宮の御苑長オーシプ・ブシキリル・ラクスマンの友人)の屋敷に身を寄せて、皇帝謁見のチャンスをうかがっていたころ、ブシの妹ソフィアが光太夫の境遇に同情し、 ウクライナ民謡をアレンジして歌ったものだと考えられている。

帰国した光太夫によるその「訳詞」が『北槎聞略』には記載されている。
「ああたいくつや、我他(ひと)の国、皆々たのむ、みなみなすてまいぞ、なさけないぞやおまえがた、見むきもせいであちらむく、うらめしや、つらめしや、いまはなくばかり」。

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 その後も頻繁に光太夫を召し出し日本事情を尋ねていたエカテリーナ二世は、ついに9月、漂民送還を主にたて、通商樹立の希望を日本政府に合わせ伝える遣使の勅令を発した。

この時期、ヨーロッパ唯一の対日交易国オランダだけでなく、英国も日本に関心をむけて、漂民送還の引き受けをラクスマンに申し出ていた。光太夫という存在の価値と、英国に先だつ対日交渉の必要と。この2つが帝政ロシアで認められたことが、ひとつの奇跡をうみだしたのだ。

☆女王エカテリナの像
国立公文書館デジタルアーカイブ「北槎聞略」「器材・服装」
著作者:桂川甫周 CC-BY 4.0 全世界パブリック・ドメイン提供
(詳細はページ下に)
*「魯西亜国漂舶聞書巻之八」山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社
p582-583〔ペテルブルグの図〕=同書キャプション →*画像について


(その8)へつづく

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〔編集人〕

☆女王エカテリナの像
国立公文書館デジタルアーカイブ「北槎聞略」「器材・服装」
著作者:桂川甫周 CC-BY 4.0 全世界パブリック・ドメイン提供
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0404000000/0000000539/00
目録情報: https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000539
(『北槎聞略』は《天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国の船頭大黒屋光大夫等の体験を、蘭学者桂川甫周が幕府の命を受けて聴取したロシア・シベリアの地誌・見聞録です。持ち帰った衣服・器物の写生図、地図の模写も含まれています。
光太夫はエカテリーナ二世(1762-96)に厚遇されたといわれています。エカテリーナ二世の肖像を描いた掛版や、時計、顕微鏡等が詳細に模写されています。 原図サイズ:長さ1378cmx 紙高29cm。》=同ページ解説文

★参考文献


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