野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(9)
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その年の暮に入京した彦九郎は、旧知の商人大村彦太郎(白木屋)や公卿岩倉具選(1754-1823)のもとに身を寄せながら、朝廷の政権復帰策を有志者と講じた(『寛政京都日記』)。
天明の大飢饉は、京都をも揺さぶっていた。
天明7年(1787)6月、市中や畿内各地から続々と御所に人が集まり、飢饉からの救済と豊作を天皇に祈願し訴えた。1日最高7万人を数えたという「御所千度参り」は、祝祭を装った政治行動でもあり、幕府の権威失墜を示す出来事だった(同じ北半球の寒冷化に起因するフランス革命の2年前)。
これを受け、強烈な正統意識をもつ若き光格天皇(1771-1840)の主導下に、朝廷が救民策を幕府に要請する。朝廷の幕政介入は前代未聞だった。
彦九郎たちの関心は、尊号問題に集中した。天皇の実父閑院宮典仁親王は、幕府の制定した公家諸法度の規定では、五摂家と大臣家よりも低い身分(→編注「公家の家格」)とされていた。
天皇は、父に上皇の尊号賦与を願い、先例を示し幕府に要望したが、老中松平定信(1759-1829)はこれを拒否した。
すると朝廷は強硬に尊号宣下実現を迫り、朝幕関係は深刻な局面を迎えた。
尊号問題への彦九郎の関与の一例に、松前藩家老蠣崎広年(1764-1826)との交際がある。蠣崎は藩主道広の弟で、画家波響でもあった。
折も折、将軍徳川家斉が実父一橋治済に「大御所」の称号を賦与したいと希望していた。
松平定信は、前の老中田沼意次を失脚させて老中首座になった際、隠然たる勢力をもつ治済の絶大な後押しを得ていた経緯があったが、治済の勢力拡大と政治への介入を警戒し、称号の賦与には反対した。
彦九郎は、道広が定信と対立する治済側の立場とみて、側面援助を期待し蠣崎に接近したようだ。
その際蠣崎は、クナシリ・メシリの戦いで藩に帰服したアイヌの首長12人の列像(「夷酋列像」)を描いたことを彦九郎に告げ、その序文を示した。序文は、アイヌ鎮定を正当化し蝦夷地支配への幕府の介入を牽制するという、列像制作の政治的意図を物語っていた。
その意図を彦九郎が見抜いた形跡はない。
確かなのは、彦九郎に蝦夷渡海の許可を乞われた蠣崎が、即座に拒んだこと。
あとで列像の現物をみた彦九郎がその天覧実現に貢献したのも、駆け引き含みだと思われるが、蠣崎側のその後の対応をみると、利用されたのは彦九郎だったようだ。
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