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寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第3回 ブルガリア篇(3)

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ブルガリア篇(3)トラム乗り場のできごと


アレクサンダル・ネフスキー寺院へ

 帰路は再びバスで(さいわいドライバーは別の人だった)来た道を戻り、街の中心地にあるアレクサンダル・ネフスキー寺院まで足をのばした。
金ピカの丸屋根をいただいた巨大なこの寺院周辺は、現代ブルガリア小説を代表する作家のひとり、パーヴェル・ヴェージノフ『消えたドロテア』の主人公ふたりが出会った場所であり、1970年にソフィア大学に留学した八百坂洋子の青春エッセイ『ソフィアの白いばら』にも繰り返し登場する、ソフィア街歩きのハイライトともいえる界隈だ。

 寺院は19世紀後半、ブルガリアがロシアの支援でオスマントルコから解放されて公国になったのち、戦争で失われたブルガリア人8万人、ロシア人20万人の慰霊のために建てられた。
バルカン半島最大といわれる巨大な規模と、12ものドームが重なった不思議なシルエットに息をのむ。国や王にとって“巨大さ”こそが力や威信の象徴なのは古今東西、変わらないのだな。

内部には聖書や聖人たちの壁画が描かれているらしいけど、リラ僧院での湯あたりならぬ“宗教画あたり”で脳内メモリーがすでにフルだったため内部には入らず、周囲を少し散歩して帰途に。
近くの乗り場でトラムを待っていると、学生ふうの若い女性に、どちらから、と話しかけられた。
 日本の東京です、と答えると、ひと通りリップサービスをしてくれたのち、そういえば、という感じで当時の総理大臣の名を、○○でしたっけ……というニュアンスで訊かれた。
すぐ近くにあるソフィア大学の学生かもしれない。
欧州の片田舎にある共産国から1989年の共産党独裁体制の崩壊を経て、東欧初の民主的憲法が採択された国で生きる人々の政治や社会への関心の高さは事前に聞いていた通りだ。
どこかの国の民のそれがあまりに低すぎるのだけど。ともあれ、なにげなく口にされた問いに不意打ちをくらったようにドキドキした。
私はまったく支持してない、と応えると、大きくうなづいて私の目をしかと見つめ、彼はfar right(極右)? と言う。

 日本ではマスコミも忖度して口にしない事実が、遠いソフィアの学生にさりげなく認識されていることへの驚きと、far rightな人が首相を務める国の民であることへの恥のような感情がこみあげ、その通り、と大きく頷くと私の口ぶりや表情から察したように、お気の毒、というふうに肩をすくめた。

 やがて反対方向行きのトラムに乗り込んだ彼女と、話せてよかった、よい旅を、と手をふり合って別れた。ただそれだけ。でも、その短いやりとりに気持ちが浮上した。人を隔てるのは国や言語じゃない。社会や政治や人間についての価値観なんだ。

アレクサンダル・ネフスキー寺院、大きさと形に圧倒された
見どころを細かくつなぐ街歩きの味方トラムの乗り場
旧共産党本部前。市民にとっては複雑な感情が交差する場所


国鉄でコプリフシティツァへ

 翌朝6時に目が覚め、8時には鍵とカリナへのさよならメモを残してアパートに別れを告げ、ソフィア中央駅からブルガリア国鉄に乗り込んだ。
見た目にはがくぜんとするほど古ぼけた車両だったけど、見かけ以上の速度で国の東西を背骨のように貫くバルカンの山あいを、目的地コプリフシティツァという名の駅まで突っ走って約2時間。

静かな車内でお供に連れてきたロスラフ・ペンコフ『西欧の東』藤井光訳を読んだ。名も知らないブルガリアの街や村を舞台に、今を生きる人々の人生に複雑な影響を与え続けるシリアスな国の歴史を織り込んだ8つの物語は、どれも読後の深い余韻ゆえにいちいち放心してしまう。
放心しながらふと目をあげた車窓に、物語の舞台となった小さな街々や遠い山々が後景に流れゆく……。
小説好きにとってこの世で体験できる贅沢の、おそらくベスト5に入るのではないだろうか。


ソフィア中央駅の出発案内。8時45分発の列車に乗ろう
人影まばらな国鉄乗り場。列車を待つのは2人と1羽と私だけ


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