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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その10 最終回)

呉林俊──激情の詩人の生涯(その10)林浩治


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8)詩人・作家として(つづき)

 1962年頃、呉林俊の絵を見た22歳の音楽大学学生福岡美枝が呉を訪ねる。散歩の途中でふっと立ち寄った小さな画廊で見た呉林俊の絵に興味を持ち、訪ねてきたのだ。
汚い部屋のあちこちにキャンバスが立てかけられ、原稿用紙や本が散らばり、流し台の上まで積み上げられている。生活感がない。

 このとき呉林俊は36歳だった。美枝がピアノを子どもたちに教えて得た収入の大半が、呉の絵の具やキャンパスの代金に消えていった。
しかし美枝は呉林俊に希望を見ていた。
4年後美枝から求婚した。定職の無い呉との結婚に美枝の両親は反対した。美枝は両親を説得して、呉の差し出すべき結納金まで自分で用意した。

 結婚の前、呉林俊は足利の民族学校で美術教師をしていたが、朝鮮総連は日本人との結婚に反対で、結婚式の翌日「出勤に及ばず」の手紙が届いた。

 呉林俊は以前から苦しんでいた関節リュウマチの痛みをイルガピリンで抑えていた。呉は処方の倍を服用し続けた。
 1973年8月18日夜半心臓発作に見舞われ救急車で運ばれた。
9月1日に共立講堂で予定されていた「関東大震災50周年記念講演」の原稿は口述筆記され、当日は代読された。
その翌々日明け方心筋梗塞により急逝した。47歳だった。

 呉林俊と美枝の結婚生活は6年だった。その間美枝は14歳年上の呉林俊に対して歯を磨け、顔を洗えと、子どもに対するように言い続けた。

 1982年12月、呉林俊の遺作展が川崎の市民ギャラリーで開催され31点が公開された。

 1984年9月美枝は民主化前の韓国へ呉林俊の故郷を訪ね、馬山(マサン)に引っ越していた弟妹を探し出すことができた。

 在日韓人歴史資料館は2009年9月3日から12月3日まで、第5回企画展「差別と闘った詩人、画家、評論家―呉林俊展―」を開催した。「飯場」「浅間山」「老人」などの絵画8点と、呉林俊の生涯を伝えるパネル10点、著作、原稿、スケッチなども展示された。
11月7日には記念セミナーが開かれた。講師は当時の影書房代表松本昌次だった。

 呉林俊の絵の多くは伊東覚が保管した。韓国霊岩郡立河正雄美術館にも一部が保管されている。(了)

呉林俊「海と空」1964年 15号(伊東覚氏所蔵)
『呉林俊 33年忌記念誌』より

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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆参考文献


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