見出し画像

林浩治「在日朝鮮人作家列伝」06 高史明(コ・サミョン) (その8)

※ ↑ 血のメーデー事件「暴徒と警官隊」(写真詳細はページ末に)

(その7)からのつづき
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」総目次

高史明コサミョン──
暴力と愛、そして文学
―パンチョッパリとして生きた (その8)


8)血のメーデーと火炎瓶闘争


 翌1952年5月、いわゆる「血のメーデー事件」が起きた。
東京メーデーは明治神宮外苑で午前10時30分から約15万人が参加して開催された。
サンフランシスコ講和条約反対のデモ隊が、使用不許可となっていた皇居前広場に入り警官隊と衝突した。
警察がデモ参加者に向けて発砲したため死傷者が多く出た。

 天三は5月1日の朝、デモ隊を皇居前広場に誘導する役目が与えられていた。皇居前広場を「人民広場」と呼び変えていた。
デモ隊の前にピケを張って誘導したが、追い払おうとする警官隊との激突が始まった。
警官隊は警棒で殴るだけでなく、遂に拳銃を水平に構えて発砲した。

血のメーデー
ソース:毎日新聞社「昭和史第14巻 講和・独立」より。
撮影:1952年5月1日
著作者:不明  パブリックドメイン  スキャン・編集:あばさーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 より


 金天三は竹竿を構えて警官隊に突進した。
 この日から金天三は新しい逃亡者になった。


 同年同月の30日、新宿駅東口広場で大量の火炎瓶が投擲された。
突然のデモ行進が始まり機動隊と衝突。
共産党の軍事方針が実行されたのだった。
火炎瓶闘争を繰り広げるデモ隊に群衆は加わらなかった。
金天三は群衆の中にいて、人民は野次馬に過ぎず共産党を支持してはいないと感じた。

新宿駅事件(1952年6月25日)(引用者注:5月30日の事件とは別)
ソース:『アサヒグラフ』 1952年7月16日号
著作者:朝日新 聞社  パブリック・ドメイン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B8%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8Aより

 
 翌日この事件について地下組織の各部責任者が招集されて討議された。
軍事部門の責任者は「大成功」と評価した。
デモに加わらなかった天三はたいした成功だとは思わない、と反発した。
これをきっかけに金天三は日和見主義者のレッテルを貼られるようになった。

 天三は党の指示に内心反発しながらも、日和見主義批判に忠実であろうとした。分裂していたのだった。
 この頃天三が共産党から支給される活動費は僅かで、食べていくのままならないほどだった。

(その9)へつづく

(その7)へもどる
(その1)へもどる(著者プロフィールあり)
マガジン 林浩治「在日朝鮮人作家列伝」トップ
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」総目次

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆参考文献

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
*リンクなどのご紹介は大歓迎です! ありがとうございます!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ヘッダーの写真:血のメーデー事件「暴徒と警察官」
ソース:中日新聞社「戦後50年」より。
撮影: 1952年5月1日
著作者:不明  パブリック・ドメイン
スキャン・編集:あばさー
アップロード: 2008年5月5日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?