林浩治「在日朝鮮人作家列伝」06 高史明(コ・サミョン) (その9)
※ ↑ 1950年頃の共産党本部(写真詳細はページ末に)
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高史明──
暴力と愛、そして文学
―パンチョッパリとして生きた (その9)
9)恋愛と査問
その年の夏、下町の倉庫街にある非合法機関紙印刷所に足を運ぶと、顔見知りの女子大生が印刷助手として来ていた。
金天三は、党の非合法機関紙「平和と独立のために」の発行責任者で学生対策部の常任として、共産党お茶の水大学細胞のキャップだった彼女と会う機会があったが、そのときはまだ名前も知らなかった。
そのとき彼女は組織名「北慶子」を名乗っていた。
貧しい常任活動家だった天三に彼女は持参した弁当を分けてくれた。その日から二人は急速に親しくなっていった。
しかし二人は党員として恋愛さえも組織方針に従わなければならなかった。二人は組織に恋愛を報告した。組織は認めず直ちに思想点検に入った。
金天三は過去の言動にさかのぼって査問された。山村工作隊員時の言動についても調査された。山の基地で新聞記者と交わした会話は組織の内情を暴露する裏切り行為ではなかったか。
また、火炎瓶闘争に対する発言は日和見主義ではないか、日和見主義の行き先としての恋愛だろ、と追及された。
「ブルジョア的な堕落だ」と言う者もあった。
党員はどのような決定であっても身命を賭して従うのが党の原則というものだ、と言われた。
天三は党組織の監視下におかれた。
天三は被告として係争中であったが、党の方針に従って地下に潜った逃亡者だった。党を辞めてもいくところがない。党員活動を停止されてアジトにうずくまるしかなかった。
10)自己批判
結局、党の方針を信じられない天三は簡単な自己批判書を書き、谷底の貧民街に派遣された。
1953年晩秋、氷川下(現在の文京区千石と大塚のあいだの低地で中小企業の多い労働者街だった)の製本所で働くことになった。
製本所では1日10時間働いて200円足らずの時間給だったが、朝はコッペパン1個、昼はかけ蕎麦が食べられ、夜にはコッペパンにコロッケを足すことができた。
地下組織の活動家だったときの貧しい飢えの日々に較べればまだましだった。
活動停止を解かれた天三は、学生党員二人が住む、コンクリート塀に垂木をかけトタン板を張り付けただけの掘っ建て小屋に移った。
ここで天三は「二心者、スパイ、堕落分子、敵の手先」などの言葉が頭のなかで響き次第に食事が摂れなくなっていき、吐き気もおこって衰弱していった。
1954年の年が明けると、大量のたばこの吸い殻を水に溶かして飲み込み自殺を計ったが死ねなかった。
この間、53年3月にスターリン死去、7月には朝鮮戦争休戦協定が実現したが、金天三はまったく知らないでいた。
53年7月といえば、党との激しい葛藤に苦悩し、北慶子と出会った頃だった。朝鮮戦争は休戦しているのに、党は軍事方針を実行しようとしている、軍事方針は間違っていたのではないか、という疑念がまた湧き上がる。
しかし天三は、第五回全国協議会決議の学習にやっきになり、自己の日和見主義を押さえ込むために党の点検運動に積極的になっていった。
点検されていた天三が点検する側にまわった。
天三はスターリンや徳田書記長を批判する学生党員を糾弾する側になった。機関紙読者の獲得に励み、新党員を獲得していった。
優越感に溺れ「堕落分子」を嘲笑した。
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◆参考文献
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※ヘッダーの写真:1950年当時の日本共産党本部
著作者:不明
ソース: 朝日新聞社「アルバム戦後25年」より。
スキャン・編集:あばさー
パブリック・ドメイン
撮影: 1950年6月1日
アップロード: 2012年2月4日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A より
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