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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(5)

(↑ 林子平作「蝦夷国全図」天明5(1785)年、和泉市久保惣記念美術館蔵
  「和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム」から引用)

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 真葛工藤家のたどった運命は、列島の状況の推移と切り離せないものだった。
 「女の本になりたい」と真葛が志した明和8年(1771)、政治犯としてカムチャツカに流刑になっていたハンガリー人モーリツ・ヴォン・ベニョフスキー(1746-86)が、船を奪って逃走し日本に立ち寄った際、長崎のオランダ商館あてに書簡を送り、ロシアには蝦夷地侵略計画があると告げた。この極秘情報は、オランダや長崎通詞の口を通じて知識人たちに知れわたり、危機意識にもとづくロシアへの関心を刺激することになった。  

 平助はオランダ語ができなかったが、友人の蘭学者たちが訳したロシア関係の蘭書を通じて情勢把握につとめたほか、松前出身の弟子米田元丹らを介して蝦夷地の情報を得て、天明元年(1781)4月、「カムサスカ、ヲロシヤ私考の事」を書いた。
すると時の老中田沼意次(1719-88)の用人が工藤家を訪れ、平助に問うた。「わが主人は富にも禄にも官位にも不足がない。ただ、後世の人の役に立つことをしたいと願っておられる。何をしたらよいのだろうか」(『むかしばなし』)。
この面談ののち平助は、先の論考に前段部分を書きくわえ、天明3年(1783)1月、『加摸西葛杜加カムサスカ国風説考(通称赤蝦夷風説考)』を完成させた。 

工藤平助著『赤蝦夷風説考』(写本、選者:最上徳内、校訂者:本多利明) パブリックドメイン、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/

 そのなかで平助は、ベニョフスキー情報は対日交易の独占を図るオランダの利益と合致するとみて、ロシアの意図は侵略よりも日本との交易路の開拓であると論じ、幕府主導の対露貿易を提案した。そして、抜け荷の摘発に注力するより北に港を開き、蝦夷地の開発と交易路の開拓に着手することこそが「国益」増進の良策であるとした。この提言を田沼老中は聞き届け、蝦夷地調査隊の派遣を実施した。
井伊の若き当主直富(1763-87)に嫁いだ詮子に従い井伊家に移っていた真葛に、おれはどれほど出世するかわからぬ、今結婚を急いであとで妹たちのほうが良縁を得るのはよくない、もう少し待てと平助が言ったのは、このころのようである。平助は、自分が蝦夷奉行になれると期待していた。

 だが、工藤家の衰運のきざしが真葛の前に現われたのもこの時期のことだった。天明4年(1784)12月、思い出多い築地の工藤家が火事で焼失。
同6年(1786)2月、嘱望されていた弟元保(長庵)が22歳で死去。
8月、死者100万人以上と目される天明の大飢饉への無策の責任をとらされる形で、田沼意次が老中を罷免。
翌7年(1787)2月、祖母ゑんが死去。
6月、松平定信が老中に就任、蝦夷地調査を中止
その7月には、井伊直富早逝。最後の治療に平助が呼ばれたが、それは伊達家から嫁いだ妻を立ててのことで、井伊家の医師の名誉を慮った直富は平助の投薬に従わず、結果的に平助の評判を落とした。

 寛政元年(1789)の冬、直富の死を区切りに奥奉公をやめていた27歳の真葛に、平助が、鶴岡酒井家家中某との縁談を強いた。
向うは年寄りらしいが、お前だって年を取っているじゃないか。
父のこの言葉からうけた衝撃と傷を、真葛は生涯忘れない。
嫁いでみると、見るからに醜悪な風体のその老人に、わしは5年ももつまい、あとのことはよろしく頼むと告げられる。
泣いてばかりいたので親元に帰されたと、『むかしばなし』は短く語る。その男は名さえ記されていない。真葛が思いきって「泣きぼくろ」を取ってしまったのはこのときのことだ。

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