見出し画像

林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その8)

呉林俊──激情の詩人の生涯(その8) 林浩治


←(その7)からのつづき

7)画家として生きる


 1955年晩秋、横浜市内の東横線綱島駅側の狭い赤提灯「新駒」に入った呉林俊は、座るないなや、アメリカ、日本政府、韓国の軍事政権を大声で罵り始めた。そして先客だった大学生の伊東覚と親しくなった。
 伊東はそのときの呉林俊に名前と仕事を聞いた。
 呉林俊は、
「俺の仕事は絵描きだ、誰も俺のことを絵描きと思ってネーノサ、馬鹿共が。呉といえば、詩とか机の上で書きたくってると決めつけているのよ。正体は画家ナノサ」と応えた。
 
 呉は絵を描き始めると一週間以上、場合によっては数カ月に渡って雨漏りのする部屋に籠もって、寝食を惜しんで創作に没頭した。

 伊東は一週間ほど経って呉林俊の家を訪ね、呉の絵を初めて鑑賞し、憤怒と孤愁に曙光というべき希望と絶望が同居していると評価した。

呉林俊(個展画廊にて)『呉林俊 33周忌記念誌』より

 キャベツだけを丸かじりしているような食生活の呉を、伊東は自宅に招くようになる。伊東は留守中でも、呉が自由に出入りし机の引き出しから金銭を拝借したり腹一杯食事ができるように母に頼んでいた。呉は覚の下着まで自分のものとして着替えて行った。伊東覚から引き出した金銭は画材屋の借金返済や赤提灯で飲み代に消えた。

 覚が大学を卒業して教員として会津に赴くと、今度は保育園を経営していた覚の母きよのが林俊の面倒をみるようになった。
この保育園は元綱島朝鮮人部落から近く、朝鮮人幼児も少なからず通っていた。また保育園での保育終了後に、子ども相手の呉林俊絵画教室を設けて月謝が呉の収入源になるように計った。

呉林俊のスケッチ『呉林俊 33周忌記念誌』より

 後に伊東は「わたしが呉林俊であり、呉林俊がわたしなのだ。わたしたちの間に美枝さんなど無いに等しい」と、呉林俊の妻である美枝と美枝の紹介で伊東の取材にきたやまぐち・けいに語っている。
 きよのは呉林俊に強引に誘われては、在日朝鮮人の諸々の会合にも出かけた。

 この頃から呉林俊はリウマチの痛みに苦しめられていたが、健康保険証を持たない在日朝鮮人であったため、通院はしなかった。
国民健康保険には1986年まで国籍条項があった。)

→(その9)へつづく
←(その1)へ(著者プロフィールあり)
マガジン 林浩治「在日朝鮮人作家列伝」トップ

*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆参考文献



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?