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僕の原点

おはようございます、1,100円もするジェットストリームを無くしたので、新しく同じのを買い直したけど、その日のバイト先で見つかったトラです。

今日は、自己分析をしているうちに見えてきた僕についてを書きたいと思います。過去を振り返っているので、少々長くなります。
「不思議なポジション」と後輩に言われたことについてしばらく考えていましたが、そこと繋がっている気がします。

なんでもできた幼少期

小さい頃から比較的なんでもできました。できるまでの時間はかかっても、できた後の成長率が他の子より飛び抜けていたと思います。
レゴブロックが好きな子、バレーボールが好きな子、カードゲームが好きな子など周りにいた子が本当にキャラが全く違っていて、反対に僕はどれにも興味があり、全てに手を出していました。

当然、多方面に手を出しているので一つを身につけるまでの時間は他の子より長くかかりました。
でも、ある程度わかってきてからは、これを組み合わせればレゴですごいドラゴンができるだとか、この子にとって打ちやすいトスはここだろうなぁとか、とりあえず創意工夫の方面に優れていたと思います。

今でも、突発的なアイデアや人の行動を見ているのはこの創意工夫が培われている気がします。

「期待」という名のプレッシャー

ありがたいことに家族にも恵まれて、小さい頃から色々な習い事をやらせてもらいました。
サッカー、バスケットボール、水泳、ピアノ、スキー、パルクール、塾。
これほど習い事をしていても、自分から好きで「やりたい!」と言ったのはサッカーだけです。
こんな言い方は良くありませんが、他はどれも習わされた、なんとなくやってみたが近いです。

先ほども書いた通り、身につくまでの時間は長いですが、身についてからは物凄いスピードで成長します。
水泳は全道の大会でベスト4に、ピアノは小さい頃から始めていたので神童とチヤホヤされた時期もあります。スキーでは何度も優勝し、実家にはトロフィーや盾が数個あります。

サッカーでも僕の代までは弱小校で一回戦負けだったチームも次第に決勝リーグは当たり前までのチームに育っていきました。
性格もあるのか、技術だけではなく、チームの中心にいることが多くなりました。
中学からは地元を出て、札幌のサッカークラブへ行くことが決まりました。
でも、心から笑えていなかったのを今でも覚えています。

その理由は、周りや家族からの「期待」という名のプレッシャーにあったと思います。なんでもできて、結果を残すとなれば、期待する気持ちもわからなくありません。

でも、好きな曲を弾いている時は楽しいですが、だからと言ってピアノが好きなわけではありません。
水の中にいるのが好きだからといって水泳が好きなわけではありません。

イナズマイレブンに憧れてサッカーボールを追いかけ回していた気持ちは既にどこかへ消えていました。

ミスが怖い

期待に応えなければいけないプレッシャーから、失敗できないという気持ちが派生して生まれます。

パス一つ、鍵盤を一つ、バトンタッチ一つ、自分の間違い一つで全てが崩れる、と思うとミスするのが怖くなった時期がありました。
「失敗してはいけない」という思いからミスする自分の足や手が怖いという末期症状まで出ていました。
自転車の事故でしばらくサッカーができなくなった時、ホッとした自分がいたのを今でも鮮明に覚えています。

当時の僕の考えと先に断っておきますが、スランプと言って何もかもうまくできない人は言い訳しかしていない、努力をどこかでサボったからだ、諦めたからだと決めつけ、仲間のことは嫌いじゃないけど苦手だと思っていた時があります。

自分にも周りにも嫌になった時、風船のようにフワフワしていて、心ここに在らずと言った感じでした。

やめればいいんじゃない?

そんな心がどこかへ行った自分でしたが、卒業して何年後かにサッカー少年団の監督と話した時に全てを見透かされたのを覚えています。

「やめればいいんじゃない?」

聞いたこともない言葉でした。期待をされ、結果を残すために何年も続けてきた自分にとっては衝撃的な瞬間でした。

「やめても大丈夫。期待されていなくても自分の存在は認められる。」
みたいな言葉をかけてもらった気がします。
その時の会話からスッと浄化され、今の自分があるような気がします。

いつの間にか、自分はあらゆることに対して「なんでもできなきゃいけない」「好きでなきゃいけない」と考えて込んでいたんだと思います。
「『なんでもできる自分』を周りに見せて期待に応えないといけない」と。

でも、現状の自分は現状のままです。
高望みや理想を掲げたところで、現状から何も進歩していません。
自分より賢いやつ、運動神経がいいやつはたくさんいて、費やした時間もそのものに対する執念も敵わない奴らがたくさんいます。

じゃあ、自分にできることは何かと考えると、「とりあえず、前に進むこと」はできる。
そう思えるようになると、力が抜けていくのがわかった気がします。

足枷はもう何もない

大学受験に失敗してからなおさら、この考え方に落ち着いた気がします。
良い大学に行って大企業に就職するという「理想」や受験に失敗してもう未来がないという「ミスの罪悪感」、期待に応えてほしいという「想い」はもう持ってません。

足枷はもう何もない。

そう思うとどこへでも行ける気がします。
現に今、自分のやりたいことに取り組んでいられます。
そして、辛くなったやめることもできます。

自分に余裕が生まれたんだと思います。
心から「あいつが失敗しやがった!」と憎むことはありませんし、自分の理想を押し付けることも無くなりました。
(性格が悪いのでニヤニヤしながら追い詰めたりはします。)

そして、動けない人の気持ちもなんとなくわかります。
足枷が外れていないんだと思います。
そう言った人たちは意外にも多い。

まとめ

自分が「今」を重視していることやグサッとくるような発言ができるのもこの足枷がないことが関わってきていると思います。
長期的な目線と言いつつも、そこに自分の理想が含まれている場面が多々あります。
「現実を見る+余裕がある+足枷がない」という姿が不思議と言われる理由なのかなとも思います。

「足枷が何もない」は自分の強みなのかもしれないとわかったところで終わりたいと思います。
とても長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
良い1日を!

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