ツリーチャイム

 俺がまなみさん、と呼ぶと、みんな真実さんや愛美さんと変換して、彼女でもできたのかと言う。実際のまなみさんは真実の波と書いて真波さんだ。これは真波さんの自己紹介でもある。
 真実の波は透明と書いて、真波透です。
 これが真波さんのいつもの自己紹介。真波さんと僕は幼馴染だ。真波さんは昔からなにかと漢字を間違われたり、女子だと思われることが多かったから、こんなへんてこな自己紹介を発明した。真波さんは僕より五つ年上で、いま二十二歳。就活と卒論に追われる大学四年生だ。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
 うかうかしていると、やれポテトチップスが食べたいだの、新作のオランジェット味のハーゲンダッツを買ってきてだのと注文が飛んでくるので、早々に家を出る。
 コンビニまでは徒歩五分程度だ。夜は気温こそ下がるものの、夏に歩くにはすこし汗が滲む距離だ。外に出ると、示し合わせたように真波さんも隣の家から出てきて、俺に並ぶ。
「なに」
「コンビニに行くんじゃないの? 僕も行くだけ。どうせなら一緒に行こう」
「どうしてコンビニに行くってわかるの?」
「悩める子羊は夜の灯りに吸い寄せられるものだからね」
 なにそれ、と呟けば、真波さんは、本当は君のお母さんに言われてるんだ、心配だからついてってくれって、と笑った。
「俺もう高二だよ。心配しなくていいのにな」
「まだ高校生だろ、ひとりで歩いてたら補導されるんじゃない?」
「補導される時間までまだ一時間もある」
 真波さんはそれ以上なにも言わなかった。だから俺もなにも言わなかった。ふたりで肩を並べて歩く。ずっと昔から、真波さんの方が背が高かったのに、いつのまにか並ぶようになってしまった。成長は永遠じゃないのだ。五つの歳の差は埋まらないけど、体の作り自体は俺も真波さんもそう変わらない。もっと言えば、真波さんは体が薄くて縦に長いので、俺よりも華奢に見える。
 俺は、真波さんの短く切り揃えられた毛先を見た。電灯に照らされてチカチカとする毛先を。真波さんは子供の頃から髪を長く伸ばしていて、大学に入ってからも一本の三つ編みにして後ろでしばっていた。体躯や雰囲気も相まって、よく似合っていた。切ったのは就活のせいだ。俺は真波さんの長かった髪が好きだったので、ため、ではなく、せい、だと思う。
 真波さんが髪を解いたのを何度か見たことがある。柔らかくて、けれど一本一本が芯の通っている髪の毛は、三つ編みを解くときしゃらしゃらと波打つ。それが、小学校のとき音楽準備室にひとつだけあった楽器みたいだなとずっと思っていた。長さの違う金色の細い筒が、吊り下がっているあれ。名前も知らないあの楽器も、真波さんみたいだったから好きだった。
「内定、決まった?」
「決まったら言ってるよ」
「もう七月だよ、やばいんじゃない?」
「初くんは詳しいなあ。まあ周りも七割がたがひとつは内定を貰ってるよ」
「就活浪人だ」
 冗談半分で言えば、真波さんは、そうなったらどうしよう、と笑った。否定しないあたり、なかなか切羽詰まった状況なのかもしれない。
 コンビニの目に痛い灯りが視界に入ってきて、駆け寄る。まっすぐに菓子パンの棚を見る俺に、夕食を食べたんじゃないの? と真波さんは訊いた。
「食べたけど、こんくらいの時間にはもうお腹すいてる」
「若いなあ」
 真波さんは、冷蔵庫からミネラル・ウォーターを一本持ってきただけだ。それだけでいいの? 訊き返せば、もとから欲しいものがあったわけじゃないし、喉も渇いたしね、と彼は言った。
「俺、金払ってまで水買う人の気持ちわかんないな。コーラとか買った方がいいじゃん」
「初くんも大人になったら、結局水が一番おいしいってなるよ」
 そんな大人ならならなくていい。そう思ったけど、どうせ、子供はみんなそう言うよなんて言われるだけだったからやめた。でも俺は本当は、真波さんにだってなってほしくなかった。水を買うような大人にも、就活のために髪を切るような大人もなってほしくなかった。俺はなんだか自分がひどく惨めになって、目の前にあった卵蒸しパンを取った。それを、真波さんはひょいと取り上げてレジカウンターへ向かう。いいって! 背中を掴もうとすれば、こういうときは年上に甘えておくんだよ、とかわされる。
 コンビニから出て、真波さんは水を一口飲んで伸びをした。俺は卵蒸しパンの封を切って、かじりつく。
「あ、行儀悪い」
「いまどき買い食いなんて普通だよ、真波おじさん」
 おじさんはひどいなぁ。真波さんは渇いた声で笑う。
 ねえ、髪伸ばしなよ。俺はそう言いたいのを堪えて、卵蒸しパンを飲み込んでいる。

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