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依頼者と翻訳者の認識の「ずれ」を考える ~たった3単語でも簡単とは限らない

こんにちは。レビューアーの佐藤です。翻訳の仕事をしていてよく困ってしまうのは、「この1フレーズだけサクっと訳して!」という依頼です。お客様からすれば「たった数ワードなんだから5分ぐらいで訳せるはず」というお考えなのでしょうが、翻訳者の視点からすると、そう簡単には済まないことがあります。この認識の「ずれ」は意外と大きく、お互いに不満を抱える原因になっている気がします。そこで、なぜ「サクっと翻訳」できない場合があるのかを、翻訳者視点でご説明したいと思います。

たった3ワードでも、考えることはたくさん

ある日、通信機器メーカーの翻訳案件を担当する外部のプロジェクトマネージャーから、こんな依頼メールが舞い込みました。普段は私たちが翻訳を担当していないプロジェクトについての、緊急リクエストです。

次のフレーズを大至急で翻訳してください。
【原文】
Router Firewall Plus
【コンテキスト】
・コンピューターネットワーキングに関するフレーズです。
・"router"、"firewall"の意味は、それぞれリンク先を参照してください。(※)
・"plus"は、拡張機能の強化版を指します。

※"router"、"firewall"については、英文Wikipediaへのリンクが貼られていました。

実際の依頼メールは英文でしたが、わかりやすいよう日本語化しました。与えられた情報はこれで全部です。さて、この"Router Firewall Plus"をどう訳せばいいでしょうか?

"router"も"firewall"も基本的なネットワーク用語なので、何を意味しているかは(Wikipediaを見なくても)理解できます。"plus"についても、依頼メールに説明があるので、だいたいの意味はわかります。じゃあすぐ翻訳して納品できるね!と普通なら思うところですが、翻訳者視点からすると、話はそう簡単ではありません。

まず大きな壁になるのは、私たちが普段担当していないプロジェクトであるという事実です。依頼してきたプロジェクトマネージャーの状況を想像すると、「大きなプロジェクトのなかの1フレーズだけが何らかの理由で未翻訳だったことが発覚し、急に翻訳が必要になったが、いつもの翻訳者がつかまらなかった」というところでしょう。たった3単語なら誰でも簡単に翻訳できると思ったのでしょうが、いつもの翻訳者でない私たちには、わからないことがたくさんあります。

表記規則はどうする?

まず、いつもの表記規則がわかりません。いつもカタカナの長音記号(ー)をどうしているのか、カタカナ複合語をどう表記しているのかがわからないと、いつもの翻訳者が訳した部分との整合性がとれません。具体的には、

・"router"は「ルーター」か「ルータ」か?
・"firewall"は「ファイアウォール」か「ファイアーウォール」か?
・仮に「ルータ」と「ファイアウォール」だとして、その間に中黒(・)を入れるのか、半角スペースを入れるのか、何も挟まずに連結するのか?

といった点が気になります。過去の翻訳やスタイルガイドを見て表記規則を確認するという方法もありますが、この依頼ではいずれも支給されていませんでした。そこで、表記規則を確認できる資料を新たに請求するか、クライアント企業の公式サイトなどを見て表記規則を推測するかの二択になります。いずれにしても、一瞬でぱっと確認できるものではありません。

本件の場合は時間がなかったので、公式サイトを参考にして、「長音記号はあまり使わない」かつ「カタカナ複合語は直接連結する」というルールを採用することに決めました。

そもそも何を指すフレーズ?

表記規則の方向性を決めたところで、実際に"Router Firewall Plus"をどう訳すかですが、よく考えると、このフレーズが何を指しているのかよくわかりません。依頼メールに書かれている「コンテキスト」は、IT系の翻訳者なら特に説明されなくてもわかる内容です。3つの単語それぞれの意味はわかりますが、それを組み合わせて何を言いたいのかは不明瞭です。

この状況で"Router Firewall Plus"をなんとか訳すために、翻訳者はどのような思考を巡らせるでしょうか?私の場合はこんなことを考えました。

「各単語の先頭が大文字ということは、製品名だろうか?」
   ↓
ネットで検索するも、それらしいものは見つからず
   ↓
「何かの機能名か、見出しの可能性もある?」
   ↓
「機能名なら英語ママでOKとする場合もあるが、わざわざ翻訳依頼が来ているので訳さざるを得ないだろう。じゃあどうする?」
   ↓
「単純に訳すと『ルータファイアウォールプラス』になってしまい、カタカナが続いて読みにくい」
   ↓
「"Router Firewall"と"Plus"に切り分けて訳してみたらどうなる?」
   ↓
「前半は『ルーター機能付きファイアウォール』でいいかもしれないけど、『プラス』の扱いに困るな……」
   ↓
「いろいろ考えあわせたら、一番無難なのは『ルータファイアウォールプラス』かな。とりあえず機能名っぽいし」

わずか3単語ですが、最終的に「ルータファイアウォールプラス」という訳に到達するまでにこれだけのことを考えました。結果だけを見比べると、"Router Firewall Plus"から「ルータファイアウォールプラス」への翻訳はごくシンプルで、1分程度で終わるように見えるかもしれません。しかし、それほど簡単な話ではないのです。

単語の意味がわかるだけでは、「翻訳」はできない

一般的に、全体の中から切り取られた短いフレーズだけを翻訳するときの方が、格段に時間がかかります。同じフレーズでも、大きな文書の流れのなかで出てくるときは、話の展開や主な用語が頭に入っていますし、表記規則も整理されているため、あらためて調べなおす必要はありません。今回例に挙げた"Router Firewall Plus"も、大きな文書のなかで出てきたならば、なかば機械的に「ルータファイアウォールプラス」という訳語を導き出せたはずです。しかし、その条件が成立しない場合には、「ワード数が少ない=簡単に早く翻訳できる」という発想は必ずしも正しくありません。

そして、今回ご説明したような表記規則、視覚的な読みやすさ、文脈における意味合いなどを考えあわせて最適な訳語や訳文を作り出すのが「翻訳」という作業です。"router"、"firewall"、"plus"の3つの単語の意味がわかっても、それを単純につなげただけでは翻訳になりません(ただ今回の例のように、結果的につなげただけに見えるケースもあるのが難しいところです……)。こういった事情を依頼者の方にもご理解いただくと、お互いに気持ちの良い仕事ができるのではないかと常々思っているため、この機会に書かせていただきました。

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