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皮とあんことブラジル食堂 ~イメージの街・中目黒<後編>~@バビロン再訪#43


バブルの前は戦前から続く昭和の東京がかろうじて残っていた



向田邦子は「中目黒っ子」だった(「イメージの街・中目黒<前編>」)。

実はわたしも「中目黒っ子」だった。住所も向田邦子が住んだ同じ中目黒三丁目。中目黒四丁目にもほど近いところ。

とはいえ向田邦子のように多感な年齢の時に暮らしたわけでないので、わたしの場合は、さしずめ「非正規」の「中目黒っ子」というわけであるが。

わたしが「中目黒っ子」だったのは、70年代後半から80年代前半のバブルの前の数年間。

バブルは昭和60年代(1980年代後半)の出来事であり、向田邦子がさまざまに描いた「卓袱台のある暮らし」が失われ始めた昭和30年代(1960年前後)からすでに20年以上が過ぎており、戦前から続く昭和の東京は、その頃にはあらかた消えてなくなっていたものの、その残り香は、まだかすかに感じられた。

向田邦子が描いたのは東京の「あんこ」の暮らし


槇文彦は、バリー・シェルトン『日本の都市から学ぶこと ―― 西洋から見た日本の都市デザイン』(鹿島出版会、2014年)に掲載された日本の都市の典型を描いた図を引用しながら、「日本の大都市は都市形態学的に見ると「皮」と「あんこ」でできている」と述べている(『アナザーユートピア』)。

「皮」とは大通りの沿道に高層建物が貼りついた様子を、「あんこ」とは「皮」に囲まれてその内側に広がる低層建物が密集する様子を、それぞれ表現したものだ。

そして「東京にはいたるところに、良いあんこに相当する場所が残っている。それが東京を世界に例の少ないヒューマンな都市にしてくれているのだ。皮だけの街は退屈なものだ」と言っている。

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■中目黒四丁目の住宅地

向田邦子が住んでいたのは山手通りの南側に広がる中目黒の「あんこ」の木造一戸建てだった。

向田邦子が描いた「卓袱台のある暮らし」とは言い換えれば「あんこ」の暮らしだといえる。関東大震災後に「あんこ」を舞台に生まれ、戦前、戦後と継続されてきた昭和の東京の暮らしだ。

バブルで激変したのは、主に「皮」の部分だ。「皮」の部分が残らず高層化した。それに比べ「あのこ」の部分は、道路が狭く複雑に入り交じり、容積率も低いことから、派手な開発や大規模なビルの建設などが難しく、宅地は細分化され、住宅は軒並み建て替わりはしたものの、「あんこ」が育んできた、静かで、落ち着いて、ヒューマンな環境は、さほど変わらずに今日に至っているところが多い。槇文彦の言う「良いあんこ」だ。

わたしが住んでいたのは、そうした「あんこ」ではなく「皮」にあたる山手通り沿いに建つ8階建ての賃貸マンションだった。

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■山手通り 中目黒三丁目付近

今でこそ山手通りの沿道は、両側にびっしりと高層の建物が建ち並んでいるが、バブルの前は高層の建物は今よりもずっとまばらで、建物による壁よりも隙間の方が目立つ街並みだった。隙間には木造の一戸建てや商店や飲食店や小工場などが建っていた。

「ブラジル食堂」。あるいは食堂のかたちをした「昭和」


そんな山手通りの隙間に、戦後の「昭和」がそのままに、その店はあった。

白地に手縫いの大きな紺の文字で「ブラジル食堂」と縫い付けられた、年季の入った暖簾がかけられていた。暖簾はあまりに横長だったので、真ん中あたりで撓んでいたような気がする。

ブラジルと言いながら、店はごく普通の定食屋だった。より正確に言うと、実質と価格がウリの大衆食堂だ。そこにはブラジルを感じさせるものは微塵もなかった。

四間間口いっぱいの木枠の硝子戸、コンクリートの土間、デコラ貼りのテーブル、アルマイトの灰皿。おかずは作り置かれたものが並べられた、入って右のガラスケースから選ぶ方式で、一皿100円に満たないものが多かった。電子レンジで温めるようなサービスはないが、焼き魚などは焼き網で再度あぶってくれた。温かいどんぶり飯と味噌汁がついた。

作り置かれたおかずをガラスケースから選ぶという、昔風情の食堂は、当時ですら珍しかった。

「卓袱台のある暮らし」の時代、つまり、台所が別室にあり、調理器具は限られ、大人数の家族が茶の間の卓袱台を囲んで食事をするのが当たり前だった時代には、おかずはすでに調理されたものが皿に盛りつけられて卓袱台に並べられており、ご飯はおひつに移されて運ばれ、おみおつけ(向田邦子の言い方の真似だ)は鍋ごと鍋敷きの上に置かれ、母親が家族を呼んで、みんなが揃って、さあ、いただきますというのが、普通の家族の食事風景だった。

家族めいめいに出来立てのものを供したり、食べる直前にチンして温めたりなどは、ガスコンロや魚焼き器がビルトインされたシステムキッチンと電子レンジが普及する昭和40年代(1960年代)以降の話だ。

あらかじめ調理済のおかずをガラスケースのなかから選ぶという方式は、人手が限られるなど現実的な問題以上に、こうした戦前から続く「卓袱台のある暮らし」のスタイルが、当たり前に踏襲された結果なのではなかったか。

わたしの定番は鯖塩焼きや赤ウインナーやマルシンハンバーグだった。今でもこの3点に強い執着を感じるのは、そして、これらに関しては、出来立てよりは断然、冷めたものの方が旨いと思うのは、きっと「ブラジル食堂」のこの昭和方式に由来しているのだ。

足の悪い60がらみの父親と思しき店主と30歳台の女性が切り盛りしており、大人はこの2人以外は見かけたことはない。食堂の土間の奥は一段高くなった座敷となっており、時折、小学生の男の子が出入りしていた。店が玄関を兼ね、座敷は自宅で、男の子は女性の子供だったのだろう。

店主は戦前のブラジル移民で、現地での不幸な事故で足を失いブラジルを後にし、再び日本の地を踏んだ。そこには日本では知られてこなかった戦争の悲劇が横たわっていた・・・。

といった具合に、ドラマや小説であれば展開するわけだが、これらはすべて妄想に過ぎず、わたしの「ブラジル食堂」をめぐる話は、木枠の硝子戸や作り置きのおかずが並ぶガラスケースや鯖塩や赤ウインナーの記憶に終始するだけで、残念ながら、これ以上発展しない。

「ブラジル食堂」は80年代まではあったが、バブル崩壊後に付近を訪れた時には建物ごと跡形もなかった。

なぜブラジルなのか。店の名前の由来はついぞわからないままだった。聞いておくんだった、と今になって大いに悔やまれる。

おしゃれスポットとして注目される中目黒。その理由は?


小さな古着屋やここだけのショップなど個性的なお店が集まり、目黒川は沿いは春ともなれば、日本酒よりスパークリングワインが似合うスタイリッシュなお花見スポットとして満員電車並みの人出でにぎわい、ブルーボトル・コーヒーやスターバックス・リザーブ・ロースタリーなど人気のスペシャルティコーヒーショップが出店し、近年の中目黒はすっかり、おしゃれな街、住んでみたい街として注目を集めるようになった。

中目黒がおしゃれな街として広く注目され始めたのは2000年頃からだ。

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■スターバックス リザーブ ロースタリー東京

それ以前の中目黒はといえば、都心寄りの渋谷・代官山と横浜寄りの自由が丘という2大高感度エリアの狭間にあり、駅前には山手通りの騒音しかなく、計算センターや保険会社などの巨大ビルが唐突に建ち、木密店舗や古い商店街、目黒川沿いに建つ大小の工場や事務所、坂や路地が多い住宅街などが入り混じった、はっきり言って、あまりぱっとしない日常の場所だった。

駅前の木密飲食街にあった立ち食い蕎麦屋では、かき揚げそばにちくわ天を乗せた豪華かけそばが280円で食べられ、中目黒四丁目の山手通りには、近所の事務所・工場勤務者を相手にした屋台のラーメン屋やおでん屋が夜になると店を張り、東急ストアの裏手の狭い河畔で花見で盛り上がろうとする人など皆無だった。

界隈でスタイリッシュやおしゃれを求める時は、新道坂を槍ヶ崎の交差点まで息を切らして登って代官山まで出向くか、電車で4駅目の自由が丘に遠征する必要があった。

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■中目黒駅前 東横線高架下

時代はめぐり、中目黒のそんな、ぱっとしない日常性、ある種の辺境性が、逆に希少な価値として浮上してゆく。

高層ビルが立ち並ぶ、非日常の、気張ったスタイルの既存のおしゃれスポットに飽き飽きした高感度層にとって、ぱっとしない日常性は、大いなる魅力に映る。普通であることの大切さ、当たり前をていねいに生きる楽しさ、毎日の暮らしのクオリティに感じる幸せにふさわしい場所として、お店を構えたい街、行ってみたい街、住んでみたい街として、中目黒が評価されてゆく。

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■目黒銀座商店街 和泉屋本店

なんのことはない、そうしたものは向田邦子が愛した戦前からの「卓袱台のある暮らし」がひそかに息づく東京の「良いあんこ」としての中目黒や「ブラジル食堂」の実質の旨さや満足感と同じものだ、と思う。

イメージの街とは地層のようなものだ。都市や街やそこでの営みが、文字や映像や記憶となって堆積した地層のようなものだ。

変貌と喪失を繰り返しながら、イメージの街という地層において、現在は過去と併存し、未来さえも同時に存在しているのだ。


(★)top画像は目黒川の桜

*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」

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