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チョベリグ

本noteは吉澤嘉代子について、または彼女の楽曲について、いろいろ思うことを書くというコンセプトで始めたものだが(ここまで続くとは思わなかったが)、第3回目で取り扱う楽曲は「チョベリグ」である。よりにもよって。頭の中では「未成年の主張」のことを書くつもりでいたが、急遽変更した。いろいろ事情というものがあるのだ。と、主張したい。

音楽というのは先へ先へと新しいものを追いかける楽しみもあれば、過去に遡って掘り下げていく楽しみもある。僕にとっての吉澤嘉代子はその存在を知るのが遅かったということもあり、必然的に過去の楽曲から動画、インタビュー記事を読み漁るという格好になってしまった。そして過去の記事やプロのライターが書かれたレビューなどを読むたびに、自分の批評が的外れであることを知ることにもなり、少々恥ずかしくなったりもするのだった。

ルーツについて

吉澤嘉代子自身が語る音楽性のルーツについて、いくつか誤解していた部分があった。70~80年代のアイドルソング、大瀧詠一のナイアガラサウンドについては重なる部分はありつつも、実はどうやらもっと古い50~60年代といったオールディーズの要素も取り入れているようだった。ここまで来ると僕のような一知半解の音楽知識ではピンとこないのである。「っぽい」というのは何となく感じるが、そこまでなのである。

そこでチョベリグ

とりあえずまずは聴いて欲しい。2014年5月14日リリースのデビューミニアルバム「変身少女」の2曲目に収録されているのがそれだ。(1分19秒〜

この曲を最初に聴いた時、その「っぽい」感じがうまく表現できずに「パタパタママとかそのへんの古いやつ」とぼんやりした印象を持っていた。前述した通りルーツはもっと古いのだが、それとは別にこの曲には切なく感じる部分がある。それがまさに「チョベリグ」というワードである。

「チョベリグ」とは90年代後半に当時の若者の間で流行った言葉である。念の為に説明すると「超ベリーグッド」を略した言葉である。もう一度言うが90年代後半である。同時期に流行った「MajiでKoiする5秒前」の元ネタ「MK5(エムケーファイブ)」と同時期である。広末涼子の全盛期と言ってもいいあの時代の流行語が、もう既にレトロなワードとして曲の素材にされているのである。切ない。確かに古い言葉ではあるが、オールディーズのテイストに馴染むほどの古さは感じないのである。

しかしながら吉澤嘉代子(’90年生まれ)にとっては十分レトロな言葉なのであった。ダサさを通り越して逆に新鮮なのであった。

歌詞の凄さ

この曲は歌詞もいい。冒頭の歌詞はこうだ。

まじでcho cho チョベリグ すきよ すきなの きゃわいいあの子
まじでcho cho チョベリグ ん〜 すきダヨ

随分とごきげんである。キャッチーなメロディにキャッチーな歌詞で、掴みは抜群なのである。

あの子に会うと そくてんしたくなる
くるりんぱ なんちゃって おかしいね

続く歌詞でちょっと天然というか、お茶目な一面を垣間見せる。側転したくなる気持ちには全く共感できないが、確かにおかしいね。

そくてん そくてん くるくる くるくる
あの子の まわりを くるくる くるくる チョベリグ
だけど会えない日は まれにチョベリバ
だけどやっぱり会えると cho cho チョベリグ

まれに「チョベリバ(超ベリーバッド)」になりながらも、何だかんだで楽しそうで良かったのである。この調子は最後まで続き、めでたしめでたしと相成る。

吉澤嘉代子の歌詞には「恋愛倶楽部」や「ちょっとちょうだい」のように、一見可愛らしい世界観にすっと毒を混ぜる妙が魅力の一つでもあると思うのだが、「チョベリグ」に至ってはどうも毒っ気はなさそうだ。そう思って読み返してみるとなんのことはない、最初から最後までずっと狂気の沙汰だったのだ。

あの子のまわりを延々そくてんする恐怖

何だかよくわからないがハイテンションで笑いながらくるくる回り続ける人間の姿を想像するとゾッとしないだろうか。僕は就寝中、よく金縛りにかかる体質なのだが(霊的なものではなくて肉体疲労による睡眠障害の一種と捉えている)、その時によく幻聴を伴ったりする。大体が足音である。僕の寝床のまわりをドタドタ一人ないし数人が歩いているのである。まさに「チョベリグ」の画が浮かぶではないか。あれは足音ではなく側転の音だったのかと合点が行ったのであった。

「チョベリグ」のきゃわいいあの子は果たして無事だったのだろうかと思案する次第である。

(了)

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