勇気が不必要なところでの勇気

私は正直少し恐怖を覚えながらこの日を迎えた。與真司郎くんのイベント。私は行けなかったのだが、その日の夜、各種ニュースサイトに上がった記事を見て、衝撃と安堵を覚えた。

自分はゲイであるという告白をした真司郎。
そしてその様子をAAAのメンバー4人が見守っていたということ。

今まで約20年、人生の半分以上を文字通りAAAに捧げたような真司郎から、今このタイミングでこの告白をうけたことについて、目を背けてはいけないし、思うところがたくさんあったので、今慌ててこれを書いています。

日本は性についての理解が遅れている

このことは昨今盛んに言われていることだと思う。記憶に新しいものとしては、歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレの話題ではないだろうか。自分は社会学を学んでいる学生でもあるので、特にこの手の分野は頻繁に話題にあがる。約20人の学生が所属する中でも認識の差は大きいうえ、その理解をすり合わせる作業が、お互いの神経をすり減らしているように感じる瞬間も多かった。また、「告白」だとか、「カミングアウト」だとか、表現に暗に隠すものだという認識であることに違和感を覚えるようにもなった。

また、そもそも日本の風土として存在する、マイノリティの排除の強さを改めて実感することにもなった。

これを恐れ、なかなか踏み出せず、自分のなかにしまっている人が多いなかでの、真司郎の行動はかなり大きなものだと思う。

自分は真司郎がゲイだとわかったから、何か変わるかと言われたら、それは全くないと自信をもって答えられる。

そもそもこれは自分の一オタクとしてのスタンスに関わるが、まず自分はパフォーマンスまたはそれに準ずる活動を本人が楽しく続けてくれればそれでいいと思っている。確かに性格がいいとか、顔がいいとかそういった要素は無問題なわけではないが、それは大きなものではなく、あくまでもプラスαの要素だと思っている。だから、熱愛がどうだとかになっても、あまりダメージは受けないことが多い(活動に制限が生まれた場合は別である。)

そのようなスタンスの自分は、むしろこういった一歩を踏み出した真司郎をもっと知りたいと思ったし、これからまたどのような面白いものをつくるのかが純粋に楽しみである。

一般の人が周囲の人にいうよりも何倍も影響力があるということ、しかもそれはかなり自分のパーソナルな部分に関わることであるということ。これを認識したうえで、AAAのメンバーやスタッフ、その他多くの友人に少しずつ話して、結果今日の発表に至ったということ。
全て、最近自分のやりたいこと、夢を追い求める姿を見せてくれていた真司郎と繋がった気もする。

このような行動が世に出た時、「勇気ある行動」とコピーが付けられることは多い。でもこの勇気とは、本来必要なものなのだろうか。勇気が必要な状態にしているのは何であるか、その勇気は誰かの苦しみがあって生まれているはずである。その違和感をしっかり感じられる人になりたいと思った。

この発表のなかで、「メンバーはタイプじゃない」といった趣旨の発言があったという。その意味も重たい。ただの茶化しではないように私は感じた。アイドルなどに「好きな異性のタイプは?」という質問をするということは、今までかなりやられてきたと思う。その質問はつまり好きになるのは異性であるという前提に生まれている。
このメンバーというのはAAAの4人であり、それを先にこの一番新鮮な情報としていうことは一種の牽制であるとおもう。そうでもしないと、この先また苦しむ質問をされることも容易に想像できる。

ともかくとして、この行動を機に、やはり日本は各国から遅れをとっている認識の差を埋める努力を早急に行い、早くこういった話が当たり前に感じられるようになればいいと思っている。

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