【小説】エメラルドシティ

エメラルドシティ

 池袋駅の改札に飛び込む人を見ていた。僕は二十歳。あの子もきっとはたち。
 つまらない大人になったなと常々おもう。やわらかくあたたかい肉がつまった電車で、目の前の肉の耳の穴のなかから毛が生えていることに、静かに驚いていたこの頃。人を分類する指標って少なすぎる。この肉も僕も同じ人類、成人、男性。
 電車に敷き詰められた人間は総じて肉の塊だとしか思えないけれど、あの子は記憶の中の姿がいつまでも残っているから、もしここにいたって肉と呼ぶのに相応しくないな。彼女だけはいつまでたっても、ぎゅっと引き締まったみずみずしい果実だ。あまくて清らかで冷たい肌をしている姿を夢想する。がぶりと噛みついて、じゅるんとした舌触り。小指が僕の口の中にあるのだ。
 あの子の記憶はとても断片的だ。なにぶん、僕が今の半分であった頃のことだ。十歳の僕は村人Dだった。女の子と、犬と、ブリキのなんたらとかが僕の住む街にやってくる。僕は尋ねた。
「あなたの願い事はなんですか?」
「お家へかえりたい」
 そうだね、そうだな。今ならわかる気がするよ。
 僕も帰りたいよ、と呟いた。そんな小さなぼやきは都会の喧騒に溶けていく。ここにいると圧迫されて息ができない。肉、人、人、肉。挟まれて、僕が薄っぺらくなっていく。みんなが同じになっていく。世界。その中に僕がいる。誰かがいる。
 学芸会で女の子の役をやっていたのがあの子であったのだっけ。覚えていないことはどうでもいい。それでも気がかりなこと、あの子は人間になれたかどうか…。
 刺さって抜けない言葉の棘がたくさんあった。社会は花束だ。人口的な花弁と茎と、有象無象。薔薇の棘で傷ついたふりをしてるのって馬鹿でかわいいだろ。
 こんなにつまらない僕を見たらあの子は知らない人のふりをするかもな。もしかしたらどこかにいて、今このときにもすれ違っているんじゃないかと思ったりする。だから立ち止まって、振り返って。だけどやっぱりあの子はいなくて、肩をぶつけられながら歩いてきた。
「なんか、私の名前全然呼ばないよね」
 バス停まで歩いていった寒い夕方だった。
「そっちだってそうじゃん」
「私はちゃんと君の名前覚えてるし」
 僕だって。そう、ちゃんと答えたっけ。
 最終電車が近づいて、現実を生きてる僕が目を覚ます。いるかもしらないあの子を待っているのだから、いよいよ死ぬまで馬鹿野郎だ。
 そうしたらふと、突然に、お伽噺のように街が光って見えた。薄暗い駅がぱっと明るくなって、きらきら、しゃらしゃら。タイルとタイルの隙間にあった黒い影には、緑色の宝石が敷き詰められていた。掃除したてのようにぴかぴかになった世界の端に、白いコートを着た後ろ姿がある。
 ああ、おまえだ。
 僕は走った。乱暴にスイカを叩きつけて階段を駆け上がった。息を切らしながら乗った最終列車には、まばらに人がいるだけだった。
 曖昧な記憶のなかにあの子はいた。僕の見ていた世界のなかに絶対に、たしかにいたんだ。
 賢くて優しい人だった。優しくておかしな人だった。おかしいのが愛おしかった。そうだ、キスをしたのも君からだ。ミントの味が口の中に広がって、ようやく息ができた。記憶の中のあの子のあたたかさが、僕の一部になっていく。君はお家に帰れただろうか。


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