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縁なき衆生は度し難し?【前編】

「NOTE」でいえば・・・長い前文

たとえば、この「NOTE」というプラットフォーム。
どーも、一日当たり3万とか4万とかの投稿数コンテンツとやらで破竹の勢いで成長しているらしい。

「まてよ、一日に3万?」

と、つぶやきつつもピンとこない。

もちろん、その数が多いということは理解できるものの、

それが、例えば「一日に1万越え」
であったとしても、その辺からもうピンとこない。

もうその域になると、一日に30万投稿であっても別に変わらないことのように思える。

しかも、いまだになんだか実態がよくわからない「フォロー」「スキ」などがある。

野田ホーロー
コモンカタザメ(方言「スキ」)
=『ぼうずコンニャクの市場魚介類図鑑』より

さながら

「この惑星にはNOTEというブログがある。そこではこの惑星の住民がこぞって思いのたけを書き綴っているらしい」
「そこでは、支持したい人をフォローし、気に入った記事をスキするというルールがあるらしい」

と、宇宙人ジョーンズばりに、表現したくもなる。


書き手は読めず読み手は書けず

紺屋の白袴こんやのしらばかまではないが、それでは、書いている側が多くを読む人なのか?
というと、これがまたさように行かない。

書いてるんだから、なかなか読む時間が取れない。
逆も然り。

インプット>アウトプット
アウトプット>インプット
知るものは言わず
言うものは知らず

これは物理学の法則にあってもおかしくない。
少なくとも二律背反の法則は当てはまるな?

などと、つらつら考えているところに、こんな場末の「深夜食堂」みたいな存在の私のところにも、時折どういう風の吹き回しかわからないが「スキ」が来る。ごくまれに「フォロー」が来る。



果たして誰が一体読むんだろう?

「こんなことを書いたはいいが、果たして誰が一体読むんだろう?」

と、私のようにつぶやいているような書き手は、普通「素人」とみなされる。
というのも、「ペルソナ」といって、書き手というものは、その読み手のターゲットを絞ってものを書くのが常道だからだ。
そして、そのペルソナに、ある共通の「悩み」があって、それに的確に「答え」を差し出すことが出来れば、それは「読まれる」ものとなる。

たとえば、20代から30代の主に女性。
異性関係で悩んでいる層。
離婚歴があれば尚可。

みたいな。
そこから、一体どういった内容の「作品」が「共感」を呼ぶことになるのかは、大方はお察しになられるかと思う。

フン、フン、フン、ペルソナねぇー

いやいや、なにもそれは作品に限ったことではない。
なぜか私のところに届くメールやらの通知。

「マカDX 日々の活力」や「精力的な男性へ 精の命」
「40代以上限定」「50代以上限定」

といったアレな商品のDMですらそーではないか?

「え? てことは何かい? 40代以下は効きすぎて危険ってかい? しゃらくせーやい、限定ってのは、それくらい効くナニを年寄りのあなたにってーことなんかい。ちーと出来すぎじゃーありゃせんかい?」

と、つい江戸弁にもなってしまう。
(おかしいなあ、そんな悩み告ったことないしなあ・・・)


いいもので売れる(読まれる)もの?

お分かりかと思う。
これは、商業主義。
セールス、売り込みの原理だ。
しかもその「ペルソナ」の裾野が広い一般大衆ということになると、圧倒的な読者数を獲得できる。
蛇足ながら、それに反比例して、それはどーしても「(内容的に)薄く」なる傾向にある。

このことは、とりわけ「人文科学」などお堅い出版物をだしている出版社などは、編集部と営業部の間の確執の元になる問題だし、
編集部の中でも、この辺を主軸に喧々諤々けんけんがくがくの議論が巻き上がって当然だ。
簡単に言えば、

「いいものを出したい」「でも売れなくてはならない」

という永遠の?テーマ。
それがそのまま「NOTE」でいえば、「スキ」とか「フォロー」に反映される。


有り難くもかしこくも

私は、「プロフィール」にあるように、初めから多くの読者を期待しないで書いている側なので、私の投稿のタイトルやリードをお読みになって、「ああこれはムリムリ」とか「なんか違うんだなあ」とか「アレか?」とか思われる方は、もちろん入られてこないし、そうしているのだからそれでいい。

しかし、(いくら検索キーワードがあるからとは言え)その、日に3万なにがしかの魚がいる膨大な”投稿の海”の中から、私ごとき雑魚だかタコだかシーラカンスだか正体不明の”魚”を吊り上げる方は、ホント―に天賦の才に長けた文字通りの「スキもん」ではないのか? 

と思いつつ、あらためてその方々の作品をざっと一瞥させていただくと、これがまたいやはや「恐れ入りました」、いやいや「もったいのーございます」、「不肖わたくしごときに」な面々がほとんど。
中には、もうすでに「達しちゃってる」とお見受けする方も。
「え? まさか? いらっしゃってるじゃないか、本物が」
みたいな。

面映ゆーいわけである。
「かたじけなさに涙こぼるる」わけである。
(しまった、スキやらのリアクションに意味不明の漫画なんてやめときゃ良かった、後の祭りったーこのことか💦)

中には、「お堅いお仕事をされているのになぜ?」と、いつのまにかそれに照らして自らが水商売でもしているかの気持ちにさせられると同時に、「こういったお方にもそんな側面があるんだなあ」と感心させられてしまうものもある。(「そんなってなによ」って言われそうですが💦)


ひと~つ、「発心」の心得あるもの。以上

ところで、かくいう私にもヘソがある。いや、ペルソナがある。
それは、

老若男女
年齢無制限
ただし発心ほっしん(注:発作に非ず)の心得のあるもの

以上。

なんだか、いまさらながら道場の看板のように、木版に、墨黒々としたためてもよいのでは? と言わんばかりの勢いであるが、よく見ると何の事ない、要は「発心」のみではないか?

しかも、いまどきの「発心」をマーケットリサーチ(市場調査)したのか?
スーパーで大根を買っているおばちゃんに、やにわに

「すんません、発心されてはります?」

という「聞き込み」をしたのか?
というと、していない。
それはしていない。

え? ナニーか? ナンデスーか?

まあ、今時風にいうと、アセンションの前段階、準備編ね。
いままではそんなこと、勝手にそう思った人がすればよかったでしょ?
でもね、今度の奴は、

強制一斉アセンション

なのね。
もう有無を言わせないの。
逆らえないの。
アセンションしたくなくてもしなくちゃなんなーいの。

だから、こうして書いてるの。

なぜかっていうと、
何にも疑問に思わない人っているでしょ?
その方たちは、そのとき魂が混乱して路頭に迷っちゃうの。
だから、こうしてわざわざ「あれ?」とか「おや?」とか「馬鹿ねー」とか言ったことを書いてるの。
(理解されておられる方は、ちっともおかしいと思わないの。)

ショックアブソーバーなのね。
緩衝材なの。

そうしているうちに、その人たちが、次第に「いや、何かがおかしいのかしら?」となるでしょ。
そこの層がターゲットなの。

なんちゅーのかなー、
グレーゾーンでもなく曖昧ぞーんでもなく、
出そうで出ない、
でもなく、
煮え切らないような、
行こうかなあ、やっぱり帰ろっかなあ
みたいな。

え?それがペルソナになるかって?

ならないの。

このお話は、タイトルの核心部「縁なき衆生」が登場しないまま、次回に続きます。ご清聴誠にありがとうございました。



東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。