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労働Gメンは突然に:第6話「麗花と加平」

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登場人物

時野 龍牙ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。角宇乃かくうの労働基準監督署・第一方面所属。監督官試験をトップの成績で合格。老若男女、誰とでも話すのが得意。

加平 蒼佑かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花と交際中(と自分では思っている)。

香坂 博人こうさか ひろと 45歳
20年目の労働基準監督官。本省組。K労働局の労働基準部長。紙地一主任の同期だがあまり仲は良くない?

黒瀬 麗花くろせ れいか 27歳
6年目の労働基準監督官。労働局の監督課所属。父は監督官OB。加平の同期。元佐賀巳職安に無断で侵入して謹慎中。

角宇乃労働基準監督署 配置図(1階)

本編:第6話「麗花と加平」

『あっ! おとうさんだ!』

 テレビの画面には、警察官に混じって現場に立つ父の姿が映っていた。

 胸元に「厚生労働省」とワッペンがついた紺色の作業着を着用し、「労働基準監督署」と印字された黄色い腕章をつけている。

 角宇乃駅前の大型商業施設の建設現場で労働災害が起こり、角宇乃労働基準監督署と角宇乃警察署が合同で災害調査をしている様子がニュースで放映されているのだ。

 幼い麗花にとって、労働基準監督官の父はヒーローだった。

『おとうさんは、はたらく人をまもる人。おとうさんのことは、イエスさまがまもってくれるよね』

 キリスト教系の保育園に通っていた麗花は、よく母にそう言っていたという。

 真面目を絵に描いたような父だったが、面倒見のよさから後輩に慕われ、自宅に同僚が遊びに来ることも多かった。

 自宅に訪ねてくる労働基準監督官たちはみな優しく、よく遊んでくれるので、麗花は大好きだった。

『おじさんの手はおかあさんゆびがちいさくてかわいいね』

『麗ちゃん、おじさんはないなあー。おにいさんって呼んでよ』

『麗花、さあみんなでご飯食べるよ。コージくん、そろそろビールにしよう!』

 それが、いつ頃からだろうか。父は麗花とあまり遊んでくれなくなった。

 同僚を自宅に呼ぶこともなくなった。

 唯一、コージお兄さんだけは、ふさぎこむ父の様子を見に来てくれた。

 そんなある日――。

 5歳の麗花には、一体何が起こったのかわからなかった。

 横たわった父のそばで、母は泣き崩れていた。

『おとうさん?』

 麗花が父の手をとると、氷のような冷たさと固さで――。

(……せ、おい、黒瀬……)

「!」

 目が覚めると、キーンコーンと終礼のチャイムが鳴っていた。

「起きたか。なんかうなされてたぞ」

 隣の席の加平が、麗花の顔を覗き込む。

(また、お父さんの夢を見ていたんだ……)

「しまった、居眠りしちゃったかー。最近よく眠れなくて」

 ペロッと可愛く舌を出したが、加平は無表情だ。

(やっぱり、加平くんにはあざとい感じは通用しないか)

 麗花はこの春、父と同じ労働基準監督官になった。

 K労働局の佐賀巳さがみ労働基準監督署に配属され、日々実地訓練を受けつつ、今は埼玉県にある労働大学校に集合研修できている。

 労働大学校での集合研修は2回目だ。

 1回目は前期研修として5月に行われ、2回目である今回は後期研修として10月に行われている。

 加平は麗花と同じK労働局の同期だ。

 口数が少なく無表情で、何を考えているのかよくわからない。

(悪い人じゃないと思うけど、ちょっと取っつきにくい)

 だけど麗花は、黒真珠のような加平の漆黒の眼球は、綺麗で好きだと思った。

 なので、加平と目を合わせるのは嫌いじゃない。

 じいっとそのまま加平を見つめていると……大きな手が麗花の視線を遮った。

「……見すぎ」

 加平は前を向くと、教材を片付けて教室を出ていった。

「麗花、帰らないのー?」

 声をかけてきたのはT労働局の同期である横内明日香よこうちあすかだ。

 T労働局とK労働局が隣接していることもあって、近隣局の同期で集まって遊ぶうち、麗花と明日香は自然と仲良くなった。

 時刻は17時。今日の講義はこれで終了だ。

 2人は教室がある研修棟を出て、宿泊棟に移動した。

 宿泊棟は1階に食堂や共同浴室があり、2階から5階の各階には研修生の居室や洗面所、談話室などがある。

 各フロアは男女別となっており、今は2階を麗花たち女性の新監が、3階を男性の新監が利用している。

 麗花は自分の居室に戻ると、ベッドに腰かけてため息をついた。

 労働基準監督官になってから、父の夢をよく見るようになった。そういう日は決まってうなされるようにおきて、寝不足になる。

 父が亡くなってから、元々繊細だった母は心を病み、体調の悪い母に代わってほとんど祖父母に育てられた。

 そんな祖父母も麗花が大学生の時に相次いで亡くなった。

 母や祖父母を悲しませまいと、長年胸に秘めてきた疑問――。

 父と同じ労働基準監督官になった今、その疑問が麗花の中でどんどん存在感を増していく。

(お父さんは、なぜ自殺したのだろうか……?)

 今日のカリキュラムは班別討議だ。

 研修生が班ごとに分かれて課題について話し合い、最後は各班の代表者が発表をすることになっている。

 本省からやってきた数名の先輩監督官が講師となって各班を回り、研修生が迷ったときにアドバイスをしてくれた。

 午前2時間、午後2時間の班別討議を終える頃には、研修生はクタクタだ。

 発表は誰がやるかとなったとき、T局の大林が申し出てくれたので助かった。

(さすが優等生の大林くん、グッジョブ!)

 各班の発表も終わって終礼のチャイムが鳴ると、研修生は打ち上げモードだ。

「班で打ち上げ行こうって言ってるんだけど、黒瀬さんも行かない?」

「行く行くー!」

 一旦居室に戻って支度をするため、麗花が教室を出ようとしたとき、本省から来た講師の小山こやまが麗花に声をかけた。

「K局の黒瀬麗花さん?」

「そうですけど……」

 小山は40代前半だろうか。髪は少し茶色がかってパーマもかけられており、若々しいが少しチャラい印象だ。

「もしかして、黒瀬陣平くろせじんぺいさんのお嬢さん?」

(えっ!)

「父のことをご存じなんですか?」

「やっぱり! 俺新監のとき黒瀬さんと同じ署だったんだ。監督官になったお嬢さんに会えるなんて感激だよ」

 先ほどまでは話しかけられて面倒に感じていた麗花だったが、俄然小山に興味が湧いてきた。

 今のK労働局でもベテランであれば父を知っているはずだが、父については皆一様に口が重く、こんな風に話しかけてくれる人はこれまでいなかったのだ。

(昔の父を知る人に出会えるなんて――)

「あのさ、よかったらお父さんの思い出話でもどう?」

「それは……ぜひお願いします!」

 次の金曜日の夜、麗花は小山と都内で会う約束をした。

(お父さんのことが色々わかるかも)

 労働大学校の玄関で小山と別れ、今度こそ居室に戻ろうとすると、背の高い男が麗花の前に立った。

「あ、加平くん。どうしたの?」

「今の男大丈夫かよ」

 加平は、帰っていく小山の背中を見ながら麗花に聞いた。

「大丈夫って何が?」

「飲みに行く約束してただろ」

「そうだけど……」

「新監の女にふたりで飲みに行こうだなんて、ろくなやつじゃない。多分、よからぬことを考えてる」

「よからぬことって?」

「それはだから……」

 加平が目をそらす。

「ていうか、なんであんなチャラい男と飲みに行こうなんて……」

「だって、父のことを知ってるっていうから」

「え? お父さんって、自殺したっていう……」

(加平くんも知ってたんだ。他人への関心ゼロって感じなのに、意外)

「そんなに心配なら、加平くんついてきてよ」

 加平の顔を下から覗き込むように言うと、加平が少し後ずさった。

「は……?」

「じゃ、そういうことで! これから班の打ち上げでもう行かないとだから!」

「お、おい!」

 呼び止める加平を置き去りにして、麗花は勢いよく宿泊棟の階段をかけ上った。

 さすが小山は遊び慣れているのか、予約してくれた渋谷の店はなかなかのいい雰囲気だ。

「乾杯!」

 フルートグラスの中で、スパークリングワインの美しい気泡が次々とはじける。

 普段はパンツスタイルが多い麗花だが、今日はスカートを履いてきた。

 膝が見えるスカート丈は、麗花の膝下の脚線美を際立たせている。

 加平からは、なんでそんな格好、とぶつぶつ言われてしまったが、麗花は母親譲りの恵まれた容姿について十分自覚しているつもりだ。

(黒瀬陣平の娘だからじゃなく、私の容姿に興味を持って誘ってくれたことはわかってる。だから、完全防備な格好で来たって、小山さんと打ち解けることはできない)

 明日香にだけは、今夜小山と飲みに行くことを知らせておいた。

『加平くんがボディーガードなら安心だね!』

 少し離れたカウンター席には、加平が一人客を装って座っている。

(イヤイヤながらも、結局加平くんは来てくれた。意外と優しいかも)

 その時、ズキンと軽い痛みが頭部に走った。

(こんな日に……。薬はもってるけど、小山さんの前で飲むわけにも……)

「黒瀬さんはさ、どうして監督官になったの? やっぱりお父さんの影響?」

「そうですね。幼いながらに父はとてもかっこよく見えたので。それに、父のことを知りたかったから……」

 麗花は小山の目をじっと見つめた。

「……まあまあ、夜は長いよ」

 小山は話をはぐらかすと、麗花のフルートグラスにスパークリングワインを注いだ。

 それから1時間ほど、当たり障りのない会話が続いた。

(小山さん、さすがトークはうまいけど、聞きたいのはそういう話じゃなくて……)

 スパークリングワインが1本空いたので、小山はもう1本注文した。

 ズキン、ズキン……脈打つような頭部の痛みは、1時間前よりひどくなっている。

(まずい。これ以上の飲酒は控えたいけど、まだ小山さんから何も話を聞けてないし……)

「黒瀬さんお酒強いね。全然顔色が変わらないな。俺は少し酔ったかもー」

 麗花はアルコールに強い方だが、小山の方は顔が赤らんでいる。

 追加注文したスパークリングワインが届いた。小山が麗花のフルートグラスに注ごうとしたが――。

「わ! ごめん!」

 麗花のフルートグラスから泡立ったスパークリングワインがあふれ出した。

「あ、拭くもの頼みますね」

 麗花が後方を向いて店員を呼んでいる間に、小山が麗花のフルートグラスに触れた。

 店員を呼び終えて麗花が正面に向き直った時、頭部にズキンと強い痛みが走った。

(やばいかも……)

 店員がテーブルを拭いて立ち去った後、小山は改めて麗花のフルートグラスにスパークリングワインを注いだ。

「注ぎ直したから、どうぞ飲んで」

(小山さんの気を損ねないように少しは口をつけるとして……でもそれ以上は……)

 麗花はフルートグラスを口元に運びながらカウンターを見たが――そこに加平の姿はない。

(あれ? もしかして、馬鹿馬鹿しくて帰っちゃった……?)

 その時、突然誰かがフルートグラスをもつ麗花の手をつかんだ。

「!」

 加平だ。いつの間にか、麗花のすぐそばに立っている。

「なんだよお前」

 小山は加平を見上げて不機嫌そうな声を出した。

 加平は麗花からフルートグラスを取り上げると、小山に押し付けた。

「あんたが飲め」

「は?」

(え……?)

 麗花が驚いて加平を見ると、加平は小山を凍てつくような目で見下ろしている。

「さっき中身がこぼれた時に何か入れたな。薬か?」

(えっ、薬?)

「そ、そんなこと、俺は……」

 加平は目をそらそうとする小山の顎を大きな手でガシッとつかむと、フルートグラスの中身を無理やり小山の口に流し込んだ。

「がはっ! げほげほ!」

 小山はむせ返り、スパークリングワインで服が濡れた。

「な、なにするんだよ! やば、睡眠薬が……」

(睡眠薬?!)

「財布を出せ」

「……は?」

 加平は小山の胸倉をつかむと、顔面を小山の顔に近づけて凄んだ。

「はやく出せって言ってんだよ! このゲス野郎!」

 小山が青ざめた顔で懐から長財布を取り出した。

 加平はひったくるように小山の長財布を受け取る。

 騒ぎに気づいて飛んできた店員に小山の金で会計をさせ、小山を引きずるようにして店の外に出た。

 加平は路上でタクシーを止めると、小山を後部座席に押し込んだ。

「到着した時こいつが寝てたら、たたき起こしてかまいませんから」

 長財布から1万円を抜いて運転手に渡しながらそう言うと、長財布を小山に投げつけた。

「あんたのやったことは犯罪だ。本省の上司に言いつけられたくなかったら、これ以上黒瀬に関わるな」

 小山は加平を睨みながら口をぱくぱくさせているが、何も言い返せない。

 タクシーが走り去ったのを確認すると、加平は麗花を振り返った。

「だから言っただろ、あんな……。黒瀬?」

 麗花はその場にうずくまって、動けなくなっていた。

 頭をガンガンと殴られるような痛みで、意識が遠のいていく。

「おい! どうしたんだよ? 黒瀬!」

 加平がすぐそばにいるはずなのに、加平の声がだんだんと聞こえなくなっていった……。

 麗花はうっすらと目を開けた。

 カーテンの隙間から夜明けの白い光が入ってきて、目が覚めたようだ。

(ここは……?)

 麗花はダブルのベッドに起き上がって、周囲を見回した。

 ベッドとナイトテーブルぐらいしかないシンプルな部屋。どうやらビジネスホテルの一室のようだ。

(そうか、片頭痛の発作が出て……)

 麗花の片頭痛もちは、容姿と共に母から譲り受けた体質だ。

 時には起き上がれないほどの痛みに襲われるので、頭痛クリニックで処方してもらう片頭痛薬が手放せない。

(意識が朦朧とする中で、誰かが薬を飲ませてくれたような……。加平くんかな? でも、なんで片頭痛薬のこと……)

 もう一度部屋の中を見回してみたが、加平の姿はない。

 ナイトテーブルの上に置かれたバッグを引き寄せて、中からスマートフォンを取り出す。

 明日香から『何時でもいいから起きたら連絡して!』とメッセージが入っていた。

 かけてみると、早朝にもかかわらず、明日香はすぐに電話に出た。

「もー! 加平くんから連絡もらって、心配したんだからねー!」

 麗花が半ば気を失っている間、加平は麗花を抱えながら明日香に連絡をとり、片頭痛の発作が起こっているだろうことと、片頭痛薬をもっているはずということをきいたらしい。

「この際バッグの中をあさってでも片頭痛薬を探し出して、麗花に飲ませてって私が言ったの」

(そうだったのか……。ん? 待てよ、もう朝ということは……)

「あ! 外泊届出さずに外泊しちゃった!」

 労働大学校の門限は、夜11時30分だ。

 外出時は、各自つけている名札を宿泊棟の入り口の警備員室に預け、外出から帰ったら自分の名札をとって居室に戻る。

 夜11時30分になっても名札を警備員室に預けたままの場合、警備員から居室に内線電話が入り、在室確認が行われる。

 休前日の外泊は認められているので、あらかじめ外泊届を出しておけば問題はないのだが、小山との飲み会で外泊するつもりはなかったので、当然外泊届を出していない。

「ふっふっふ。大丈夫よ。名札は私が回収しておいた」

 明日香が得意そうな声で言った。

「ありがと明日香、帰ったらなんかおごる!」

「当然! でも問題は玄関から入る時だよ。今の恰好じゃ朝帰りってバレバレだもん」

 明日香は、労働大学校の最寄り駅である朝霞駅までジャージを持って行くので、駅のトイレで着替えろという。

 そして、早朝ランニングから帰ってきた体を装うというのだ。

「了解! ほんとありがとう、明日香」

「どいたまー。始発で帰ってくるよね? 電車に乗ったらまた連絡して。男物のジャージは大林くんから借りることになってるから」

「え? 男物のジャージって?」

「だから、加平くんの分」

(でも加平くんは帰ったみたいだけど……)

 麗花は電話を切ると、ベッドから降りた。

 バスルームがある方に部屋の角を曲がると――。

「きゃあああ!」

 バスルーム前の床に大柄な男が倒れているのを発見し、麗花は悲鳴を上げた。

 倒れていた男は、目をこすりながらのっそりと起き上がった。

「黒瀬……。もう頭痛は大丈夫か?」

「加平くん……」

「体いてー」

 加平は片目をつぶりながら腕を回し、固まった身体をほぐしている。

(私をベッドに寝かせて、自分は床で寝てたんだ……)

「ツインにすればよかったのに」

「ダブルの方が安かったからな。渋谷のホテルがこんなに高いとは」

「そんなの……私が払うのに」

「それに……黒瀬が視界に入る状態で寝るのはちょっと……」

「え?」

「……とりあえず、帰ろうぜ」

 麗花は、明日香たちがジャージを持って朝霞駅に駆けつけてくれることを説明した。

「わかった」

 部屋の出口に向かって歩き出した加平の背中を、麗花は見ていたが――。

「待って。加平くん、目つぶって。まつげに何かついてるよ」

「目やにか? 自分でとる」

 加平は雑に目をこすっている。

「いいから」

 今度は素直に麗花の方に振り返り、加平は両目を閉じた。

 次の瞬間――甘い香りが加平の鼻孔をくすぐった。

 加平が目を開けると、顎の下に麗花の頭がある。

「ありがとう……加平くん」

「……」

 そのまま、10秒ぐらいは経過しただろうか。

(抱きしめてきたりはしないわけね)

 加平の胸板にくっつけていたおでこを、麗花がそっと離そうとすると――。

「!」

 ぎゅっと麗花は抱きすくめられた。

 そのまま、10秒ぐらいは経過しただろうか。

「そろそろ始発が……」

「……」

「加平くん?」

「……もう少し」

 結局ふたりは始発電車に間に合わず、始発で戻ってくると思って朝霞駅で待機していた明日香たちをヤキモキさせたのだった。

 労働大学校での後期研修が終わり、新監たちは各自配属先の労働基準監督署へ戻っていった。

 小山から父親の話を聞き出すことには失敗した麗花だったが、その一件以来、加平との仲は急速に深まっていった。

(加平くんといると、安心する……)

 加平と交際するようになって、父の夢を見ることも少なくなった。

 仕事も恋愛も順調で、充実した日々を過ごしていた麗花は、労働基準監督官になって2年目の夏を迎えた。

 この夏、麗花のいる佐賀巳労働基準監督署は本省監察を受けることになった。

 通常の監察は、毎年労働局の監督課の監察官によって行われ、日々の監督指導業務を適切に進めているかをチェックされる。

 それに加えて、K労働局では毎年どこかの労働基準監督署に本省の監督課からの監察が入るのだ。

 本省監察当日、4人の担当者が本省からやってきたが、麗花はその中に見覚えのある顔を見つけた。

 相手も麗花に気がつき、気まずそうに作り笑いをしている。

「小山さん!」

「あーっと、黒瀬さん、久しぶり……」

 小山が近づいてきたので、麗花はファイティングポーズをとった。

「あの時はごめんって……。あんまり黒瀬さんが魅力的だから、どうにか仲良くなりたくて。言っとくけどそんな強い薬じゃなくて、俺がたまに使ってるちょっとうとうとするぐらいの薬で……」

 がるるるる、と麗花が嚙みつきそうに目をつり上げると、小山は両手を合わせて謝っている。

「そんなに怒らないでよ。本当に悪かったと思ってるんだから。そうそう、お詫びと言っては何だけど、あれから思いついたことがあるんだ」

「思いついたこと?」

 小山は手招きをして麗花を廊下に連れ出した。

「お父さんが亡くなった時のこと、知りたいんでしょ?」

「そうですけど……」

「正直言って、俺はお父さんの直属の部下でもなかったし、まだ新監だったし、当時の詳しいことは知らないわけよ」

(よくそれで、父の話をしようなんて言って渋谷に連れ出せたわね)

 麗花は半眼で小山を睨みつけた。

「実は、お父さんの直属の部下だった女性監督官がいるんだ。当時6年目で、よくお父さんと組んで監督にも出てた。今は他局にいるからK労働局とのしがらみもないし、色々話してくれるんじゃないかな」

(お父さんの部下だった女性監督官……)

 小山によれば、その女性は「松本智美まつもとともみ」といい、現在は東北のY労働局にいるという。

 麗花は早速、基準システムの職員録でY労働局の松本智美を検索した。

(ヒットしない……)

『転勤後に一度、松本さんがY県名物のお菓子をもってK局に遊びに来たからよく覚えてる。転勤先はY局で間違いないよ』

(小山さんは、松本さんの転勤先がY局であることについては自信をもっているようだったけど……)

 今度は、基準システム内で職員間が送受信できるメールシステムで、氏名を宛先にして検索してみることにした。

 1人ヒットしたが、所属がハローワークになっていることから、労働基準監督官ではないようだ。

(探している松本さんとは別人か……)

 それからしばらくは、どうやって松本智美を探し出したらいいのか考える日々が続いた。

 秋が近づき、身上調書を出す時期になった。

 身上調書とは、自分の勤務歴や家族構成などを記載すると共に、異動先の希望やその理由を書いて提出する、人事上の重要書類だ。

 労働基準監督官になって2年目の麗花にとって、今年の身上調書は特に重要な意味をもつ。

 労働基準監督官は、3年目と4年目の2年間、採用労働局とは別の都道府県の労働基準監督署で勤務することになっている。

 異動先は身上調書の内容を加味して決定されるので、希望する異動先や、考慮してほしい自らの事情などをしっかり記す必要があるのだ。

 身上調書の提出時期がせまっても、まだ麗花は松本智美のことを考えていた。

(Y局には同期がいないし、職員の知り合いもいない。どうやって松本さんのことを探せばいいのか……)

「……しないか。麗花」

(こうなったら転勤でY局に行って……)

「麗花?」

 麗花はハッとした。加平の家で、ふたりで過ごしているところだったのだ。

「あ……ごめん。考え事しちゃってた。なんて言ったの?」

「大丈夫か? なんかあった?」

「ううん、大丈夫。なに?」

 加平は、麗花の隣に座り直すと、麗花の手をとった。

「結婚しないか」

「え……?」

 恋人と近隣局に配属してもらうためには、身上調書の提出前に結婚の話を進めた方がいいよ、と先輩監督官に言われたことがあるのを麗花は思い出した。

 麗花が黙っているので、加平は麗花の顔を不安そうに覗き込んだ。

「俺は麗花と一緒に転勤したい。麗花は俺とは結婚したくない?」

(加平くんと、結婚……)

 加平のことは好きだが、一方で、麗花の頭の中で今最も大きな面積を占めているのは父のことだ。

「……ごめん。正直言って、今は結婚とか考えられない」

 麗花はうつむいたまま言い切ると、加平の顔をそっと見上げた。

(え……?)

 そこには、今まで見たことがないほどつらそうな表情の加平がいた。

 加平は、基本的に無表情であることが多い。それでも麗花と一緒にいるときは、優しい表情や柔らかい表情をすることがあるのだが……。

「あの……ごめん、違うの。加平くんのことは好き。でも……」

 加平は、麗花を抱きしめて視界を遮った。

「わかった」

 加平はそう言って、そのまま黙り込んでしまった。

(どうしよう……。こんなに加平くんを悲しませてしまうなんて……)

 労働基準監督官になって3年目の春。

 麗花は、希望通りY労働局に転勤になった。

 加平の方は関東地方に残りたいと希望したが、山陰地方のT県に転勤となった。

(家庭の事情のない男性監督官は、異動先の希望がほとんど通らないっていう噂は本当だったんだ……)

 T県からY県に行くには、東京を経由して飛行機や新幹線で移動することになるが、いずれにせよ一日がかりだ。

(しばらくは、加平くんとなかなか会えそうにない)

 加平と遠く離れてしまった現実に直面すると、自らの選択とはいえ、強烈なさみしさが麗花を襲った。

(だけど……父のことに心がとらわれたままでは、結婚のような人生の大きな選択をする気持ちにはなれない。加平くんと離れ離れになってまでY労働局に来たんだから、必ず松本さんを見つけ出す!)

 意気込みとは裏腹に、拍子抜けするほど簡単に松本智美は見つかった。

 Y労働局の同僚監督官に聞き込みをしたところ、松本智美は現在出向中なのだと言う。

(外部への出向中は一旦退職した扱いになる。どおりで職員録でもメールの宛先検索でも出てこなかったはずだ)

 松本智美の出向先は、産業保健総合支援センターだった。

 産業保健総合支援センターは国の外郭団体が運営しており、職場の健康管理に関する啓発や支援を事業場に行うことを目的として各都道府県に設置されている。

 医師会が推薦する医師が非常勤で所長を務めることが慣例だが、実質的に運営を担う副所長は労働局からの出向者が務めることになっているのだ。

 センターに電話をかけ、父の名前と自分が娘であることを告げると、松本智美は麗花と会うことを快諾してくれた。

「そっか……黒瀬さんが亡くなって、もう20年以上経つのね」

 金曜日の夜。麗花は、智美とカフェで向かい合っていた。

「単刀直入に言って、父が自殺した理由を知りたいんです。当時父の部下だった松本さんなら、何かご存じではないかと……」

 智美はうつむいて自分のコーヒーカップに触れたが、思い直したように顔を上げて麗花を見た。

「そうね。麗花さんには知る権利がある。私が知っていることは、全てお話しします」

 智美は、覚悟を決めるように、ふーと息を吐いた。

「お父さんは……黒瀬さんは、死亡災害を止められなかったことに責任を感じたのだと、私は考えています」

 黒瀬さんは当時、角宇乃労働基準監督署の第二方面主任で、私はその部下でした。

 面倒見がいい方だったから、公私ともに随分お世話になって、黒瀬さんのご自宅にみんなでお邪魔して、幼い麗花さんに会ったこともあるのよ。

 黒瀬さんと私で組んで監督に出ることも多かったけど、その日の黒瀬さんは、別の監督官と定期監督に行きました。

 誰だったか忘れたけど、確か男性監督官だったと思う。

 行った先の事業場は……ごめんなさい、はっきり覚えていないけど、ナントカ製造所みたいな名称だった。

 広い工場だったから、一日がかりで監督したみたい。

 事務所の労務管理と工場の安全衛生と、問題点についてはその日に指導文書にして交付したけれど、その5日後……死亡災害が発生したの。

 麗花さんも知ってのとおり、高さ2メートル以上の箇所には墜落防止用の手すりが必要よね。

 工場の一角に中二階があって、資材置き場だったみたいなんだけど、材料を取りに行った労働者がそこから墜落して死亡したの。

 墜落した箇所には、手すりがなかった。

 5日前に監督に行ったときに、なぜ手すりの取り付けや立入禁止の指導をしなかったのかって、労働局からも本省からも叱責を受けて……。

 当時、黒瀬さんは随分落ち込んでいたわ。

 亡くなった労働者はまだ20歳でね。葬儀に行ったら小さな妹さんがお兄さんの亡骸の前で大泣きしていたそうよ。

 死亡災害ということで、ナントカ製造所を労働安全衛生法違反で送検することになった。もちろん、黒瀬さんとは別の監督官が主任捜査官となって送検したんだけど……。

 送検後、取引を停止する取引先がいくつか出てきたりして、ナントカ製造所の経営が傾き始めて。

 ちょうど、工場に高額の機械を導入したばかりだったらしくて、大きな負債があるのに売上の減少が起こってこらえきれず、倒産してしまった。

 その上……それらの一連の出来事を苦にして、社長が自殺してしまったの。

 社長の自殺には黒瀬さんも相当ショックを受けて……。

 精悍な顔つきが見る影もなく、やがて出勤もできなくなって、自宅に引きこもってしまった。

 それから1か月ほど経って、黒瀬さんは自ら命を……。

 遺書がなかったから、はっきりとした理由はわからないとのことでした。だから、これは私の推測でしかないけれど……。

 手すりのことを自分が見落とさなければ、この一連の不幸が起こらなかったのではないか……。

 黒瀬さんは、そのように悔やまれて心を壊してしまったのではないかと、私は思います。

 智美に繰り返しお礼を言って、麗花は家路についた。

 電車を降りると、宿舎までの道のりをとぼとぼと歩く。

 智美の話を聞いて、ショックという言葉では言い表せないほどの衝撃を麗花は受けた。

 その一方で、ずっと探し求めてきた、父の死の真相に関する情報を手に入れることができたという達成感も感じていた。

(お父さんのことは時間をかけて消化するしかないけれど……松本さんから話を聞けたことはよかった。思い切ってY局に乗り込んだ甲斐があった)

 いつの間にか、Y労働局に転勤してから3か月が経過していた。

 加平とは、時々電話やメッセージのやりとりをしているが、一度も会っていない。

 プロポーズを断ったことによる気まずさが2人の間に残っていることは、電話越しでも隠しようがなかった。

(加平くんに、会いたいな……。父のことに区切りがついた途端、なんて現金なんだろうと思うけど)

 麗花が宿舎に着くと、背の高い男が玄関の前に立っていた。

「!」

 駆け寄って確かめると、やはり加平だ。

「加平くん……どうして?」

 加平は、手にしていた荷物を地面に落とすと、力強く麗花を抱きしめた。

「会いた……かったから……それ以外あるわけが……」

 言葉を詰まらせながら麗花を抱きしめる加平の腕から、麗花の頭につけた頬から、温かい気持ちが麗花の体に流れ込んでくるような感覚がした。

(全身が、加平くんに会えて喜んでるみたいな……やっぱり、私には加平くんが必要なんだ)

 それからは、月に一度のペースでお互いの家を行き来するようになり、麗花と加平は再び2人の時間を重ねていった。

 そして――。順調に2年間の他局勤務を終え、2人は再びK労働局に戻ったのだった。

 麗花は労働基準監督官になって5年目の冬を迎えた。

 公私共に順調な麗花だったが、特に5年目に入った加平との交際は、遠距離恋愛を経て雨降って地固まり、ゆるぎないものになっていた。

(前にプロポーズしてくれたときは、加平くんを悲しませてしまった。次そういう雰囲気になったときは、絶対かわいく頷く! それとも、逆プロポーズする?)

 麗花は現在、筆頭署の縦浜南たてはまみなみ労働基準監督署に勤務している。

 筆頭署とは、その労働局の中心となる最も大規模な労働基準監督署のことだ。

 県庁所在地を管轄する場合がほとんどで、それだけに業務量も来庁者数も県内トップクラスだ。

 日々忙しい筆頭署での勤務だったが、1月に入ると、毎年恒例の文書廃棄を行うことになった。

 行政の文書は保存期間が決まっており、例えば監督結果を取りまとめた復命書の保存期間は5年だ。

 保存期間が過ぎた文書は、廃棄の許可が出次第、専門業者に委託して溶解処分にする。

 各部署ごとに数名が選出されて廃棄文書の荷造り作業を行うことになっており、若手の麗花は順当にメンバーに選出された。

 署内の書庫に入りきらず元佐賀巳職安に仮置きされている分が今年の廃棄対象らしく、麗花は事前に元佐賀巳職安の警備の解除キーと入り口の鍵を総務課に借りに行った。

 元佐賀巳職安に到着すると、さっそく作業を開始した。

「うっわー、ほこりがすごい!」

 普段誰もいない元佐賀巳職安は、埃っぽくて空気が淀んでいた。

(こりゃひどい)

 麗花は長い髪を後ろでまとめると、持参したマスクを顔につけた。

 管理職が指示した文書を若手がどんどん取り出していき、背表紙を上にして溶解用の段ボールに詰めていく。

 3時間ほど黙々と作業したところで、やっと全てを詰め終えた。

(喉乾いたー)

 麗花がペットボトルのお茶を飲んでいると、少し離れた場所にある角宇乃労働基準監督署の書類置き場が目に入った。

 近づいてみると、「司法」「災害調査」「監督」「一般復命」などと、種類ごとに区画して書類が置かれている。

(司法……。松本さんは、死亡災害が起こった事業場は送検されたと言っていた。司法の書類は確か永年保管のはず。もしかして、この中にお父さんの自殺のきっかけになった死亡災害の一件書類があるのでは……)

「黒瀬さん! そろそろ帰るよ」

「は、はい……」

 麗花は後ろ髪を引かれる思いで元佐賀巳職安を後にした。

 1か月後――。

 麗花は、レンタカーで元佐賀巳職安にやってきた。

 時刻は午後7時。辺りは真っ暗だ。

 この1か月、父の死のきっかけとなった死亡災害の書類を見たいという考えが、どうしても頭から離れなかった。

 このようなやり方は国家公務員人生の命とりになることは重々承知していたが、かと言って正当な手段で元佐賀巳職安に入る方法も思いつかない。

 昼間のうちに労働局から持ち出した、警備の解除キーと入り口の鍵を上着のポケットから取り出した。

 カチリと入り口の鍵が開く音が、真冬の暗闇に響いた。

 中に入ると懐中電灯を点け、角宇乃労働基準監督署の書類置き場に向かう。

(確か、この辺だったはず)

 前回の記憶を頼りに、麗花は角宇乃労働基準監督署の書類置き場にたどり着いた。

 司法の関係ファイルは100冊ほどあったが、30分ほどで目当てのファイルを見つけることができた。

陸川りくがわ製作所 死亡災害 送検……」

 麗花は一旦ファイルを持ち出すと、最寄りのコンビニで必要な部分の写しをとり、再度元佐賀巳職安に戻って元の場所にファイルを戻した。

 自宅に帰ると、麗花は夢中で一件書類のコピーを読んだ。

(あれ? なんだろう、なにか引っかかる感じが……)

 麗花が無断で元佐賀巳職安に侵入してから1か月が経過した。

 暦は3月。行政にとって1年で最も忙しい繁忙期が始まろうとしていたある日、麗花は香坂基準部長から呼び出しを受けた。

(まさか、元佐賀巳職安に出入りしたことがバレた? 総務課にもうまく鍵を返せたと思っていたのに、今頃になって……)

 麗花が基準部長室に入ると、基準部長はいつも開けっ放しにしている入り口のドアを閉めた。

「ここに映っているのは、黒瀬さんだね?」

 香坂基準部長に見せられたのは、元佐賀巳職安の入り口に取り付けられていたらしい防犯カメラの映像だ。

 そこには、黒っぽい服装の麗花の姿が映っていた。

(防犯カメラなんかあったんだ……。なんだか私、強盗の犯人みたい)

「……そうです。申し訳ありませんでした」

 香坂基準部長はため息をつくと、防犯カメラの画像を映し出していたノートパソコンを閉じた。

「まだちょっと信じられないが……。鍵はどうしたんだ? こじ開けられた形跡はなかったようだが」

「総務課から持ち出しました。文書廃棄の時に借りに行ったので、場所はわかってましたから」

 昼休みを見計らって総務課に入ったら、昼食で席を外したり昼寝をしたりしている職員が多く、意外と簡単に持ち出せたのだ。

「総務課にも管理上の責任があるが……それより、なぜこんなことを?」

「それは……言いたくありません」

 麗花は膝の上に置いた両手をぎゅっと握った。

 それから1時間――香坂基準部長は繰り返し動機を尋ねたが、麗花が答えることはなかった。

 香坂基準部長から言い渡されたのは「自宅謹慎」だった。

 と言っても、表向きは体調不良ということにして、当面の間年次有給休暇の消化をしろという。

「しばらくこの件は預からせてもらう。縦浜南署の署長には私から説明しておく」

 労働局から署に戻って最低限の片づけをすると、麗花は早退した。

(今日は金曜日か……。そうだ、加平くんの家に行く約束だった)

 加平は国家公務員宿舎には住まずに、角宇乃市内のアパートを借りて一人暮らしをしている。

 加平の家に着くと、麗花は合鍵を使って中に入った。

 暖房を点けるのも億劫で、コートを着たままソファに座り込んだ。

 時刻はまだ夕方5時。まもなく加平も仕事を終えるだろう。

(鍵の無断持ち出し、元佐賀巳職安への侵入、自宅謹慎……とてもじゃないけど加平くんに言えない)

 加平が麗花の家庭のことを不必要に問うことはなかったので、父親についての詳しいことを加平に話したことはない。

 父親の死に疑問を抱いていることを話してしまえば、厄介なことに加平を巻き込んでしまうのではないかと麗花は不安だったのだ。

(基準部長からはどんな処分が下されるんだろう。私といることで、加平くんに迷惑がかからないだろうか)

 ソファにもたれたまま目を閉じていたら、麗花はいつのまにかうとうとしてしまった。

(お父さん……)

『……陣平さん……申し訳ありません。俺のせいで……』

『……コージくん、それは言わない約束だろ』

(これは……子供の時に聞いた会話の記憶……? コージお兄さん……どうして謝ってるの?)

『工場が広いので、……監督官と私は二手に分かれて工場内を回ることになりました……死亡災害があった中二階のあるエリアは……』

(陸川製作所で発生した死亡災害……一件書類の中にあった、父の供述調書……二手に分かれて……?)

「……麗花? 寝てるのか?」

 加平の声で、麗花は目が覚めた。

「どうして暖房も点けずに……。こんなに冷えて」

 加平は麗花の頬にそっと手をあてた。

「……加平くん、早かったね」

「ああ、実は寄るところがあって早退したから」

 加平のそばに、ティファニーブルーの小さな紙袋が置かれていた。

「……」

 麗花が紙袋に気づいて言葉を失っていると、加平が照れくさそうに頚の後ろに手を置いた。

「開けてみて」

 加平に促されて、麗花が紙袋から中身を取り出すと、出てきたのは――。

「これって……」

 一般家庭の照明の下でも、それはまばゆい光を放っていた。

 加平は麗花の左手をとると、薬指にそれをはめた。

「麗花。前にプロポーズした時から、俺の気持ちは変わってないし、これからも変わらない」

 加平は、麗花の左手を自分の両手で包んだ。

「結婚しよう」

「……」

(だめ……できない……。懲戒処分待ちで自宅謹慎中の女と結婚なんて、加平くんのマイナスにしかならない)

「麗花……?」

(それに、私はまたお父さんの死に執着してる。こんな気持ちでは、きっとまた、加平くんのことを想わずに後先考えない行動をとってしまう)

 麗花は、左手から指輪を抜き取ると、加平の手のひらに置いた。

「私……」

「ごめん……俺はまた麗花の気持ちを考えずに突っ走ってる?」

(違う……加平くんのせいじゃない)

「麗花が俺との結婚に前向きになれるまでずっと待つ。だからそのあかしとして、この指輪は麗花が持っていて」

 加平の手が再び麗花の左手に触れたが、麗花はその手を押し返した。

「そうじゃなくて……加平くんとは距離を置きたいの」

「え?」

 麗花は自分のバッグをつかむと、玄関に向かった。

「麗花!」

 出て行こうとする麗花の手を加平がつかんだ。

「待って……」

 加平の絞り出すような声に、麗花も胸が締め付けられそうになる。

「頼むから……今は断らないで」

「え……?」

「麗花が俺と距離を置きたいなら……それはわかった。でも結婚のこともすぐに『ノー』じゃなくて、今は『保留』にしておいてくれ……」

 麗花が見つめると、加平の漆黒の眼球は、悲しみとも苦しみともつかない深みが増しているように見えた。

「……わかった」

 小さくそう答えると、麗花は加平の家を出て行った。

「とにかく一度、麗花さんとお話がしたいですよね。……あ、この唐揚げおいしい!」

 届いた料理をむしゃむしゃ食べながら、時野が言った。

「お話って……俺が連絡しても既読スルーでどうやって話すんだ、って言ったのはお前だろ」

 加平は半眼で時野を見た。

「あ、多分僕なら、麗花さんに連絡が取れると思います」

「はあ?!」

 時野はニッと笑うと、もうひとつ唐揚げを口に入れたのだった。

ー次話に続くー

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