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労働Gメンは突然に:第4話「労働Gメンのロマンス」

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登場人物

時野 龍牙ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。角宇乃かくうの労働基準監督署・第一方面所属。老若男女、誰とでも話すのが得意。

加平 蒼佑かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。あだ名は「冷徹王子」。同期の麗花れいかと何かあるっぽい。

高光 漣たかみつ れん 45歳
22年目の労働基準監督官。安全衛生課長。おしゃべり好き。美人の先輩を追いかけて監督官に。妻は関西出身。

阿久徳 大二郎あくとく だいじろう
阿久徳興業の社長。ド派手なスラックスがトレードマーク。労働トラブルにアドバイスしてくれた加平に一目置く。

角宇乃労働基準監督署 配置図(1階)

本編:第4話「労働Gメンのロマンス」

 夕方5時を過ぎた地下書庫は、静寂に包まれていた。

 夏沢なつさわは滑り込むように書庫の中に入ると、なるべく音を立てないよう静かにドアを閉めた。

 角宇乃かくうの労働基準監督署は地上2階、地下1階の3フロアから構成される単独庁舎だ。

 来庁者が訪れる事務室は1階にあり、ほとんどの職員は1階にいる。2階は会議室・休憩室・更衣室で、地下は書庫と倉庫だ。

 行政機関には膨大な書類が保管されており、書類の置き場問題にはどこの行政機関も頭を悩ませている。

 その点、角宇乃労働基準監督署は恵まれていた。

 単独庁舎ゆえに、地下1階の大部分が書庫なのだ。

 「就業規則」とラベルが貼られた棚の前に、夏沢は立った。

 就業規則は届け出日ごとに結束されて、古い順に棚に並べられている。

 目的の冊子は昼間のうちに探し出し、付箋をつけておいた。

 結束をほどいて目当ての就業規則を取り出すと、縛り直して元の場所に返した。

(あとはこれを、あの人に預けるだけ)

 取り出した就業規則を茶封筒に入れると、抱きしめるようにして1階に上がった。

 自分の手が汗ばんでいるのがわかる。

(大丈夫。明日の朝には元の場所に戻せる)

 庁舎の入り口が見えてきた。自動ドアの向こうに、男の姿が見える。

 男は夏沢に気づくと、ホッとしたように手を振った。

 夏沢も手を振ろうとした、その時――。

「夏沢さん。それ、何ですか」

 背の高い男が、いつの間にか夏沢のすぐそばに立っていた。

 夏沢は恐る恐る男を見上げる。

加平かひら……」

 凍てつくような視線が夏沢の瞳に突き刺さり、夏沢は蛇に睨まれた蛙のように、それ以上動けなくなっていた……。

 時は少し遡り――。

「ほんとあなた、頭固いわね! 会社とは揉めたくないから、監督署で見せてくれって言ってんでしょ」

 女は相談カウンターで金切り声を上げた。

 対応しているのは、第三方面の夏沢百萌ももえだ。

「まだ在職中ですよね? 在職中の労働者に就業規則を見せないというのなら事業場を指導します。事業場には、労働者に就業規則を見せる義務がありますので」

「だーかーらあ! そういう揉め事は起こしたくないから、監督署に届け出てる就業規則を見せてって言ってるんでしょ」

「在職中の場合、就業規則の周知義務違反の指導が先行します。ご希望でしたら、すぐにでも事業場と連絡を取りますが」

「……っ!」

 女はバンと机をたたくと、立ち上がった。

「もういい! 監督署は労働者の味方じゃないって、SNSに書き込んでやる!」

 女は怒りながら庁舎から出ていった。

 夏沢が自席に戻ると、上司である第三方面主任の有働うどうが席の横に立った。

「夏沢さん、対応おつかれさま。相手はだいぶ怒ってたみたいだけど、大丈夫?」

「退職金規程を見たかったようです。監督署で見せてもらえるって、ネットかなんかで見たらしくて。在職中なら、まずは事業場に見せてもらうよう話してくださいって説明したら怒り出しました」

 労働者が10人以上の事業場は、就業規則を作成して労働基準監督署に届け出る義務がある。

 このため、角宇乃労働基準監督署の地下書庫には、管内の事業場がこれまでに届け出た就業規則が山ほど保管されている。

 確かに、一定の条件に該当すれば、労働基準監督署に保管されている就業規則の閲覧を労働者に認めることがある。

 だが少なくとも在職労働者の場合は、まずは事業場に対して労働者から閲覧を求めてもらうことになっている。

「そうだったんだね。ただ……どうして退職金規程を見たいのか、もう少し話を聞いてあげてもよかったかもね。何か困り事があって相談に来てるんだろうから」

「事業主に言いにくかっただけですよ。労働者の求めに応じて事業場側が就業規則を見せたら、どこにも違反はないのに。よくあるパターンです」

「そっか……。だけど、かなり労働者が激高していたし、一旦席を外して俺に相談しにきてくれてもいいんだよ」

(え? 相談したいことなんかなかったけど。対応が間違ってると、遠回しに言っているのだろうか)

 夏沢が黙っていると、有働三主任は頚の後ろをかいた。

「いや、違うんだ。今にも夏沢さんにつかみかかりそうだったから、心配で……」

 有働三主任が端正な顔立ちでにこりと微笑んだ。

(うわっ……キラキラが飛んでる。誰にでもいい顔しないでよ。ほんっと、三主任って八方美人。だから私までいろんなこと聞かれて――)

 三主任の有働伊織うどういおりは、労働基準監督官史上最もイケメンと称えられるルックスだ。その上人当たりも柔らかい。

 37歳でバツイチながら、いまだ内外からの人気が衰えず、ファンを公言している者も少なくない。

 有働の唯一の部下である夏沢は、有働の近況や女っ気についてことあるごとに老若男女から尋ねられることに、ほとほと嫌気がさしていた。

「……以後気を付けます。もう出かけないといけませんので」

「そうだ、支援班だったね。時野ときのくんも一緒だっけ。気を付けてね」

 労働時間相談・支援班は、労働基準監督署内に設置され、中小企業からの法律や労務管理についての相談を受けて改善のための支援を行う部隊だ。

 平たく言えば、相談内容の中に違反があっても、取り締まらずに改善方法を教示するのである。

 労働基準監督署内に設置され……と言っても、取り締まりを行う労働基準監督官が兼務しており、角宇乃労働基準監督署においては夏沢が所属する第三方面が支援班の担当だ。

 突然、バサッという音がした。いくつかの回覧用書類が夏沢の机に置かれたのだ。それらを置いたのは――。

(やっぱり加平か。先輩の机に無言で物を置くな。一言なんか言えんのかっ)

 夏沢は、年上の後輩である加平が大の苦手である。

 労働基準監督官としては夏沢が先輩なのだが、夏沢が卒業後すぐに労働基準監督官になったのに対し、加平は3年の社会人経験を経ており、年齢的には加平が2つ上なのだ。

(こっちが年下だからって、全く先輩と思っていないあの態度。超ムカつく)

 加平とは関わらないに越したことはない――それが夏沢の結論だった。

「夏沢さん、今日はよろしくお願いします!」

 夏沢が運転席に乗り込むと、助手席に乗ってきた時野が元気に挨拶をした。

(今年の新監に可愛げがあるのは救いだ)

 新監の時野について、聞こえてくる評判は悪くない。

 時野は配布された業務資料を全て読み込んでいる上に記憶力もいいので、新監とは思えない知識レベルに達しているらしい。

 頭脳レベルも高いようで、解決不能になりそうだった申告処理の解決にも貢献したという。

 何より、あの冷徹王子の直の後輩としてうまくやっている点で、コミュニケーション能力の高さが群を抜いているとの評価だ。

「今回は、三六協定の記載方法についての支援でしたよね」

「そうよ」

 三六協定とは、あらかじめ時間外労働の最大時間数などを労使で話し合って決めておくための書類だ。

 労働基準法第36条に規定されていることから、「三六協定」と呼ばれている。

 労使で協定後に労働基準監督署に届け出ることで、その事業場は適法な時間外労働・休日労働をすることができる。

 これから支援に行く事業場の概要は、次の通りだ。

  • 事業場名:高階たかしな家具株式会社

  • 所在地:角宇乃市西区○○町○○ー○

  • 業種:家具の販売

  • 労働者数:150名

 支援は、労働基準監督署に相談に来た事業主に行うことの方が多く、訪問による支援を希望する事業場は少数である。

 取り締まらないという前提があっても、労働基準監督官に事業場に来られることにはやはり抵抗を感じるのだろう。

(それにしても……高階家具は創業100年を超える老舗。当然、毎年三六協定を届け出ている。今更記入方法を教えてほしいなんて、なにゆえ?)

 考えているうちに、高階家具の本社に到着した。

 案内された会議室は、さすがにセンスのいい調度品が並んでいる。

「総務課長の寺林てらばやしと申します。今日はわざわざお越しいただいて、お手数おかけします」

(老舗家具店の総務課長の割には、若い)

 寺林は30歳ぐらいに見えた。今はスーツ姿だが、カジュアルな格好をしたら20代に見えるかもしれない。

 決してイケメンではないのだが、愛嬌があってそれなりに整った顔立ちだ。

 寺林の横には、部下だという若い女性も座っている。

(こちらは、新卒で入社したてって感じ。これだけかわいかったら、彼氏もいるんだろうな)

 夏沢は28歳だ。来月には誕生日がきて、29歳になる。

 労働基準監督官になってしばらくして、大学の時から交際していた恋人とは別れた。

 そのあと多少の出会いはあったものの、「交際した」と言えるほどの相手はいない。

(なんかもう恋愛の仕方とか忘れちゃったんですけど)

「これが、昨年度の当社協定なのですが……」

 寺林が三六協定を差し出した。労働基準監督署の受理印も押印されており、きちんと届け出も済んでいることがわかる。

「昨年までの担当者が突然退職しまして。お恥ずかしい話ですが、記載してあることの意味もわからない状態でして……」

「はぁ……」

(長年事業をやってきている割には、引継ぎがずさんだな。まいっか、パパッと説明して帰ろう)

 三六協定についての一通りの説明を30分程度で行い、夏沢は帰り支度を始めたのだが――。

「よかったら、ショールームをご覧になりませんか」

「は?」

 夏沢はさっさと帰庁したかったのだが、時野は目を輝かせている。

「いいんですか?」

「もちろんです。当社はヨーロッパの輸入家具の品ぞろえには自信がありまして、最近始めたリーズナブルなラインは、若いお客様にも好評なんです」

(う。めんどくさ。早く帰りたいんだけどな。新監、空気読めよ)

「ははは、無理に売りつけたりしませんから。せっかく足をお運びいただいたので、気晴らしにご覧になってください」

 結局夏沢も断り切れず、本社併設のショールームを見学することになったのだった。

 平日のショールームは、ほとんど客もおらず、がらんとしていた。

 時野は総務課の女性に説明してもらいながら、夏沢たちより5、6メートル先を歩いている。

 夏沢には寺林が色々と説明してくれているが、機能性が一番と思っている夏沢にとっては、オシャレな高級家具を見ても全く食指が動かない。

「こちらはイタリアから輸入したソファで、座り心地がとてもいいんです。よかったらかけてみてください」

「はあ……では……」

 夏沢は言われるままにソファに座ってみた。

 なるほど、確かに、適度な弾力で体を支えられるような感じは悪くない。

(てゆーか、何だろう、この時間。そろそろ切り上げるか)

「夏沢さんは、どうして労働基準監督官になったんですか?」

「えっ?」

 突然予想外の質問を投げかけられて、夏沢はドキリとした。

「あ、すみません。急にプライベートな質問なんかして……。労働基準監督官って、大変なお仕事だと思うんです。女性にはキツいんじゃないかなって」

「……」

「あ、女性蔑視とかそういうんじゃなくて、ですね。その……労働基準監督官って『怖い』っていうイメージがあったんですけど、随分綺麗な方が来られたんで、正直驚いてて……」

(え?)

「あっ! ますます余計な事を……ほんとすみません……」

 時野たちが一通り見終わって戻ってくると、ソファに座り込んでいる夏沢のそばに、顔を真っ赤にした寺林が立ち尽くしていた。

「夏沢ちゃん、まさか残業する気? 今日は花金だよっ!」

 安全衛生課長の高光たかみつが夏沢に声をかけてきた。

(花金て……一周回って再び死語)

「ほら、伊織くんも注意しなきゃ。定時退庁日に部下が残業しようとしてるよ」

 高光課長は後輩の有働三主任を「伊織くん」と呼んでいる。

 夏沢のことも「百萌ちゃん」と呼びかねないが、そこは最低限の線引きをしているらしく、夏沢には名字にちゃん付けでとどめている。

「ですね。夏沢さん、もう今日はお終いにして帰ろうか。金曜日だし、よかったら……」

「では、お先に失礼します」

 上司から残業するなと指示されたのなら、これ以上ここにとどまることはできない。

 夏沢はさっさと片付けると、庁舎を後にした。

(おなかすいたな。生ビール飲みたい。うん、あそこに寄ろう)

 夏沢は一人暮らしだ。食事の用意をするのが億劫な日は、外で済ませて帰ることが多い。

「いらっしゃい!」

 夏沢は、行きつけのラーメン居酒屋に入った。大将の威勢のいい声が気持ちいい。

 カウンター席に座ると、とりあえずの生ビールと、いつものラーメンに餃子を注文した。

 この店のニンニクが効いた餃子は、生ビールによく合う。

 大将がカウンターの向こうから生ビールを出してくれた。餃子を待ちきれず、口をつける。

(五臓六腑に染み渡る……! 今週もおつかれ、私)

 餃子が出てくる前に、生ビールをほとんど飲んでしまった。

 ほんのりとした酔いが回ってきて、周りの雑音が少し遠くに聞こえる。

(綺麗な方、か……)

 高階家具に行ってから、3日経った。

 あの後は、何と言っていいかわからず、お互いごにょごにょと挨拶をして、ショールームを後にした。

「夏沢さん」

(寺林さん……だったっけ)

「夏沢さん、ですよね?」

「!」

 驚いて振り返ると、寺林が立っていた。

「やっぱり夏沢さんだ。よかったら、隣いいですか?」

「あ、はい、どうぞ……」

 人気店なので、ほとんど満席状態だ。

 カウンターは一席おきに座っていたが、それも難しいほど混雑してきている。

「夏沢さんは、よくこの店に来られるんですか?」

「そうですね、月に何度か来てるかも。変、ですか? 女が1人でこういう店に来るの」

 夏沢は少し恥ずかしくなった。アラサーの女が1人、ラーメン居酒屋のカウンターで生ビールをぐびぐび飲んでいるところに、寺林がやってきたのだ。

「全然! そんなことないです。私もこの店の餃子が好きで、月に1度は来ちゃうんです。ここの餃子って依存性があると思いませんか?」

 ははは、と寺林が明るく笑った。夏沢もつられて表情が緩む。

 隣に座るといっても挨拶をするだけと思っていたが、寺林は当たり前のように夏沢と乾杯をし、そのまま話しかけてきた。

 アルコールが入ったせいか寺林は饒舌で、夏沢も思いのほか会話を楽しんだ。

(同世代の男性とこんなに気楽に会話をするのって、久しぶりかも)

 食事が終わって2人で店を出ると、寺林が背広の胸ポケットから小さな紙を出した。

「夏沢さん、日曜日、お時間ありますか」

「え?」

 寺林が手に持っているのは、何かのチケットのようだ。

「角宇乃市民ホールで産業交流展があるんです。うちも出店するんですけど、色々イベントがあって、食品会社のブースでは飲食もできるんですよ。この招待チケットで入場するとクーポン券付きで入れて、有料の飲食にも使えるので」

「あ……そういうの、立場上もらえないです。お気持ちだけで……」

 夏沢は断ろうとしたが、寺林は夏沢の手をとってチケットを握らせた。

「誰にでも配っているチケットですから。日曜日に時間がなかったら、捨ててください。でも、もし来られたら、うちのブースにも寄ってくださいね」

「でも……」

 寺林は、じゃあ、と手を上げると帰ってしまった。

 そして、日曜日――。

(そうだ、午前中は、美容院の予約を入れてたんだった)

 予約した美容院は、角宇乃市民ホールの近くだ。

(美容院の後ちょっとだけ寄るか)

 普段はノーメイクに近い夏沢だが、きちんと化粧をして美容院に向かった。

 美容院でカットとカラーをしてもらうと、切り立ての髪はみずみずしく、染め直してもらった髪も艶が出た。

「このあとご予定あります?」

「予定ってほどじゃないんですけど、ちょっと寄るところが……」

「じゃ、軽く巻いておきますねー」

 いつもと違ってフルメイクの上に、髪も巻いてもらって華やかになった。

(なんだかキメキメになっちゃった。別に、寺林さんに会うからじゃないけど……)

 角宇乃市民ホールに入ると、産業交流展はメインホールで行われており、夏沢の予想よりずっと大規模で、来場者の数も多く盛況だ。

 色々な会社のブースを眺めながらぶらぶらと歩いていると、「TAKASHINA FURNITURE」と書かれたパネルが見えた。

(あ、ここだ)

 夏沢は外からブースを覗いてみたが、社員らしき男女が2、3人いるものの、寺林の姿は見えない。

(いない、か……。顔だしてくださいって言われたから、来たことを伝えておきたいけど、監督署の者ですっていうのも変だしなー)

 ブースの中を覗くことに注意が向きすぎて、夏沢は後方から人が近づいてきたことに気がついていなかった。

「夏沢さん」

「わあっ!」

 飛び上がるように驚いて、夏沢は尻餅をついてしまった。

「すみません! 驚かせるつもりじゃなかったんです」

「いえ……」

 寺林が、夏沢の両手をつかんで引っ張り起こした。

「本当に来てくれたんですね、うれしいです。それから……」

 寺林は近くに人がいないことを確かめると、夏沢だけに聞こえるよう、小声でささやいた。

「金曜日は、一緒に餃子を食べれて楽しかったです」

 なんだか2人の秘密事のように言われて、夏沢の心臓がドキンと波打った。

 仕事で知り合った人とプライベートで会うだなんて、今までしたことがない。

「どうぞどうぞ、見ていってください。今回はおひとり様特集で、ひとり用のソファとかテーブルセットとかソファ型のマッサージ機とか、色々展示してますから」

 寺林に勧められて、夏沢はソファ型のマッサージ機に座った。

「わ、これほしいー」

「夏沢さんなら、サービスさせてもらいますよ! 社割と同じ2割引で」

「半額にしてください」

「えぇっ! 想定外に厳しい要求だなー」

 2人で顔を見合わせて笑う。

「そうだ、他のブースは回りました? 私これから休憩なので、ご案内しますよ」

「えっ、でも……それじゃあ寺林さんの休憩にならないんじゃ……」

 寺林はにこりとすると、同僚に声をかけてから背広を羽織り、夏沢のところにやってきた。

「いきましょう」

 寺林は、色んなブースを熱心に案内してくれた。

 開発中の新商品の試食ができるエリアでは、2人で色々な商品を試食し、「独創的な味!」「イマイチかな」などと感想を言い合った。

 寺林の意図はよくわからないが、夏沢を一生懸命案内してくれているし、本人も楽しそうなのが伝わってくる。

(私もめちゃくちゃ楽しいんですけど)

「次、あれ試してみましょうよ」

 寺林が指さしたのは「超絶強炭酸メーカー」と書かれたブースだ。

 通常の炭酸水を「1泡」として、段階的に炭酸を強くし、最大で「10泡」の炭酸水を試飲できるという。

 夏沢は2泡にしたが、寺林は10泡に挑戦した。

「炭酸好きなんで。ほら、ビールも好きだし」

 そう言って、寺林は無邪気に笑った。

 炭酸水をいれたプラコップをもって、2人はテラスに出た。並んでベンチに座ると、せーの、で口をつける。

「がはっ!」

 寺林はあまりの炭酸の強さに思わず吹き出し、コップから跳ね返った強炭酸を顔面に浴びることになった。

 寺林のしわくちゃになったひどい顔を見て、夏沢は吹き出した。

「あはははは」

「笑いすぎです! ひどいなあー」

 ハンカチで顔を拭いながら、寺林が言った。

「だ、だって……あははは。10泡になんかするから」

 寺林は洋服まで濡れてしまっている。

 夏沢は自分のハンカチを取り出して、寺林の背広の襟元を拭いた。

 他に濡れているところがないか、夏沢が寺林の背広に顔を近づけて確認していると、ふいに寺林と目があった。

(しまった、距離感しくじった)

 距離をとろうとしたその時――寺林が夏沢の手をつかんだ。

「!」

「夏沢さんって、彼氏いるんですか?」

「い、いませんけど……」

「今日ちょっと雰囲気違いますよね。髪型とか……。俺に会うから綺麗にしてきてくれたんなら、すごくうれしいですけど」

「これは、たまたま美容院に……」

「俺、夏沢さんにまた会いたい」

「えっ」

 寺林は、まっすぐに夏沢を見つめている。

「ダメ、ですか……?」

 ドッドッドッという音がどこかから聞こえてきた。

 それが自分の心音であると夏沢が気がつくのに、そう時間はかからなかった……。

「最近、夏沢さんがおかしい」

 有働三主任は開口一番そう言うと、白ワインのグラスに口をつけた。

「あー、それは俺も気づいちゃってたよ。最近の夏沢ちゃんは、なんというか……」

 高光課長は枝豆を口に放り込むと、わしわしと噛んでハイボールで流し込んだ。

「なんというか、なんですか?」

 時野はお通しのタコワサを食べながら、高光課長に質問した。

 加平は黙ってウーロン茶を飲んでいる。

 監督官男子4人は、角宇乃駅前の居酒屋に来ていた。

 仕事終わり、元気のない有働三主任を励まそうと、高光課長が召集したのだ。

 加平は、アルコールには付き合わないという条件でのしぶしぶ参加だ。

「恋してるね」

「……!」

 高光の口から断言されて、有働三主任はとどめを刺さされたようにがっくりとうなだれた。

「恋? 誰が、誰にですか?」

「夏沢ちゃんが、だよ! 相手が誰なのかは、灰色の脳細胞の俺にもわからない……でも残念ながら伊織くんでないことは確かだね」

 そう言われてみれば、最近の夏沢は雰囲気がどことなく華やかだ。

「夏沢さんが恋してるとして、三主任とはどういう関係が?」

「あー、時野くんはわかってなかったかあー。伊織くんが夏沢ちゃんにほの字なのは周知の事実だよ。知らないのは夏沢ちゃんぐらいだね」

「えぇ? 加平さんも知ってたんですか?」

 時野がぐりんと隣の加平の方に向くと、加平は関心がなさそうに腕を組んでいる。

「逆に知らない奴いたの」

「えぇぇー! でもでも、三主任てファンクラブがあるほどモテますよね。告ったらいいんじゃないですか」

 時野の素直な意見を聞いた有働三主任は、顔を上げて大きなため息をつく。

「それができたら苦労しないよー。夏沢さん、俺のこと眼中にないし。それに俺ってさ、言い寄られるばかりで逆はほとんどしたことないから、距離の縮め方がわからなくて……」

「はあーいっ! 今のは世の中の全男を敵に回したよ、伊織くん」

 高光課長がジャングルポケットの斉藤さん風に言ったが、有働三主任は気にもとめずに話を続ける。

「その上、直属の上司になったら、余計に身動きが取りづらくて……」

(まあ、それはあるだろうな。セクハラとか言われたら終わりだ)

「それにしても、夏沢さんのお相手って、誰なんでしょう?」

「おそらく外部だな。内部の人間だったらなんらかの目撃情報があってもいいのに、夏沢ちゃんの場合は唐突に恋が始まった感じだからな」

 高光課長の意見に、有働三主任はうなずく。

「俺もそう思います。思い当たることもあって……。実は2週間前の金曜日、夏沢さんが庁舎を出たのを追いかけたんです。その……飲みにでも誘いたくて。そしたら、庁舎の外に潜んでいた男が、夏沢さんの後をつけ始めて」

「え、なにそれ、ストーカー?」

「そうかと思って、俺も後ろからついていきました。夏沢さんが居酒屋に入ったと思ったら、その男も中に入って。しばらく悩んだんですけど、入り口を開けて中を見てみたら、2人で飲んでいて……」

(てことは、待ち合わせだろうか?)

「なんだ。じゃあそいつで決まりじゃね? 誰だろ、顔でもわかればなー」

「あ、顔ならわかります。写真撮ったんで」

 有働三主任はしれっと言った。

「ええぇ! 写真撮ったの? ストーカーはどっちよ」

 高光課長はドン引きしている。

 有働三主任のスマートフォンの画面には、カウンター席で隣り合う夏沢とスーツの男が写っていた。

(ん? この人、どこかで……)

「あっ! 高階家具の人だ!」

「高階家具?」

 有働三主任と高光課長がシンクロする。

 夏沢と高階家具を訪問し、ショールームを案内してもらったことを話すと、高光課長はなるほどとうなずいた。

「こういう見た目が草食系の男は、女の子に警戒心もたれなくて近づきやすかったりするんだよな。で、油断してる時を見計らってガブリ。いわゆるロールキャベツ男子ってやつ?」

 時野が見ると、有働三主任はまだ考え込んでいる様子だ。

「三主任?」

「あ、ごめんごめん。その男が夏沢さんの意中の相手かもしれないっていうほかに、最近どこかで高階家具のことを見るか聞くかしたような気がして……」

(三主任がそう言うなら、おそらく業務中のどこかで、ということだろう。支援に行ったときは、特に問題がある事業場には見えなかったけど……)

 結局有働三主任の悩みはすっきりしないまま、監督官男子4人の飲み会はお開きとなった。

 視線を感じて夏沢が顔を上げると、カウンターの向こう側に寺林が立っているのが見えた。

 夏沢がカウンターに近づくと、寺林は軽く右手をあげた。

「今日は労災課の方に用事があったんだ。もしかしているかなと思って。忙しいと思ったんだけど、その……夏沢さんの顔が見たくて……」

 寺林はそう小声で言って、照れくさそうに頚の後ろをかいた。

(どうしよう、うれしい)

「今夜、あの店行かない?」

 寺林が言っているのは、前に2人で飲んだラーメン居酒屋のことだ。

 夏沢がうなずいたのを見て、寺林は無邪気な笑顔を見せると、小さく手を振って帰っていった。

 産業交流展に行った日曜日から約2週間。寺林とは、3日と空けずに会っている。

 仕事の後家まで送ってもらっただけの日もあれば、一緒に食事をした日もあった。休みの日には、私服の寺林と出かけたりもした。

(告白されたわけではないけど……。これって付き合ってるのかな)

 夏沢は、もはや疑いようのないほど、寺林に惹かれていた。

 寺林を想いながらしばらくその場に立ち尽くしていたが、そんな夏沢を見ている4人の男がいるとは、微塵も気がついていなかった……。

(あわわわ。このただならぬ雰囲気は……夏沢さんの恋のお相手は、やはりこの人で間違いない。確か、寺林さんと言ったかな)

 夏沢と寺林の様子を少し離れたところから見ていた時野だが、はっと気がついて後方の三主任席を見ると、有働がわなわなと震えている。

(あ、撃沈してる)

 次に高光課長の方をみると、両手でハートマークを作って時野に合図を送っている。

 さすがの加平も、夏沢と寺林の様子を見ていたようだったが――。

「あれ? 高階家具の娘婿じゃないですか」

 阿久徳社長が加平を訪ねてきたので、時野も一緒にカウンターで対応しているところだったのだが、その阿久徳社長の発言に、時野は耳を疑った。

「娘婿?!」

「ま、正確にはまだですけどね。近々正式に社長の娘と婚約して、子会社の『TAKASHINA FURNITURE』の社長になるらしいですよ」

(そんな……どういうこと?)

 時野は混乱した。

 加平はと言えば、いつも通りのポーカーフェイスだ。

「それはそうと先日の天天フーズですがね。社長が泣きついたんで、結局10人のうち半分が天天フーズに戻っちゃいました。まあ天野さんも、うちに詫びをいれに来てくれましたけどね」

 天天フーズとは、時季変更権を悪用して労働者が有給休暇を取るのを阻害した結果、営業職の大量退職という悲惨な事態に陥った事業場だ。

「で、なんでこんなことしたのって天野さんに聞いてみたらですよ。妙なメールが届いて時季変更権について指南されたって言うんです」

「!」

 加平が顔色を変えた。

「差出人は"R"としか書いてなかったと……。気になったんで、加平さんのお耳にいれておいた方がいいかと思いましてね」

(また"R"か……ムラサキ工業の時と同じだ。一体何者なのか……)

 夏沢がラーメン居酒屋に入ると、寺林がテーブル席から手を振るのが見えた。

 生ビールを2つ注文して、乾杯をする。

「新メニューのゆず胡椒餃子だって。おいしそうー。でも定番の餃子もやっぱり食べたいしなー」

「じゃあ1人前ずつ頼んで、半分こしよう」

 夏沢が悩んでいると、寺林がそう提案してくれた。

(今まではどちらかに決めるしかなかったのに……シェアできる人がいるっていいな)

 ゆず胡椒餃子と定番餃子を、2人で食べ比べてみる。

「あれ? 夏沢さん、もしかしてゆず胡椒ばっか食べてない? 半分この約束でしょ」

「バレたかー」

 夏沢がてへへと笑ったら、寺林もいつもの無邪気な笑顔を見せた。

(寺林さんの笑顔、好き。だけど、今日はなんだか……)

 食事が終わると、店を出て同じ方向に歩き出す。会った後はいつも、寺林は家まで送ってくれた。

「じゃあ、また」

 夏沢が住むアパートの前で、寺林は軽く手を振って背中を向けた。

「あ……待って!」

 寺林が振り向く。

「もしかして……今日、元気ない?」

「え?」

「私の気のせいならいいの。ごめんなさい、引き留めて……」

「あー……バレちゃってたか。気を遣わせたくなかったんだけど」

 寺林は、少し困ったような笑顔を見せた。

「……あの、よかったら、上がっていかない? 話ぐらいなら聞けるし」

「……」

「ごめん、無理にとは言わないけど。明日も仕事だし……」

 夏沢は、自分の手をぎゅっと握りしめてうつむく。

「ありがとう。じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」

 夏沢が玄関の鍵を開けて先に中に入った。寺林も後に続く。

「ちょっと散らかってるけど、どう……」

 振り返った夏沢を、突然、寺林がぎゅっと抱きしめた。

「!」

(そりゃ、そうなるよね。いい年の大人の男女が2人きりになったら。でもどうしよう、今日とは思ってなかったから、何も準備してないよー)

「俺、会社クビになるかもしれない」

「えっ? どうして……」

 予想していなかった話に、夏沢は驚いた。

「会社の就業規則を紛失したんだ。総務課長の俺の責任問題ってことになって……」

 夏沢の耳元で、寺林は苦しそうな声を出した。

「子会社も、親会社の就業規則のとおりとする、っていう規則の定め方してるから、子会社も含めた高階グループ全体の問題になりかねないんだ」

(総務・人事に関わる重要文書の紛失……確かに大ごとだ)

「社長からは、原本を探し出すか、せめて元データでもいいから見つけ出せって指示されてるんだけど、どうしても見つからなくて……」

 夏沢の両肩を優しくつかんで体を離すと、寺林は夏沢をじっと見つめた。

「3年ぐらい前に就業規則を労働基準監督署に届け出ているはずなんだけど、それを借りることはできないかな? 写しをとったらすぐに返す。コピーがあれば、同じ就業規則を作れる」

「……」

(就業規則は受理した時点で公文書だ。公文書の不正持ち出しが発覚すれば、懲戒処分もの……)

 夏沢に沈黙されて、寺林は目を伏せた。寺林の苦しそうな表情を見て、夏沢も自分の胸が締め付けられるような思いがした。

(でも……)

「ごめんなさい……それはできない」

「……うん、そうだよね、わかってる。夏沢さんの立場も考えずにこんなこと頼んだりして、ごめん」

 寺林は夏沢の肩から手を離した。

「じゃあ、今日はこれで……。話を聞いてくれてありがとう」

 寺林が玄関のドアノブに手をかけた。

(あ……)

「待って!」

 寺林が驚いて振り向く。

「あの……会社を辞めることになったら、そのあとはどうするの?」

「ああ……。うーん、そうだな、多分田舎に帰るよ。小さいけど、実家が工務店をやってるんだ。兄が継いでるんだけど」

「田舎って?」

「青森だよ」

(青森……そんな遠くに……)

 庁舎の入り口の自動ドアの向こうに、夏沢を待つ寺林の姿が見えた。

(今から渡して、明日の朝返してもらったら元の場所に戻す。大丈夫、うまくいく……)

 あとほんの3メートルほどで、自動ドアにたどり着こうとした、その時――。

「夏沢さん。それ、何ですか」

「加平……」

 加平は、夏沢が胸に抱きしめている茶封筒を見ている。

 夏沢は、答えることができない。

(よりによって加平に見つかるなんて……終わった……)

 その時、自動ドアが開いて寺林が中に入ってきた。

「夏沢さん! それ、用意していただいた資料ですよね? もらいます」

 寺林が夏沢に向かって手を伸ばす。

 すると、加平が前に出て立ちはだかり、夏沢は加平の背中に隠れる形になった。

「あなたなんですか? 私は夏沢さんから……」

「寺林だな。就業規則の中の退職金規定が目的か?」

「!」

 寺林の顔がこわばった。

(退職金規定……?)

 加平は夏沢から茶封筒を取り上げると、中身を取り出す。

 現れたのは、『高階家具株式会社 就業規則』と題された分厚い冊子だ。

「これを夏沢に持ち出させて、どうするつもりだ?」

「……」

 寺林は黙ったまま、加平の手にある就業規則を凝視している。

「大方、処分するつもりだったんだろ。お前らにとって都合の悪い退職金規定が含まれた、この就業規則を」

「え、処分……? 違うの、この人は、就業規則を作りなおすためにコピーを取らせてほしいって……」

 訂正しようとする夏沢の方に、加平が振り向いた。その目は凍てつくように冷ややかで、夏沢は動けなくなってしまった。

「監督署に届け出た就業規則は公文書だ。寺林、あんたには渡せない。とっとと帰るんだな」

「……!」

 夏沢は、寺林を見ようと、加平の後方から顔を出した。

 寺林と、一瞬目が合ったが――。

 そこに夏沢の好きないつもの笑顔はなく、その表情は負の感情で歪みきっていた……。

 寺林が庁舎を出ていくと、加平は夏沢の腕を引っ張って近くの会議室に入らせた。

(てっきり、署長室に突き出されるかと思ったのに……)

 加平は待機していた時野に何かを指示し、時野は会議室を出て行った。

(そうか、ここに署長や三主任を連れてくるつもりなんだ)

 夏沢は、加平をキッと睨みつけた。

「私を突き出すんでしょ。自分のしたことぐらい、わかってる。私のこと、馬鹿だと思ったよね。見下みくだしてるんでしょ。あ、加平が私を見下してるのは今に始まったことじゃないか」

 こうなったらもっと悪態をつこうとしたのだが、夏沢はそれ以上声が出せなくなった。

 ガチャリと扉が開く音がして、時野が戻ってきた。

 加平は時野から箱ティッシュを受け取ると、夏沢に押し付けた。

「とりあえず、け」

(え……?)

 ティッシュを渡されて初めて、自分の目や鼻から水分があふれ出していることに気が付いた。

 拭いている間、加平は腕を組んでじっと立っていた。時野も黙って見守っている。

「高階家具の子会社の『TAKASHINA FURNITURE』、聞き覚えないか」

(TAKASHINA FURNITURE……? 産業交流展でも見たけど、そんな風に言われたら、どこか他でも聞いたような……)

「夏沢さんが受けた就業規則開示の相談。窓口で労働者の女がだいぶ騒いだってきいたけど」

「あ……! 思い出した、退職金規定が見たいって窓口に来た相談者のこと?」

 高階家具に初めて訪問する日に受けた相談だ。

 その相談者が相談票に記載した事業場名は、「TAKASHINA FURNITURE」だったのだ。

「あの女、あの後また来たんだよ。その時は三主任が対応した。TAKASHINA FURNITUREは労働者が社長と揉めて、20人以上退職しようとしてる。労働者側は退職金ありの労働契約だったと主張したが、社長は退職金なんか払わないと突っぱねたらしい」

 加平が、その時の相談記録を夏沢に手渡した。

「TAKASHINA FURNITUREの就業規則では、退職金について『親会社の退職金規定に準ずる』と規定している。それで親会社の高階家具の退職金規定を見せるよう社長に迫ったが、見せてもらえない。それもそのはず、親会社の退職金規定どおりに計算したら、その金額は20人分で数千万円に上る。意外と勤続年数が長い労働者が多かったようだからな」

(20人分で、数千万円……)

「揉めて辞めていく労働者にそんな大金を払いたくはない社長は、就業規則は見せないと突っぱね続けた。だが、監督署の就業規則に労働者が目をつけていることに気が付いて、監督署保管分の就業規則の存在を脅威と感じるようになった。揉めに揉めて裁判にでもなれば、監督署保管分の退職金規定がいずれ明るみに出るだろうからな」

 夏沢は、信じられない思いで加平の話を聞いていた。

「そこで社長は、娘が惚れて婿入り予定だった寺林に、今回のことを命じたんだろう。監督署の人間をたらし込んで、監督署保管分の就業規則を処分しろ、ってな」

(婿入り予定……? 誑し込んで……?)

 夏沢は、自分の体から血の気が引くのを感じた。

「夏沢さん危ない!」

 時野が叫ぶのと同時に、加平が夏沢の両腕をつかんで支えた。

「……加平」

 夏沢はゆっくり顔を上げ、背の高い加平を見上げた。

「馬鹿な女だと思ってるよね……? 男にそそのかされて不正をやらかすなんて」

「……」

「その通りだよ。私が男っ気のないアラサー女だから、ちょっと甘い言葉かけられただけでコロッと騙されて。その上、持ち出すだけだって言われて信じて……公文書滅失の罪を着せられそうになっていたなんて……」

 夏沢を、加平のほの黒い瞳が見下ろしている。

「いつもツンケンしてるくせに、ざまあみろでしょ……? もういい……。こんな私のことなんて、誰も……」

「うるせえ!」

 突然加平に怒鳴られて、夏沢の体がびくっと震えた。

「お前は人からの悪意にも好意にも鈍感すぎるんだよ!」

(え……?)

「お前を想ってるやつがすぐ近くにいること、いい加減わかれよ!」

(すぐ近くに……?)

 加平がふっと力を抜いて、つかんでいた夏沢の両腕を離した。

「それに……お前はやらかしてない。まだな」

「……?」

「ですよー、夏沢さん! だって、公文書を署外に持ち出していないんですから、まだ!」

 時野はにっこりと笑って、そう補足した。

 寺林の思惑に最初に気が付いたのは、時野だ。

(結婚が決まっている寺林さんが、夏沢さんに近づく意味とは? 思い返せば、あの日の寺林さんは、やや強引に僕たちをショールームに誘った……)

「時野くん! 思い出したよ、高階家具のこと。子会社のTAKASHINA FURNITUREの労働者から、追加の相談があったんだ」

 有働三主任からの情報により、TAKASHINA FURNITUREの労働者の大量退職と、退職金にまつわるトラブルがあることを知る。

 そんな中、夏沢が書庫の就業規則の棚で探し物をしているのを目撃。有働三主任が夏沢のストーキングをし……もとい、見守っていたためわかったのだ。

 時野は加平と書庫に行き、高階家具とTAKASHINA FURNITUREの就業規則を確認。その結果、規定通りに計算すると退職金の総額が数千万円になることが判明。

(これはもしかして……就業規則を持ち出させて処分することが目的! つまり、夏沢さんはロマンス詐欺の被害者なんだ……!)

 自分の推理を説明し、有働三主任に夏沢を止めてもらうことにした。

 寺林の魔の手からカッコよく救い出せば、夏沢に好感を抱いてもらえるかもと考えたからなのだが、有働三主任はその役割を加平に任せた。

『上司の俺に見つかったら、夏沢さんの逃げ場がなくなっちゃうでしょ。だから、立場が変わらない加平くんに、止めてほしいんだ――』

(三主任の気持ちは本物みたい。まあ、夏沢さんを想う三主任の存在については、加平さんがうまくほのめかしていたし、これで2人がうまくいってくれたらいいな)

 夏沢をロマンス詐欺から救い出してから数日後――時野が自席にいると、夏沢が話しかけてきた。

「あのさあ、時野……」

「はい?」

 夏沢は体をかがませると、口の横に手のひらを当てて、小声で聞いてきた。

「この間、加平が言ってたじゃない? 私を想ってる人が近くにいるって」

(ええ、いますとも! 労働基準監督官史上最もイケメンと称えられているあの方です)

「あれって……加平のことだよね?」

(えぇ?! なぜにそうなる?)

「お前には俺がいるじゃないかって意味だったんだね……。態度の悪い後輩としか思ってなかったのに、照れの裏返しだったなんて、加平ってかわいい……」

 席を外していた加平が事務室の入り口から入ってくる姿を、夏沢は頬を染めながら見つめている。

(いやいやいやいや! やっぱり夏沢さんは、好意にも鈍感すぎる……)

 有働三主任を励ます男子会が近いうちに招集されることを、時野は確信したのであった……。

ー次話に続くー

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