ひとりぼっちの世界

祖父が亡くなって3年が経とうとしている。
父方の祖父は自分が生まれる前に、そして祖母は9歳の頃に亡くなっている僕にとって、おじいちゃん、おばあちゃんと言ったら大阪の、母方の祖父母のことを指していた。


大学生くらいまでは永遠に仙人のように2人が生き続けていくような感覚が、ありえないけど確かにあった。その感覚が薄れていったのは大学生になった頃だった。人の命がいつか閉じられるのはもちろん理解していたし、それまで経験していないわけではもちろんなかったが、それでもなお、東から太陽が毎朝昇ることを疑わないのに近い感覚で、おじいちゃんとおばあちゃんがずっといると思っていた。


今思えば変化は急峻で、僕が大学卒業する間際におばあちゃんは急にぼけて、僕の名前が思い出せなくなることが増えた。
そんなばあちゃんが施設に入った後、体は元気だけど身の回りのことが何にもできない、洗濯機の使い方もわからないおじいちゃんのために母がえっちらほっちら大阪に帰ることが増えた。


それでもおじいちゃんはまだまだ元気だと思っていたが、90を越えた途端それまでが慣らし運転だったかのように老いというものが一段ギアをあげて、そしてそれにコロナ流行による外出自粛が拍車をかけ、歩くのもままならなくなった後、しばらくして息を引き取った。


従兄弟の結婚式に参列した翌週だった。
その時には補助なしにはちゃんと歩けなくなっていたが、式の最中祝辞を求められた際自分の足でしっかり立って、はっきりした口調で短めの挨拶をした際に、100歳までは生きて欲しいなぁとぼんやり思っていた矢先だった。


終戦を特攻隊員として出撃を待つ身で迎え、勤めた会社が潰れたのを機に自分の会社を興し、仲人に頼むという形で間接的に父と母を引き合わせ、そしてその仲人には金を貸して逃げられ、亡くなるちょっと前に「後はお迎えを待つだけやわ」と言っていた祖父の話を亡くなる前にもっともっと聞きたかったなぁ。と思うことがある。


戦争の最中、他の大勢がそうであったように勝つことを疑わなかった祖父も、流石に最後の方、それが最後になるかは祖父にはわからないので祖父にとっては死、つまり出撃の間際になったあたりで、これほんまに勝てるんやろかと思ったことがあると言う。いつか酔っ払った時に聞いた。


目的地のインターで降り損ねた高速道路のドライブのように、間違っていることにきづいているが、進まなければならないような感覚で日本中が走っていたのかもしれない。


その目的地が間違いだったと断ずることができるのは現在からそのドライブを見ているからだけれども。


もっと聞きたい、話したい、伝えたいと思った時にはその相手はいない。それでも、そういう気持ちになったよ、だから一生懸命、毎日毎分を大切に生きなあかんでと、自分の子に、祖父がかつてそうしてくれたように伝えていきたいと思った熱帯夜。

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