1000字超短篇「彼女についての考察」

 午前八時十五分、小谷愛は自宅マンションを出る、彼女の部屋は四階の東端に位置し、西に三部屋分進むとエレベーターホールがある、降下ボタンを押す彼女の指は艶やかで美しい、彼女はどこか思案げに一階ロビーを通り抜ける、エントランスにて管理人と遭遇し軽く挨拶を交わす、明日は雨だそうですよ、とか何とか。
 彼女は歩いて駅まで向かう、赤いミュールがコツコツとアスファルトを鳴らす、湿気を含んだ温かい風が柔らかいスカートを少しだけ揺らす、駅前の喫煙所で彼女はメンソールの細長いタバコを吸う、白く濁った煙を吐く唇は官能的でさえある、電車に乗り込んだ彼女は空いたシートには座ろうともせず、ドアの側にぼんやりと佇む、朝の光に照らされる街並を値踏みするかのような鋭い視線で眺めている。
 午前八時四十七分、小谷愛は二駅先で電車を降りた、徒歩三分の場所に傲然と直立する大きなビルに彼女が働くオフィスがある、始業は九時、彼女の仕事はお茶汲みとか伝票整理とか出張の手配とかそういった単純なものばかりだったが、同世代の一般的なOLより多めに給料を貰っていた、つい先日も十二万円のハンドバッグを現金で衝動買いしたが、そのために今月の生活水準が極端に下がるということもなかった、ちなみにそのバッグはまだ一度も使っていない。
 昼の十二時に休憩を挟み、午後五時まで働く、終業後は同僚と食事に行くこともあるが、今日は誘われることも誘うこともなく帰途に着いた、マンションの向かいにあるファミリーマートで無脂肪牛乳とファッション雑誌と生理ナプキンを買った。

 部屋に戻ったのは午後六時三十七分、いつものように部屋着に着替え、冷蔵庫に牛乳を収納し、テレビの電源を入れる、そこでふとした変化に気付く、枯れたまま放置していたはずの観葉植物が新しい鉢に植え替えられ、ソファに零したワインの染みは綺麗に拭い取られ、去年友人と沖縄旅行に行った際に撮ったスナップ写真を貼り付けていたコルクボードには別の写真が無造作に留められている、小谷愛には状況がよく飲み込めない、もしかしたら自分の記憶違いかも知れないと思うより早く、留守中に何者かが侵入したのではないかと推測した、誰かに助けを求めようとバッグから携帯電話を取り出す、震える指のせいでボタンがうまく押せずにいる。

 そこで私は小谷愛の肩にそっと手を置き、彼女の怯えた表情を堪能しながら言った。
 やあ、はじめまして。

#一駅ぶんのおどろき

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