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秋の始まり栗拾い

9月、気がつけば、風と陽射しのなかに秋が忍び込んできている。

まだ暑いけれど、心は秋。心は栗。

そろそろだ。そうそう、毎年このくらいの時期。

私は実家の裏にある栗の木を見に行った。

子どもの頃、3本あった栗の木は、いつの間にか1本減り、2本減った。それでも、残った1本で大鍋2,3杯はゆうに採れた。剥くのはなかなかに骨だが、渋皮煮やら栗ご飯やらを作るのが毎年の楽しみで、私の使命になった。

けれど一昨年、ついに3本目めの木の枝が半分くらい切り落とされた。栗の木は、虫がつきやすい。そして、大量に落ちるイガの始末が大変なのだ。落ちて屋根の雨樋を詰まらせたり、拾い集めて焼いて処分しなくてはいけなかったり。管理をしていない私には、物申す権利は無い。さらに悲しいかな、去年はシラガダイにやられて、全く採れなかった。

さて、今年は。

実家の裏は1日のほとんどの時間、日陰だ。片手にボウル、もう片手に火バサミを持って足を踏み入れると、湿った草地のにおいが辺り一面に満ちている。歩みを進めていくと、時々ほんのりとドクダミの匂いが混じってくる。足元は、日陰に強い雑草たちがザワザワしている。耳には、風に木々の葉が擦れる音、虫の声、川の水がザアザアと流れる音。実家の音。

ふと、弟と一緒に栗拾いした年のことを思い出した。ある時、弟の頭にイガが落ちてきて、悲鳴と共に大笑いしたのだ。それから、私たちは、栗拾いには、傘をさして臨むことにしたのだっけ。

思い出しながら木の下まで歩みを進めた。草に混じって、栗のイガと、イガから飛び出した栗がいくつか転がっている。栗の木を見上げると、去年より枝ぶりも実付きも良く見える。今年は1回渋皮煮にするくらいは採れるかもしれない。しかし、まだ青々として口を閉ざしたイガが多い。少なくとも今日の時点ではまだ、傘は要らなそうだ。

目を足元に戻し、栗拾い開始だ。ほんの少しばかり転がっているイガを火バサミで避け、転がり出た栗を挟んで拾う。それから、草むらの中に隠れている栗を見つける。これが好きなのだ。宝物を見つけたような気分になる。

今日の収穫は僅か18個。もう一度、栗の木を見上げた。すると、高いところに、今にも落ちそうな、口の開いたイガが一つだけ見えた。

よし、と意を決して、家の表にまわり、物干し竿を取ってくる。長い竿の先をあちこちにぶつけ、よろよろしながら栗の木の下に戻る。息を吸い込み、くっと止めて、一点集中。やっ!と枝を突く。気持ちとは裏腹に、竿はひょろひょろっとしながら、イガを掠める。もう一度。やっ!

イガからはそれたが、枝に当たり、目的のイガがトスンと落ちてきた。はやる気持ちを抑えて、またよろよろと物干し竿を戻しに行き、急いで戻る。

落ちたイガからはぷっくりとした大きな栗が、顔をのぞかせている。大当たりだ!と頬を緩ませて、火バサミで収穫だ。喜び勇んで栗の実を挟み持ち上げると、栗の袴の少し上のあたりに虫の穴が一つ。

あああああ、先を越されていた。こんな艶々でまるまるとした大きな栗が。美味しそうな栗が。しかもわざわざ物干し竿まで持ち出して落とした栗が。やられた。いや、既にやられていた。

はあっ、と一息、ため息をつくと、落ちていたイガを1箇所に集めた。虫に喰われた栗もそこへ。これだけは、子どもの頃やらなかった作業だ。栗の時期が終わったときに、少しでも片付けやすいように。

さて、今日のところはこれでおしまい、偵察終了。本当なら毎日様子を見に来て拾いたいところだが、そうもいかない。次の週末に子どもを連れて来よう。今度は傘をさして。

さて、この18粒ばかりの栗を何にしましょう。考えながら帰路につき、結局栗ご飯になった。

皮剥きが面倒くさくて、肩は凝るし、嫌になるけれど、喜んでおかわりする子どもの姿を見て、苦労の甲斐があった。と思える。喜ぶ誰かがいなくちゃ、栗仕事なんてとてもできやしないさ。



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