子どものほうがよほど分かっている
あれ、子どもの方が大人より、よほどものが分かっていやしないか。
子どもの言葉がグサッと刺さることなんてしょっちゅうだ。
人の話をちゃんと聞きなさいと言ってる大人が、子どもの話を話半分で聞いていたり、約束を守りなさいと厳しく叱った大人が子どもとの約束を破ったり。
あーもーいやだ!と投げ出したくなったとき、子どもに慰められたり。
子どもに、実際抱きしめられ、子どもの言葉に抱きしめられ、やっと生きているのはむしろ私の方である。子どもにようやく生かされているのが私である。
心底愛が分かっているのは、子どもの方である。本当に隣人を愛しているのは、子どもの方である。
言葉の数が大人より少ないだけで、本質をわかっているのは子どもの方だ。
体が小さく、可愛らしい顔つきをしているから、あなどっていやしないか。
私が見下ろして怒鳴りつけた相手は、本当は見えないくらいに巨大で、力強く、聡明な賢者であって、太刀打ちできる相手ではない。だからこそ、今私を下から見上げているのだ。
子どもの方がよほどものが分かっている。子どもの方がよほど先生だ。
子どもをよく見ればそれが分かる。ときに大人を諭し、ときに大人の鑑となり、ときに大人を大きな愛情で包み込んでくれる。大人の曇った眼鏡を拭いてくれる。大人の行いがどんなに馬鹿げたことかを教えてくれる。
そして、今この時がどんなに素晴らしいか、教えてくれるのも子どもである。
少しでも早く気づけ。そして忘れるな。
子どもは見下ろす相手ではない。目線を合わせて、手を繋いで、共に歩む相手である。子どもはそれをとっくに知っている。
…子どもといると、時折こんな風に思うことがある。ドキリとさせられることがある。これは誰かへの諭しでもなんでもなくて、私個人の人生における単なる実感である。
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