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ケーキな女たち〜 Piece.5 ベイクドなチーズ、そして霜降り肉とウニと

Piece.5 ベイクドなチーズ、そして霜降り肉とウニと / 山口美咲 36才

健康情報に敏感な山口美咲は、コンビニでお菓子を買うときは必ず成分表示を見て選ぶことにしているのだが、チーズケーキだけはなぜか許している。チーズがたんぱく質であることが罪悪感を払拭しているのだろう。

美咲が今日食べにきたのも、チーズケーキだ。最近のヘルシーブームでひとつひとつカロリーや糖質を書いてくれているケーキ屋さんもあるが、美咲がご褒美に出かけるケーキ屋さんには一切、成分表示がない。おそらくどのケーキも一発KOな破壊力を持っているのだろう。美咲は中でもベイクドチーズケーキがお気に入りだ。フォークを入れるとずっしり濃厚なチーズがとろけ出し、ザクザクと分厚いタルト生地からは罪深いバターの香りが漂う。この時ばかりは、自分に優しくなれる。


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美咲は誰にも話しかけられないようにパソコンの画面にかじりつき、急ぎのメールに猛スピードで返信してから足早に会社を出て、流しのタクシーをつかまえた。運転手に行き先を告げた瞬間、仕事の電話の続きが始まる。ここまで大変な思いをして残業を切り上げ、向かう先は西麻布。今夜の決戦の地だ。

35歳を過ぎたら「高齢出産」になるらしいということは、保健の授業で習った記憶はないが当然のように知っていた。妊娠のしやすさは20代前半がピークで、30代から徐々に下がっていくこと。そして35歳からがくんと自然妊娠の確率が落ちていくこと。30歳になったときに「将来のために」と友人と婦人科に行き、AMHという検査を受けた。日本語にすると「卵巣予備機能検査」で、自分の卵巣の中に卵子がどれくらい残っているかを調べる検査だ。美咲もそのときに初めて知ったのだが、女性は胎児のときに既に卵子のもとが大量に作られていて、この世に生まれた瞬間からどんどん減っていくらしい。

結果、美咲の「卵子のもと」の数は平均よりかなり少なく、40歳女性の平均と同程度だった。年齢とともに数が減っていくものだが、美咲の数が少ないのはどうやら体質らしい。

「数が多ければいいというものではないの。たったひとつでも、いい卵子があれば妊娠は可能です」


婦人科医はそう言ったが、自分の女性機能が実年齢より10歳も上かと思うとなんだか落ち込んだ。やれやれ。30代になって体年齢やら血管年齢やらいろいろと測り始めては思ったより結果が良くなくて凹む日々だが、わざわざ自費で採血までして現実を知りにきたのだから、受け止めるしかない。次にすべきは、相手を探すことだ。

というわけで美咲はここのところ、夜な夜な合コンという名の決戦に出かけている。35歳で結婚した会社の女の先輩は、スマホに入っている連絡先を全部見直して、片っ端から独身男性に連絡して数珠つなぎに紹介してもらい、今の夫を見つけたという。5歳年上の市職員だというその夫は少し頭髪が薄くなり始めていて、姑から渋い柄の手作り布マスクやらどこにも飾りようがない編みぐるみなどが送られてくるが、概ね幸せということだ。


合コン会場である西麻布の和食屋は壁が漆塗りのようにつるんとしていて真っ赤で、格子状の扉で仕切られた個室席だった。幹事の男は「相手がお綺麗なみなさんだから、上品な店がいいと思って」と言っていたが、美咲はまったく逆で下品な店だなと思った。ここに来る人の目的は、ご飯ではなくてその先のセックスだろう、と勝手に妄想した。「下品だわ〜」と脳内でくり返していたら、BGMとして笛と和太鼓のような音が流れてきた。ますます煽ってくる。そこでお店の名物であるメニューが、満を持して登場した。生の霜降り肉にウニがふんだんに乗せられた寿司のおでましである。


「煩悩きた〜」

30歳だという合コン相手の一人が歓声を上げる。外資系のコンサル勤務らしい。

「間違いないですね」

美咲が連れてきた28歳の後輩女子もその歓声に100点のリアクションで乗っかった。美咲はこの後輩を連れてきて良かったと思った。この年齢になると、合コン相手が年下になることも増えてくる。だから美咲も必ず若い子も連れていくようにしていた。こちらが年上ばかりとなり相手をがっかりさせてしまうと、申し訳なくて帰りたくなるからだ。自分が最年長だと「年上好きも多いですよ」と男女ともにフォローしてくれることも多いが、フォローされるということは自分が弱者にされているということに、みんな気づいていない気がする。

アラサーくらいの男子にお店選びを頼むと、覚えたばかりの“張った店”が提案されることが多い。西麻布とか六本木の裏道の隠れ家とか神泉あたりとか、Google Mapで探しても入口がわからなくて迷うパターンだ。


「すごいお店ですね、どこで知るんですか?」

そんな女子の決まり文句を、もう100回は聞いている。生の霜降り肉にウニをのせたり、スプーンを皿に見立ててひと口で味わう何かだったり、直径30センチはあろうかという大皿に、ほんの3切れ並べられて抽象画みたいにソースがかけられたカルパッチョだったり。お店側は男子にドヤと言わせ、女子にきゃーと言われるための趣向を凝らしている。たまごかけご飯にトリュフ塩をかけ、至極のTKGと銘打って出てきたときにはあごが外れるかと思った。至極のTGK、1500円て。私が毎朝食べてるやつやん。

 実のところ美咲は西麻布という場所が苦手だった。この地に似合う二字熟語は合コン相手の男が発した「煩悩」という言葉だろう。客単価が1万5千円以上はする飲み屋がごろごろある。男がおごり、もしくは経費で落とされ日々札束が落ちていく。男たちの喉からすごいスピードでハイボールが吸い込まれていく様子はまるで、夜の高速道路を走る車を見ている気分だ。刹那。この二字熟語も似合うなと思った。

 自分より6歳若い男が「煩悩」を口に運ぶ。一貫1000円である。男が煩悩を咀嚼するのを眺めながら、美咲は幼いころに家族でファミリーレストランに出かけ、ジャンボハンバーグ定食を頼んだときのことを思い出していた。まだ幼稚園生だった美咲はいつもお子様定食を頼んでいたが、そのときは大人が食べるものを食べたいと思ったのだ。メニューを見たら1000円と書いてあった。とんでもない高額なものな気がして勇気がいったが、思いきってこれ食べたい!と言ったら両親は「美咲すごいね、そんなに食べられるの?」と笑って頼んでくれた。そして無我夢中で完食したら褒めてくれた。すごいね、美咲は大人と同じくらい食べられるんだね、大きくなるねえ。そのとき父は850円の和風ハンバーグを食べていた。いつも家族を優先して、残りものを食べるタイプの父である。


男の口に入った一貫1000円の煩悩は、ほんの3秒足らずで男の胃の中へと消えた。

「うま」

なんの感情も入っていない男の感想が宙に浮いた。高級牛として生まれ、手塩にかけて育てられた牛の命は、この男に吸い込まれた。


美咲の父親がこの男の年齢のとき、美咲は生まれた。中小企業のサラリーマンとして真面目に定年まで勤めあげた。お酒の飲めない美咲の父は遅く帰ってくることも少なく、お昼は毎日母の手作り弁当を持っていった。裕福とはいえなかったが、父の勤勉さと母の家計のやりくりで美咲は私立の大学にも行かせてもらった。社会人になったら両親を高級レストランに連れて行きたいと思っていたが、初任給で連れて行った銀座の鉄板焼き屋で両親は落ち着かない様子だった。何事もなく家で家族と過ごすひとときが、何にも変えがたい時間なのだと気づいたのはずっとあとになってからだ。

今夜も色も感情もないお金が西麻布に吸い込まれていく。自分の好みのタイプは女優の誰だとか、背の高い人が好きだとか、欲望が交差する会話がかわされている間に、ひとりの女子が手をつけずにいる残り一貫の「煩悩」がカピカピに乾いていく。まさかこの高級牛も、誰の栄養にもならず西麻布のテカテカしたテーブルの上で尽きることになるとは思わなかっただろう。父と母が、この煩悩を口にすることは一生ないんだろうなと美咲は思った。食べさせてあげたいとも思わない。


美咲は「御大は夜は眠いんで」と一次会で早々に切り上げ、電車で帰宅した。窓上の広告には鼻水をたらすアフリカの少年が写っていた。食糧支援を求める広告だ。世界は不均衡だらけだ。週末はひさびさに実家に帰ろうと思った。そろそろ結婚報告するよ、と言い続けて5年以上たつが、両親からはもはや何も言われなくなった。


・・・・・

 健康情報にうるさい美咲は、親の健康にもうるさく「あれは食べていい」「これは食べちゃいけない」と勝手に口出ししている。美咲は両親への手土産に、レアチーズケーキを2切れテイクアウトした。ベイクドチーズケーキはタルトの部分がハイカロリーだから、レアチーズケーキの方がまだヘルシーだと思ったのだ。美咲の基準はいつも自己都合。だからひとりが心地いいのかもしれない。今月も卵子の数は減っていく一方だが、美咲の心は晴れ晴れとしていた。




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