東京学芸大教職大学院総合P参加レポ「理科・科学者・探究」
先日は、こちらに参加。
※以前振り返りとして書いていたものの途中だったので公開がゆったりしたものに。日々の振り返りを記録する時間を丁寧に取りたいなあ。
先日、軽井沢風越学園で、井上太智さんの「科学者の時間」を見たところだったので、迷わず参加した。
2人の方の実践と、1人の方のテーマ発表、その後にトークセッションという流れだった。
3人に共通するところは、科学が失敗ありきで、その失敗を試行錯誤しながら乗り越えていく過程にこそ価値を感じているところだったように思う。
1人の方は、小学校時代に仮説実験授業をがっつり体験されていて、その流れから別の方が
みたいなことをおっしゃっていて、非常によくわかるし、一斉授業を構成していたとしても、授業をつくるときに”あの子”を思い浮かべてやる方がうまくいくことが多いし、実際に、”あの子”にハマるときは、他の子にもハマるみたいなことはあるなあと感じる。
また、仮説実験授業では、仮説について議論することに価値を置いている。実際に、話し合ったり、他者の考えに触れたりすることで他者から学ぶことは多い。となると、一斉授業じゃなくても子ども同士がつながる機会は大切だ。むしろ一斉授業よりもそれぞれが活動的な授業の方が、子ども同士のつながる場を丁寧に設計する必要がありそう。そういう意味で、ファンレターを送り合ったり、問いを共有する掲示物を作成したり、やっていることを共有したりすることはとても大事なんだと思った。
これまでの理科の授業における出来合いの問いをみんな同じ方法で解決していく授業から脱却したいという思いがあって、「科学者の時間」を実践している2人からも共通した問題意識はあるのかなと感じた。一方で、科学をどう捉えていくのかということは吟味する必要がありそう。
仮説実験授業の板倉聖宣さんによる定義は
1つ目の認識論は、まさに一人ひとりがその対象に対して目的があって(自分事で)観察・実験できているかと言う点ではよくわかる。
一方で、観察・実験そのものを楽しむというか、行為すること自体が目的になることはないだろか。「なんとなく面白いから見てみたい」とか、「なんかこうしてみたい」みたいなことも目的意識的に問いかける実験として良いのか。僕としてはそういうことも含めたい思いがあるが、そこは板倉さんに聞いてみたい。
2つ目は、科学的認識を社会的認識として捉えるというのは、めっちゃ面白いところ。それは、子どもたちと教室の中で仮説実験的に導き出した結論そのものを超えた認識を目指しているという。
面白いなと思いつつも、まだ肌感覚として納得できていない部分もある。こういう抽象的な言葉を具体の子どもたちの姿として語ってみたい気もする。それが、板倉さんの見ようとしたものを見ることにつながるのだろう。
振り返りが遅くなってしまったが、もう本当に面白い内容だった。
このようなプログラムを設計している東京学芸大学教職大学院は非常に素敵な場を作られているのだなあと思う。それを学外の人にも公開してくださることがとてもありがたい。