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やっぱり遠野物語は面白い㉖

遠野文化研究センター研究員 木瀬公二

 「では最初の部分から始めていきましょう」と三浦佑之が言い、編集会議はいよいよ「毛筆草稿」の翻刻について協議に入った。

 柳田国男は「第1話」を書き出す前の原稿用紙の余白に、遠野郷を形成する「十ケ村」の名前を書いている。そこが最初の翻刻のテーマになった。

 三浦は、三番目に出てくる村名の「松崎の崎は『﨑』にします。これは柳田の書き癖ですので生かします。最後の達曽部の『曽』は、『曾』が正字なのですが、柳田は全部、上をちょんちょんでやっているので、柳田の字に近い『曽』にします」。こんな調子で検討は進んだ。

㉖遠野郷を形成する「十カ村」

第1話が始まる前の欄外に10ヶ村の名前をメモのように書いていた

 「曽」という「新字」ができたのは第二次世界大戦の後なので、明治人の柳田がここに書いた字は、執筆時点では存在しない字なのだ。だが、楷書のように一角一角を丁寧に書いておらず、スラスラと書いているので、当時の正字である「曾」よりも「曽」に近い字になっている。こういう、どちらとも分からない漢字が多いため、三浦は「柳田の文字遣いを尊重する」と言ったのだった。

 こんな調子で翻刻作業が進みだしたとき、赤坂憲雄がふいに「宮沢賢治の時はどうだったのかね」と言い出した。「雨ニモマケズ」の論争のことだ。

 「雨ニモマケズ」は、賢治が亡くなった翌年に見つかった遺品のノートに書かれていたものである。それを巡る有名な論争は、「北にけんかや訴訟があれば つまらぬからやめろと言い」の次に出てくる「ヒドリノトキハナミダヲナガシ~」の解釈だ。

 ノートは、全文がカタカナと漢字で書かれているが、ここを「ヒデリ」と直している本も多い。平仮名で「ひでり」と書かれているものや、漢字で「日照り」としているものもある。賢治のノートにははっきりと「ヒドリ」と書かれているのにこうなったのは、翻刻をした人の解釈だ。「ヒドリでは意味が通じない。日照りで水不足になりコメが取れなくて涙を流しているのだろう」と理解して、こういう字を充てたと思われる。

㉖「ヒデリ」(『新版 宮沢賢治 童話全集 12』(岩崎書店,1979)より)

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の本には、解釈によって「ヒドリ」と「ヒデリ」が出てくる(『新版 宮沢賢治 童話全集 12』(岩崎書店,1979)より)

 しかしこれに異論を唱える人は多い。遠野文化研究センターの前顧問で、賢治と同郷の宗教学者山折哲雄もその一人。「これは『ヒドリ』のままですよ。花巻では『日照りに不作なし』と言われていて、コメは取れる。そんな時に涙を流して嘆く農民なんていないです」という趣旨の話をしてくれたことを木瀬公二は覚えている。東日本大震災の翌年の遠野市での講演の合間に、控室でした雑談の中で「日取り」は「日雇い労働」のことだ、などと説明してくれたのだ。

 「日取り」か「日照り」か。真実は分かりようもないが、ノートに走り書きのように書かれた字は、はっきりと「ヒドリ」だ。それでも論争はいまだに続いている。それに比べ「毛筆草稿」は、文字すらよく読めない部分の連続と言っていい。赤坂は、賢治の時代を思い浮かべならが「きっと、翻刻をする人たちの間で、いろいろな議論があったのでしょうね」と言い、目の前の翻刻点検作業の難しさをかみしめていた。

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