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やっぱり遠野物語は面白い㉛

遠野文化研究センター研究員 木瀬公二

 「毛筆本」は、柳田国男が佐々木喜善から聞きとったメモを整理したものである。すなわち喜善が「白岩市兵衛」と語り、柳田はその通りにメモをした。喜善は、話しだけではなく、「こういう漢字だ」と説明したと思われる。しかし、出版に際に「プライバシーにかかわる問題だから」と気を遣って伏字にした、と推測できる。柳田のその配慮を、「原本遠野物語」出版にあたって、どう配慮すればいいのか、が論議のテーマである。
 木瀬公二は「これは実名で行くのでしょうか?」と聞いた。三浦佑之の返事は「変えられないでしょう。問題はあるんですが、そのまま出すことが大事なんです」と言い、「小田さん、実名を出して大丈夫と言っていましたよね?」と聞いた。小田富英は以前、白岩家の縁者が、この件をどう捉えているかを聞いたことがあったのだ。
 縁者は、国学院大学民俗文化研究会のメンバーだった市兵衛の子孫である。その人は、連載3、4回目に登場した遠野市立図書館博物館に勤めていた似内邦雄の甥だ。似内が「遠野市民を集めて遠野物語を勉強したいのだが、いい考えはないか」と相談した相手である。甥はそれを、国学院の研究会の先輩で、後藤総一郎が主宰する「柳田国男研究会」にも入っていたAさんに相談した。そこから、柳田研究会のメンバーである小田との縁ができていった。

㉛白岩○○1

初版本では〇〇〇〇〇と実名が伏せられいる(1~2行目)

当時は、「毛筆本」の存在を知る人はほとんどおらず、ましてやカッパの子を産んだ家の主が実名で書かれていたことなど知る人はいなかった。小田は、似内が動き出すより前の1977年に、後藤の命を受けて毛筆本所有者の家まで出向き、毛筆本の写真を撮った。そのときに実名が書かれているのを知った。それまで読んだどの本も「〇」が五つ並んでいるだけだったのが、〇の数と同じ5文字の「白岩市兵衛」と記されていたのだ。
 小田は興奮した。「世紀の大発見と思って、その時は舞い上がってしまった」と振り返る。翌年、「新資料発掘『遠野物語』初稿本発見」という論文を「寺小屋雑誌」に発表した。その中で初めて「白岩市兵衛」の名前を世に出した。小田は、「白岩家の存在すら知らなかったから、配慮も何も頭に浮かばず書けたようだ」と自己分析していた。

㉛小田実名論文1

小田が当時発表した論文

しかし実名を出してからは、それでよかったのか気になっていた。そのことを旧知のAさんが「彼(甥)は、先祖の名前を出されても全然気にしていないみたいですよ。何のこだわりもないと言っていました」と教えてくれた。「だからホッとしたんです」と当時のいきさつを語り、三浦の質問に答えた。
 毛筆本の存在は、その後徐々に知られるようになったが、実名を記した文献はほぼ出ていない。「プライバシー」が壁になっているのは明らかだ。しかし、これから出版しようとしている本の中核部分に当たる「毛筆草稿」には、はっきりと実名が書かれている。どう取り扱うべきかという大きな問題だ。


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