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半年経たずにスマホを買い替える。新しさへの無関心について /日記

スマホを買い替えた。昨年末、コスパがいいと思って買ったスマホが、全く使い物にならなかったのだ。
バックグラウンドのアプリを気まぐれにタスクキルするし、カメラの起動には時間がかかる。僕が唯一プレイしていたスマホゲーのFGOは、遅延が酷くて全くプレイできない。bluetoothイヤホンをつなげば接続速度を優先してモノラルに切り替わる。最近は2日に1回は再起動をするハメになっていた。
なんなんだ!僕は普通にTwitterができればいいだけなのに!
打ち込んでる途中のツイートをバックグラウンドで消すな!

日々、ささやかなイライラを飲み込んで生活していたところ、googleがpixelのセールをはじめてしまった。12000円オフの表記を見た瞬間、これまで押し殺していた不満が出るわ出るわ。
こうなってしまうとおしまいである。僕の脳はスマホを買い替えることで頭がいっぱいになってしまう。
pixel 5aという機種をポチってから評判をググってみたところ、廉価モデルで耐久性があやしいとのことだった。携行品保険は加入しているものの、いきなり破壊するのは避けたい。
それならばとタフなケースを買ってみたら、本体と総重量が250gまで膨れ上がってしまった。
一日に必要な野菜の量まであと100gくらいだ。そうか、一日に食べなければならない野菜ってこんなに重いのか。いくらなんでも野菜をこんなに食べれねえよ。

こうしてスマホを半年で2度買い替えて気がついたことがある。
スマホの買い替えにワクワクしなくなってしまったのだ。
革新的な新機能の載った機種を買うわけでもないし、便利なタスク管理アプリをググることもしない。良い感じのフィルターが入ったカメラアプリを比較することも無くなった。回線代は20GBで3000円だからずいぶん安くなったけれど、相変わらずデータの保管場所で悩んでばかりいる。便器を買い替えるほうがまだワクワクするかもしれない。
新しいものを愛でるよりも、使い慣れた技術や知識を、ストレス無く活用する方法ばかりを考えている。
悪く言えば好奇心が薄れているのであり、良く言えば肉体が身につけた経験の集積を重視するようになったのだ。
肉体に身に付けた技術は良い。リチウムイオンバッテリーがついていないから、普通ゴミで捨てられる。

それでも、こうした好奇心の希薄化にすこしききかんを持っている。
水面化で進む技術革新にまったく気がつかず、ある日目が覚めたら世界がそっくりそのまま入れ替わるような技術が生まれていたときが恐ろしい。
いや、技術革新そのものが恐ろしいのではない。「新技術に価値を見出せない自分」に出会うのが恐ろしいのである。
例えば、すでに公園で妙なダンスを踊っている高校生を見て、「お、tiktokだ」などと言ってしまっている。冴えないおじさんが「我が社もtiktokを活用して若者向けにリーチするコンテンツを云々」などと言っているのを聞いて、オワコンみを感じたりもしている。tiktokをダウンロードしたこともないくせに。
一方で、駅前のパッとしない飲食店がtiktokのインフルエンサーに広告を依頼して、行列を作っているのを見かけたりもする。
バズるコンテンツの広告効果は一過性のものだと一蹴するのは容易い。でも、仮に一過性であったとしても、効果が出るようなメディアの存在についていけてないのが現状である。

VR機器の普及機が格安になって一気に浸透したりだとか、脳波で文字入力できるデバイスが登場したときに、僕はちゃんとそれらに面白さを感じられるだろうか。
「VRの解像度は荒いし、メガネの度数調整はめんどくさいし、ソフトバンク専売で12ヶ月割賦の機種料金を払うのは割に合わないし、脳波も音声入力もまだ過渡期。それに、物理的な入出力機器と脳との間に、ある程度距離を置いたほうが、僕の身体感覚とマッチしている」
とかなんとか言っている気がする。
先ほど、一晩で世界が変わった場合の仮定を持ち出したが、ドラスティックな変化なんてものは実際の世界においてはそうそう起こらない。
こうした変化のほとんどは、何かしらの大きなイベントによってもたらされるのではなく、ある個人(この場合は僕)が「変化した」と主観的に認める行為にすぎない。
技術、およびそれらに対する社会的受容の度合いは、連続的にうつろいゆくものである。たぶん。
ミュージシャンがメジャーデビューするときに、ローカルな空間で静かに支持されているものたちが萌芽し、何かのタイミングで露出が増えたときの受け止められ方を想像すればいいのかもしれない。
ドラマのタイアップでそのミュージシャンを知り、彼らを支えてきたファン層を想像するときの感覚。
その感覚に対して、好奇心を持って挑むか、なにかもっともらしい理由をつけて拒むか。音楽のようなパーソナルなものならまだいい。もしも、なにか致命的な価値観の変化や技術の変化についていけなくなったとしたら。僕が老害になったころ、車の免許返納みたいに、老人のインターネットが問題視されるようになったとしたら。

まあ、考えてもしょうがないのだけれど、考えてもしょうがないことを書いてもしょうがない書き方で綴るのが、日記である。


せめて、スマホの新しい機能を使おうと思って、andorid 12のジェスチャー操作を使っている。文鳥を握っているときは、音声入力でツイートしたり、LINEに返信したりしている。
なかなか便利やんけ。

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