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ちゃんと料理をする

もともと料理は好きなほうだったのだけど、去年はずいぶん熱心と料理をした。
ここでいう料理とは、
「鰹節と昆布で簡単に出汁をとり、油揚げと長ネギの味噌汁を作った。出汁をとっている間に、冷蔵庫に残っていたいんげん豆を電子レンジで温めて、胡麻和えにした。さっきスーパーで買ってきた鮭の切り身を、きのことにんにく、オリーブオイルとともにホイル焼きにした……」みたいな、あり合わせを使って上手にやりくりする料理ではなく、レシピとにらめっこしつつ買い物や調理をする料理のことです。
鮭でムニエルにしたり、香味野菜でスープを作って、牛肉を赤ワインで半日煮込んだり。ホールスパイスをテンパリングしてカレーを作ったりもした。

もっとも実践的に家事をやっている人たちから、白い目で見られるタイプの趣味と言えるかもしれない。
「ふん、白バルサミコビネガーやケッパーなんて、どうせ使いきれないくせに」なんて言われたりして。

そういう棋譜を並べるような調理をして、なにか得るものがあったのか?
実際のところ、これがかなり勉強になった。当初自分で想定していたよりもかなり「身になる経験」だった。どのくらい身になったかと言えば、3kg以上も太った。当然、学びのひとつやふたつくらい得られる。

まず、料理の手順に対する向き合い方が大きく変わった。
なぜ食材に塩を降らなければいけないのか。肉の下処理で食感がどのように変わるのか。強火・弱火をどのように使い分けるのか。これまでざっくりと作っていた料理においても、ひとつひとつの手間が持つ意味が明瞭になってきたのである。ABテストをしたわけでもないけど、「あの手間がここに効いているな」という感覚が不思議と感じられるのである。

ひとつひとつの手順の意味がわかってくると、自分が材料に対してどのように作用しているかが分かってくる。「いま俺は、食材の水分量を調整しているのだ」「肉の表面は香ばしく、中はじっくりと火を入れたい」といった、方針が定まってくる。ギターで言えば、「指板を左手で押さえて、ピックで弦を弾く」と考えるよりも、「左手で音程を定めて、右手で音色を定めている」と定義したほうが、演奏に対するアプローチが大きく変わってくる。意識改革の効果が、練習量のそれに勝らないとしても。

そして、手順が分かってくると、どこで手を抜いていいかも理解できてくる。
会う人すべてに好かれなくてもいいのと同じで、日々のルーチンで作る野菜炒めで、すべての食材に均一に火を入れようとしなくてもいい。既存の「麻婆豆腐の素」を使うときでも、自分がどの作業をオミットしているかが分かる。
全体像を分からないまま、漠然と「目の前のこの作業をやっておきなさい」と言われるような気持ち悪さが、生活の中から少しずつ減る。
誰にだって、「やっておきなさい」と言われるほうが楽な状況は誰にだってある。
ただ、個人的に思うのは、そうやって限定的な作業手順を提示されるイージーさを、常に選び続ける危うさがある。ぼうっとしていてもいいけれど、どこまで自覚して、都合よく忘れられるか。難しいですね。みんなどうわりきっているのだろう?

日常生活の中のさまざまな手間は、僕たちの祖先がせっせと受け継いできた様々な知識によって成り立っている。レシピ本と睨めっこして、エシャロットとバターでじっくりとソースを作る休日は、そうした継承と理解の中で自分が生きていることを、極めて個人的に感じることができる。何もここまで大げさに考えずとも、おすすめです。運がよかったら、美味しい料理を自宅で食べることもできるし。

ところで、せっせと身につけたこの贅肉を、パッと落とす方法は無いだろうか?「これさえやっておけば大丈夫」と誰かに言ってもらえればありがたいのだけど……

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