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すべては他人事だとして / 日記(6月21日)

疲れる

疲れた。ろくでもない労働における不可抗力の原始的作業に巻き込まれ、くたくたになっていたところに最後の一撃を受けた。時間の無駄。話す無駄。互いが用いているオペレーションシステムのバージョンが違い、価値観が全く異なっているため、言葉が全く意味を成さないタイプのトラブルに巻き込まれた。

20代のある時期に僕はひどく落ち込み、外に出るのもおっくうな状態になったことがある。ドアの前で崩れ落ちた最初の一日、僕はスマホのメモアプリに自身の反省で通過してきた出来事やうれしかったことを書き連ね、いかに自分が社会に対して不適合であろうかを力説しようとした。だれにも見せない文章になったから、今思えば誰に説明したのかもわからない。ずいぶん前にデータごと無くしてしまった。とZもかくそうやってすべてを書き連ね、書くことが無くなると今度は家の中にある本を手当たり次第に読み返し、それもなくなると電子書籍でセール本を買いあさった。『嫌われる勇気』はその中の一冊であった。話題になっているのはうっすらと知っていたが、当時は本屋に行ける体力がなかったから、話題を肌で感じることはなかった。

若者と老人の軽妙な会話とそこで語られる話が、僕にとって衝撃的であったかというとノーである。
何度も何度も自分の中で
「そのはずだ、こうあるはずで、こうあるべきだ、なぜか社会の人々はこういうとらえ方をしないのだ」と繰り返したような言葉が、文章の中で痛快に用いられていく。


だから少しうれしかったのだ。他人と自分をわけて考えてもよい。他人の課題に触れなくてよく、過去は自身が意味付けている。反応を選択できる。人生をそこまで自由に解釈してよいものかと、感銘を受けた。
小さく前に倣えで、少しずつ他人と距離をとってもいいのだ。
あとは折りに触れて読み返そう、と僕はそう思っていた。

それからだいたい5年ほどが経ち、『嫌われる勇気』的な思考は僕の中で完全に身に付いてしまったように思う。すがりつき泣き出す人の課題は私のものではない。私が不快に感じるなにがしかは、私と不快な感情を分離した上で、私が不快に感じうる点において抗議ができる。問題を身に付けたとき、僕はまず牛切り包丁をとり出してくるようになった。刃先を研ぎ、問題や不幸を待ち望むようになった。そうして生きているうちに、僕に近寄る人間は目に見えて減っていった。人が減ると苦痛が減るので、自分の考えが正しいのだと心が楽になる。そうするとますます持論に傾倒してしまう。

そうしてできあがった、「自分ごと」の範囲をいびつに手を伸ばし、「他人事」に関してはシーツに広がるシミのように無関心に距離を置ける人間になってしまった。
そして、それらがどのような距離関係でどのようにかかわっているのか。登場人物たちは「要するに」何がやりたいのか。そういったものを俯瞰しているように振る舞う自我が、なおいっそう他人を遠ざけた。

あれも他人事。これも他人の問題。
僕の問題は僕の問題として山積している。だがこれはすべて僕自身の問題であるから、僕が目をそらしている限り、問題にはなりえない。進捗を誰かに伝える必要もない。

鳥瞰し続けた鳥は、いずれ上昇気流が止まってしまうことを恐れている。眼下でいがみ合う人々は、いずれも自分の別の姿であり、こうして弧を描き円をなぞりながら飛び続けている限り、本質的な問題から遠ざかれるはずだった。彼は鳥としては失敗作なのだ。高いところから飛び立ち、気流に乗ることはできる。だが、自在に早く飛ぶことは適わないのではないか、と。ただただゆっくりと落ちていくだけ。一度落ちてしまえば、次は果たしてもう一度飛び上がれるのかどうか、ちょうどいい餌にありつけるのかどうか。それだけが彼の関心事なのだ。

今月はきっと長くなると思う。寝る間を惜しんで駄文を書いている。一日14時間は寝たい。

Twitter:@tonkotu0621

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