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実写のリアルさと苦手意識

海産物から和式便所まで、僕には様々な苦手なものがあるのだけど、その中のひとつに実写映画(というか邦画)がある。

本邦の実写作品には、安易に漫画を原作にするだとか、特定の芸能事務所からキャスティングされがちだとか、様々な問題がしばしば議論されているみたいだ。
でも、僕の苦手意識は、そういった日本の映画製作事情とはあまり関係なく、僕自身の鑑賞経験の乏しさから生じた苦手意識である。
実写映画を見ていると、「どこまでが作り込みで、どこまでが無視するべきものなのか」が分からなくなってしまうのだ。水を怖がる子どもみたいで、なんともお恥ずかしい話ですが。

一般論として、フィクションを楽しむには、フィクション鑑賞するための土壌が必要になる。ある芸術作品の表現における「お約束ごと」みたいなものを、体得しておかねばならない。
学校の国語教育は国語作品の約束事を学ぶ場であるし、幼児向けのアニメや絵本もそういった役割を果たしているはずである。
そういった観点から自分の苦手意識を問うたとき、どうも僕は、実写作品の鑑賞方法をあまり上手に学んでこなかったらしい。

典型的なところで言えば、「実写におけるリアリティをどの程度追求するか」について。

ここにある実写ドラマ作品があるとする。互いに問題を抱えた男女が職場で出会い、様々な困難を共に乗り越えて、12週間分の尺を稼いでハッピーエンドが形成される(余談だけど、僕はハッピーエンドとかバッドエンドとかの概念も苦手だ。長くなるのでここでは言及しない)。

この職場はちょっと特殊な業種であり、作品中では業界用語や仕事のこだわりが細かく描写される。素人目に見ても、綿密な取材に裏打ちされて制作されているのがすぐにわかる。役者は役作りのために何度も現場を見学したはずだし、エンドクレジットには専門家の名前がある。視聴した本職の人たちの間でも評価が高いようだ。

ところが、僕はこういったドラマ作品の日常的な描写が気になってしまう。たとえば、お風呂上がりのヒロインが部屋でくつろぐシーンで、女優がばっちりとメイクをしているのを見て、「おや」と思ってしまう。お仕事のシーンではあれだけリアリティにこだわるのに、なぜ「こういう描写は問題無い」とされているのだろう。

……などとうんうんと考え込んでしまうと、もう内容が頭に入ってこない。

何も、細部まで徹底的にこだわって、矛盾がないようにしてほしいわけではない。制作の過程に置いて、描写のこだわりにグラデーションがあることは容易に想像がつく。
問題は、実写作品の鑑賞経験が乏しいばかりに、「ここの描写は、まあこんなものだろう」といったお約束が僕のなかに存在しない点である。
アニメーションの鑑賞経験に乏しい人が、アクションシーンの中間のコマの作画に文句をつけるのと近いかもしれない。

もちろん、映像というのは本質的に虚構である。

それは何らかのコンテクストの中でその映像が作成・生成されている点でもそうだし、我々の視覚そのものがこの立体的な世界を平面的な網膜で視認している点においてもそう言えるかもしれない。

リアリティとは「リアルさ」ではなく、リアルさに対する姿勢や一貫性を扱うための概念だ。

それでも実写映画は、生身の肉体の情報量を持った人間が役者として写っている点において、「リアルさ」がミスリード的ににじみ出てしまう。きっと映像を作る人たちは、リアルとリアルの干渉する部分を様々なお作法で押さえ込んで、リアリティを演出しているのだと思う。
だから、何度も繰り返しているように、そういう実写表現のリアルさのグラデーションを楽しむのが苦手な僕が、全面的に問題がある。教養が無いのです、恥ずかしながら。

そんな感じで実写映画が苦手な僕なのだけれど、最近はNetflixで頑張って実写を見るようにしている。おかげで、ずいぶん耐性がつきました。
「たしかに彼らはよく見かけるような人間の形をしているけれど、とにもかくにもこれはフィクションなんだ」
と、頭によぎる雑念を振り払えるようになった。

問題は、フィクションとしての面白さとは別に、「リアリティがぼやけているポイント」を見つけて楽しむようになってしまったことである。うーん、どうしたものやら。

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