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文鳥にタイピングを妨害していただくために書いた日記

少し前から、トイレットペーパーを「3倍長持ちタイプ」なるものに替えたのだが、実際に3倍長持ちしているので日々関心している。
以前ならばトイレに積んでいるペーパーが減っていくのを目にしながら
「あと2つか、そろそろ買わなきゃな。ヨドバシで買うか、でもヨドバシで買うとデカい段ボールに入れてくるんだよな・・・」
などとグズグズしているうちに使い切ってしまい、大慌てでドラッグストアに駆け込む日々を送っていた。
僕はだいたいの日用品において買い置きができず、ささやかな「大慌て」が日々の端々で生じている。毎日が冬眠前のリスのようであり、いっそしばらく冬眠していたほうが世間的にも僕個人的にもせわしなさが減っていいのではないかと思わなくもない。
その点、「3倍長持ちタイプ」のトイレットペーパーの場合、「トイレットペーパーがあとひとつしかない」という焦燥感と、「このひとつが、みっつ分なのだ」という安心感が良い感じに噛み合うのである。
トイレットペーパーが残りひとつになったのを確認したら、トイレの中でヨドバシカメラにトイレットペーパーのオーダーをかけてしまう。
翌日にはヨドバシの配達員さんが巨大な段ボールに入ったトイレットペーパーを持ってきてくれる。もちろん、買ったトイレットペーパーは3倍長持ちする。めでたしめでたし。

日用品におけるこの手の進化と言えば、レトルトカレーがいつの間にかレンジでそのまま調理できるようになっていた。蒸気が噴きだすアレである。
ちょっと高いレトルトでたまたま採用されているのかと思ったら、1パック80円くらいの安価なものでも噴き出し口がついていた。驚いた。われわれ人類の歴史はろくでもないけれど、それでも前に進んでいるのだ。
技術の進歩に感動しながら日々レトルトカレーを食べているがわけだが、それでも3回に1回くらいは噴き出し口から盛大にカレーが噴き出すしてしまう。あれは本当に困る。
電子レンジのターンテーブルの上でぐるぐると回りながら、ご丁寧に電子レンジ全体にカレーを撒き散らす様子を見ていると、あのパッケージの開発者はむしろ全国のご家庭に嫌がらせをしたかったのではないか、と思わなくもない。
「今日もどこかの家庭で、電子レンジ内に撒き散らされたレトルトカレーを吹いているアンポンタンがいるんですよ、げっへっへ」
などと、場末の居酒屋で199円のハイボールを飲みながらにやにやと笑っているのかもしれない。たぶん、隣には「こちら側のどちらからでも切れます」の開発者がいたりして。
二人でにやにやと、「この前もインターネットの人が、我々の技術に言及して、プチバズってましたねえ」なんて言っているのかも。
(アホらしい想像だな)
うーん、個人的にはそこに「三倍長持ち」のトイレットペーパーの開発者がやってきて、本当に人類に役立つプロダクトとはなにかを侃々諤々と説教して欲しいものだけれども、そう上手くできていないのも世の中である。

とはいえ、ここまでグチってきたものの、そのままレンジに入れられるレトルトのパッケージ自体は、歓迎すべき進化である。
もっとも、あれが本当に便利であるかどうかはともかくとして。
それでも、日常のささやかな繰り返し動作に対して、新しいアイデアを提案してくれるというのは、それ自体が大変素晴らしい姿勢である。
たとえ、その結果が、食後の電子レンジ掃除という新たなタスクが生まれることであったとしても、大して問題ではない。
(というか、あの進化そのものよりも、電子レンジの掃除をさせてくれることのほうがありがたいな。僕は掃除をサボりがちなので)

この手の変わり種進化といえば、スーパードライの生ジョッキ缶を初めて試した。
プルタブを空けると、泡が発生して、ジョッキのように飲めるというアレですね。
これについても、どうにもいまいちであった。
たしかにアイデアは面白い。だけど、これはそもそもアサヒの売っているビールの問題である。どんなに技術を駆使しても、スーパードライはスーパードライに過ぎないのだ。

僕は、普段スーパードライは飲まない。
意識的に避けていると言ってもいい。飲み屋のメニューを見て、スーパードライだったらその店に入るのをやめるし、スーパーで特売になっていても、絶対に買わない。

理由のひとつは、スーパードライのあの味である。強烈に辛口でドライで、冷たくなければ飲めたものではない。少しでもぬるくなってしまうとたちまちに苦いだけの汁と化してしまう。
子供の頃に、親のビールを一口飲んだときの「苦い記憶」がよみがえる。まあ、裏を返せばそれだけ強烈な個性がある製品なのだが。

もうひとつは、スーパードライは適切なシチュエーションで飲むべきものだからである。ホールケーキとか、おせち料理とかのように。
では、いつ飲むべきか。それはなんといっても、「スーパードライしか飲むものがない」シチュエーションである。
たとえば、ライブハウスのドリンクカウンター。500円のドリンクチケットでビールを頼んだら、ズイと缶のスーパードライが出てきちゃうようなシチュエーションである。
あるいは、夏祭りの屋台とかね。それから、なにかのイベントの打ち上げを、会議室のを貸し切ってやるときなんかも、スーパードライ向けのシチュエーションである。クーラーボックスの入った缶を、タオルでぬぐって差し出されるような……

スーパードライはそのように、選択を奪われた状態で飲むときにもっともスーパードライらしさを発揮する。奪われた選択肢と、強烈な味。そしてその強烈な個性は、そのときどきの思い出を脳に刻むための補助線となるのだ。だから、僕らはどこかの夏祭りで、あるいはどこかのライブハウスでスーパードライを飲むとき、同時に別の場所、別の時間に思いを馳せてしまうのである。これがプレミアムモルツでは、なかなかそうはいかない。

まあ、そんなわけで、缶で飲んでもスーパードライの味がするのが、スーパードライのすごいところであるわけだが、裏を返せばわざわざジョッキで飲みたくもならないビールでもある。
だから、ジョッキ缶の技術がいかに素晴らしいものであったとしても、そのイノベーションは飲酒体験全体の向上には貢献しないわけだ。
これが、アサヒのクラフトビールブランドで発売されてたらずいぶん違ったのだろうけれど。
(もっとも、ジョッキ缶は飲み口がアルミ缶のままなのも、考えものであるように思う。ジョッキと言うならば、ガラスで飲みたいよね)

なんだか話がだいぶ脇道に逸れたけど、なにぶんそういう脱線を楽しむのが日記である。

たぶん、こういうささやかな進化は日常の中でもっとたくさんあるのだろうけれど、現状思い出せるものはトイレットペーパーとレトルトカレーとジョッキ缶くらいのものである。
きっと、最初は「おっ」と声なんかを出しちゃってるのだろうけど、わりとすぐに当たり前になっているのだろう。

日記を書く週間が途切れるたびに、こうして毒にも薬にもならないクスリともしない文章を書いているわけなのだが、そのうちに世間はめまぐるしく進化している。
こういう日記を自動で生成してくれるAIとかがあれば助かるのにな、と考えてから、お絵描きAIが話題であることを思い出した。
やっぱり、テクノロジーの進化に鈍感なぼんやりした人間である。そろそろトイレットペーパーを買わなくっちゃ。


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