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或る雨の日の通院  / 日記

降り続く雨に嫌気はさしても、薬が無いと人もどきの形すら保てないので、病院に行った。
どれだけ上手に水たまりを避けていても、雨水はむなしさのように靴の中にたまっていく。靴下が濡れて足に張りつく。
濡れた布同士が擦れ合う感覚、生ぬるい水底を歩き続けるような感覚。
晴れた日に自分が忘れている感覚たちを、私の脳は不快だと結論づけた。
脳がどのように作用しても、雨はざあざあと降り続いている。病院まではまだ5分以上歩く。一歩踏み出すごとに、靴の中が侵されていくのを感じる。そうか、靴は身体の延長で、今の私は自分の身体を侵害されている。だから、私は不快なのだ。
歩きながら、靴は靴であり、己は己であることを、何度も言い聞かせる。快不快は己が主体的に決定していることであり、靴が濡れたからといって不快になる筋合いはないのだと唱える。ただ靴が濡れただけなのだ。そこに感情を持ち出す必要はないのだ。
雨の日はこうやって、自分の感覚や感情を殺す作業を行っている。肩の雨粒を払い落とすように。

病院につくと僕の前に16人も待っているとのことだったので、近所のマクドナルドで時間を潰すことにした。ダブルチーズバーガーとサラダのセットを食べる。1時間半か、2時間くらい待つだろうか。一度家に帰って、靴下を履き替えるべきだろうか。もう一度靴の中に水を溜め込みながら家に帰って、別の靴と靴下を水に漬け込む一連の作業を想像して、げんなりした。
さいわい、足の違和感については慣れつつあるので、そのままマクドナルドで時間が過ぎるのを待つことにした。靴も靴下も身体の延長であるならば、その違和感も身体への違和感への対処とたいして変わらない。つまり、慣れればいい。ほんの少しずつ、自分に対して鈍感になっていけばいいだけなのだ。

1時間ほどで、クリニックから呼び出しの電話が鳴った。16人を1時間で処理するってどんな診察しているんだろう。
診察室の前でスリッパに履き替えるとき、自分の靴下がぐっしょりと濡れていることを思い出してしまう。濡れた靴下が、スリッパに張り付く。
診察は、16人を1時間で処理できるような診察だった。
濡れた靴をもう一度履き直す。濡れた布同士の無意味な摩擦。空調で冷やされた靴から伝わるひんやりとした水の感触。お、おまえは、さっき倒したはずの不快感ではないか。
脱いだスリッパを、下駄箱の一番手が届きにくい場所に置いた。

薬局で薬を受け取ったあと、土曜日の午後はまだ手付かずで残っていた。いささか端っこが濡れていて黴臭い気もしたけれども、土曜日は土曜日である。
僕はそこから一番近いお気に入りのラーメン屋に行って、醤油ラーメンを食べる。有名店で修業した方がひっそりとやっているお店で、普段遣いでありながら少し優越感を感じられる、そういう”ちょうどいい”ラーメンが食べられる。2週間に一度の通院のささやかな楽しみだ。
濡れた靴をひきずって、家路をたどる。近所のドラッグストアで、シャンプーの詰め替えを買う。安いシャンプーをその場で適当に買っているから、未だに自分の毛髪に対する基本方針が定まっていない。

家に帰って、濡れた靴を脱ぎ、濡れた靴下を剥ぎ取り、塗れた足で廊下に立つ。半魚人めいた足音を響かせて洗面所に向かい足を拭く。振り返ると、玄関に向かって鱗まみれの足跡が並んでいる。
やれやれ、とにもかくにも僕はこうして帰ってきたわけである。これで薬を飲めば、また人もどきである半魚人として生活を送ることができるのだ。

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一週間前に書いたこの日記の下書きから、僕は濡れた靴を外に干していないことを思い出した。

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