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『猫を棄てる』感想。村上春樹が人生を畳もうとしている

ひとりのファンとして、ここ数年の村上春樹氏の活動を見るたびに、
「彼は、そろそろ人生を畳もうとしているのではないだろうか」
と考えていた。
70歳を過ぎて、自分の作家活動を整理し、人生を整理する。その作業の一環として、これまで語ることを避けていた父について語る。
村上氏はここのところ、いろんなものを吐き出し、人生を身軽にしようとしている印象を受けている。どういうことだろうか。

なんか村上春樹、生前整理みたいなことしてない?

僕が「彼が人生を畳もうとしている」と考えたきっかけは、『騎士団長殺し』の前後あたりからである。
あの小説は久しぶりの一人称回帰の長編だったし、グレートギャツビー的なモチーフや、古井戸を潜り抜ける部分も含めて「村上春樹的」な村上春樹を全て詰め込んだような作品だった。たまらんかった。
ただそれまでの小説と違う異質な点として、主人公が井戸を潜り抜けて戻ってきたあとに、改めて家庭を持ち、子を持つ点がある。
『国境の南、太陽の西』でも主人公は子を持つが、それはどちらかと言えば舞台装置としての子だった。
そうではなく、父性を受け止めるための家族の存在。
それは、村上氏があえて書かなかった部分でもあったはずだ。なにか心境の変化があったのだろうか。

そのあと2018年7月に発表された「三つの短い話」(のちに「一人称単数」という作品群に合流していく)としてまとめられた短編たちも、一人称で書かれた小説、それも比較的若い主人公を描いた作品だった。
単行本化に備えて再読を控えているが、印象としてはこれも『騎士団長殺し』初めて読んだときの感覚に近かった。彼自身が回顧をするように、かつての自身の文章スタイルを持ち出してきているからである(当然ブラッシュアップはされているわけだが)。
それから間もなく村上春樹氏がDJを務める村上RADIOが始まる。これもまた驚天動地である。「村上さんのところ」でラジオに言及していた気もするが、それにしても本当にやるとは。
そして、その年の11月には、早稲田大学に「村上春樹ライブラリー」の設立と、彼の生原稿の資料が寄付されることとなった。
これこそまさに生前整理である。生原稿に関しては過去に怒った編集者とのトラブルを連想したファンも多かったのではないかと思う。

そして一連の流れの中で、2019年6月、『猫を棄てる』が文芸春秋に寄稿される。
この文章に書かれていた内容そのものが衝撃的だったわけではない。むしろ、この文章を発表することによって、なにか個人的な責任を作品以外の形で果たそうとする姿勢。それ自体が衝撃的だった。

村上春樹、マジで何かを畳もうとしてるんじゃないか

『猫を棄てる』の感想に入る。

副題にあるように、これは村上春樹が父との関係性や父の人生について回顧するエッセイである。文藝春秋に掲載された文章から内容は変わっていない(はず)なので、一冊の本としてはひどく短い。だが、その性質上、この作者のあらゆる他の作品と一緒に取り扱うことのできない文章だ。
(安原顕氏について語られた文章と性質としてはどこか近いものを感じる。ある種の義務感を感じる点において)

前述の通り、村上春樹はその家庭環境について多くを語ってこなかった。
(「私小説を書かない」と断言している以上、作品から探ることはすこし野暮だ)
また、エッセイにおいても、少年時代の思い出こそ語ることはあるが、あえて家庭に言及することはなかった。

そしてその姿勢は、この『猫を棄てる』についても同様だと感じた。
この文章では、彼の父親について、これまでにないくらい細かく書かれている。
彼から見た父親の印象、性格、周囲との関係性。従軍経験について。父親自身から語り聞いたエピソードや、その後の調査に裏打ちされた数字を交えて書かれている。それだけに、一読した限りでは「赤裸々」とすら感じられる。

だが、本当にそうだろうか。

いち読者の印象だが、むしろこの文章は彼自身が父親について感じていたこと、思っていたことを巧妙に「隠している」と思った。
もちろん、印象として彼が父親が苦手だったことや確執があったことはほのめかされている。
だが、その仔細については一切描写されない。
むしろ、文章の解像度を調整し、解像したピント面とボケた部分をあえて書き分けている。ボケた部分は、作者自身が感じていた父親への印象といったところか。

そうしたテクニックを用いて、父親について語るという自身の責任を果たしつつ、彼と父親との間との真実のようなものについては、一貫して書かれない。
例えば、

うちの母親は「あなたのお父さんは頭の良い人やから」と僕に言っていた。
教師としては、ごく公平に見て、かなり優秀な教師出会ったと思う。父が亡くなったときには、とてもたくさんの教え子が集まってくれて、僕もその数に少なからず驚かされた

といった、父親と周囲の人間の評価が書かれている。
しかし、そのあとには

”父の頭が実際にどれくらい良かったか、僕にはわからない”
”どうやらそれなりに生徒たちには慕われていたようだ”

と、彼自身の言葉で、父親の「頭のよさ」や「教師としての優秀さ」について描写することを放棄している。
「僕は父親についてこう思っていた」といった切り口を、徹底的に避けているのだ。

これは、村上春樹氏自身とお父上との間の価値観の相違が現れている部分であることもあるだろう。
一浪で早稲田に入学し、在学中に結婚と店を始めて、執拗なまでに学歴への無関心をアピールしてきた村上春樹氏と、京都帝国大学を卒業したお父上。
専業作家として生計を立ててきた村上春樹氏と、文芸を愛しながら趣味として短歌を綴ったお父上。
感想文を書いている僕の視点の恣意性はあるが、そこには少しわざとらしいくらいのコントラストがある。
そういうコントラストの存在はともかく、実際に『猫を棄てる』の原文のなかにも葛藤や、確執の存在自体は公言されている。だが、その内容にたいして新しい事実はない。

もっとも、父親の記憶を残すことよりも、「父親の記憶について書く試み」を残す文章の性格上、そこに新しい事実が書かれることは重要ではない。
だいいち読者としての我々が、父親について暴き立てる文章を期待することも筋違いだ。

村上春樹氏が初めて語る「夢」の話

村上趣味者の僕が、それでも唯一赤裸々さを感じたのは、村上春樹氏が見る「夢」の話である。毎日、僕らがベッドの中で見るほうの夢の話。
(※ハルキストは蔑称であり、村上主義者は若干わざとらしすぎるので、僕は村上趣味者を名乗っている)

教育熱心であり学問を愛し、戦争に翻弄された村上春樹氏のお父上は、平和な時代に生まれたにもかかわらずマイペースに過ごす春樹氏に対して落胆する態度を隠さなかったらしい。
文中からその落胆に関する部分を引用する

僕は今でも、この今に至っても、自分が父をずっと落胆させてき、その期待を裏切ってきた、という気持ちを―あるいはその残滓のようなものを―板d機続いている。(中略)
今でもときどき学校でテストを受けている夢を見る。そこに出されている問題を、僕はただの一問も解くことができない。まったく歯が立たないまま時間は刻々と過ぎていく。もしそのテストを落としたら、僕はとても困った状況に置かれることになるというのに……。そういう夢だ。そしてだいたい嫌な汗をかいて目を覚ますことになる。

(太字はtonkotutarouによるもの)

村上春樹氏の作品と、過去の彼のエッセイ郡において、「夢」は非常に大切な役割を担っている。
村上氏の小説の中で、登場人物たちはしばしば夢を見る。あるいは夢と現実の境界線をさまよう。彼らはそこから戻ってくる。ぐっしょりと汗をかいて、水道の水を飲む。(本当に、キッチンで水道の水ばかり飲む。冷蔵庫から麦茶を取り出すことはない)
しかし、当の村上氏自身は、彼自身の夢について語らなかった。
夢について尋ねられるとき、彼は「自分は夢を見ない」「あるいはくだらない夢を見る(空を浮遊する夢とか)」と、いった話でお茶を濁す。
そして、「あえて言えば書くことで夢を見てきた」と語る。
だが、このエッセイの中では、彼が父と過ごした18年間で感じた価値観の相違と確執の一面が書かれている。
しかも、その中では彼自身が見る本当の夢について書かれている。そういった点においてこれまで彼が語ってきた彼自身と相違がある部分が多く、ずいぶんと驚いた。
もちろん、夢を見ないことも、書くことで夢を見てきたことも事実の一面だろう。だがそれ以上に、それは彼自身が見続けてきた暗い夢を、意思の力で隠し通す側面があったのではないか。

僕個人的には、村上春樹という人物は、少なくないユーモアを持って、人生の暗い部分を乗り越えてきた人間だと思っていた。
エッセイは概ねひょうきんだし、文章で人を気持ちよく楽しませる勘所をしっかり抑えている。安原氏に関する文章のような、例外的にスクエアに書かれた文章だってもちろんあるが。

それだけに、この『猫を棄てる』の「夢」に関する文章は、
村上春樹氏のユーモアは、ある意味で彼自身が思っていた部分を隠したり、彼自身が自らの暗い部分を上手に忘れるために用いられていたのではないかと感じるようになった。
まあ、その隠す行為によって、過去のエッセイの面白さが損なわれるわけではない。我々読者と作者の関係性が崩れるわけでもない。
「うすうすわかったけど、もっと早く言ってくれよな、まったく」
と感想をこぼすのも違うだろう。
だが、それでも、僕にとってはこれまで持っていた村上春樹氏の人物像について、大いに改めることになったきっかけになるパートでもあった。
彼の作品から、暗い夢に関する一節を引用する

「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」

そういえば『風の歌を聴け』も巧妙になにかを隠した文章だったっけ。

人生を身軽にする文章だったのではないか

そうして、改めてこれまで語られなかった一節の存在を確かめたとき、
僕が冒頭に書いた「人生を畳む」という感想は、必ずしもネガティブなものではないのかと思った。

村上春樹氏は、人生を身軽にしているのではないかと思う。
むしろ積荷を捨てて、身軽になっているのかもしれない。

僕は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の終盤が好きだ。終わりゆく世界で、主人公は様々な荷物を捨てて少しずつ身軽になっていく。それと同時に、世界には自身が知らないものがたくさんあることを悟る。


もしかしたら、これまで語らなかった御両親の話を発することで、村上氏自身にもこれまで知らなかった世界が見えているのではないのかと思ってしまう(それにしても、この論法だと、彼が今にもこの世を去ろうとしているように読めて失礼かもしれないけど。そういうわけじゃないです)。
飛行機は積み荷が減り、燃料がなくなることで、むしろ航行距離が伸びるのだという。
この『猫を棄てる』という文章にも(あるいは生前整理的なミュージアムにも)、もしかしたらそういった側面があるのかもしれない。
『風の歌を聴け』の中で、語り手はこう語る。

15年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後にはあわれなスチュワードを放り出すように、15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりに殆んど何も身につけなかった。

私小説ならともかく語り手と筆者を同一人物として見るのは誤読であり、僕はあくまでも近年の村上春樹氏から、連想した限りである。
村上春樹氏はまだ故障していないし(たぶん)、だいいち飛行機でもない。
この『風の歌を聴け』の一節は、

楽になったことは確かだとしても、年老いて死を迎えようとした時に一体僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨ひとつ残りはすまい。

と続く。こういう恐怖は、今の村上春樹氏が持つものとは異なっているだろう。
この先、これまで溜め込んでいたものを放出し、身軽になった村上春樹氏はどこに到達するのだろうか。

ひねくれた村上趣味者の僕としては、これからの彼の小説を通じて、この『猫を棄てる』で語られなかった彼自身の核に触れる体験を楽しみにしている。

(全然関係ないのだが、僕が初めて就職した会社の社長は、村上春樹氏と同じ芦屋近辺の出身で、教師である村上春樹氏のご両親を慕って、ご自宅に実際に遊びに言ったことがあるという。当時の春樹氏はまだ幼かったが、対面したこともあるとのことだった。本当かよ)

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