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書くことが無いときに書くことが無いと語ること / 日記

今年の頭に、なにか続けようと思って書き始めた日記は、文体と無難な話題縛りをつけてしまったせいで頓挫した。
あれこれと考えるのは楽しいものの、いざ筆をとってみるとあれも違うなんか違うとなってしまう。
夏休みの宿題に向き合っているときに面白い遊びのアイデアを思いつくのと同様に、縛りを設けた日記と向き合っていると、全く違うことを書きたくなってくる。
しかし、まずは数学ドリルの答えを書き写す作業を進めねばならない。
ああ、嫌だ面倒だと思っているうちに、ポッと出のアイデアは通り過ぎていってしまう。あるいは、うんうんと堂々巡りで考えているうちに、煮詰まってしまって、自分でそのアイデアに飽きてしまう。

おおよそ、あらゆるタスクに対して、僕はそういった向き合い方をしている。病的な飽き性であり、医者にいけばおそらく何らかの病名がつく飽き性である。

そうしてうんうんと書かない理由をつけているうちに数ヶ月が経ってしまい、ある変化に気がついた。
まとまった文章が、まったく書けなくなっている。いや、もともと書けたと自称するのもおこがましいのだが。
あるテーマを思いつく。そのテーマについて言及するに際して、構成を考えて、見出しを書き出していく。もれなくダブりのないように、見出しの粒度を調整する。小見出しを散りばめて、意見を補強する。そして、書けるところからガリガリと書いていく・・・はずなのだが。
そうして書き始めるものの、どこかしらで手が止まってしまい、嫌気が差してしまう。
自分が取り上げるテーマの見出しが、いつも以上に陳腐に見えて、嫌気がさしてしまう。書いている途中にテーマからブレていき、そのブレたテーマのほうが面白く感じるのだが、そのテーマを展開していくための体力が持たず、空中分解してしまう。書き始めた文章たちが全くつながらず、支離滅裂に見えてくる。

そんなことをうんうんと考えていると、次第にツイッターに投稿する短文すら書けなくなってくる。
ここのところ、投稿画面を開いては閉じることが増えた。書き始めた途端に、つまらなくなる。あっちとこっちの文章を調整して、読みやすくして……と考えているうちに、馬鹿馬鹿しくなってしまう。
せめてメモ帳にでも書いておけばいいのに、スマホをぽいと放り出してしまう。

先日ツイッターで、
「思考の速度に対して、文章をアウトプットする速度はあまりにも遅すぎる。だが、思考は早すぎてその場に止まらずまとまらないので、だからこそ遅い文章を使って考えを定着させねば、我々の思考は前に進まない」
といった趣旨のツイートを見た。
全くその通りであると思う。
ここ数ヶ月の間、僕の思考はあっちこっちに堂々巡りをして、まとまらないまま霧散していた。この数ヶ月、僕はどんなことを考えていたのだろう?Twitterを読んでいても、「どうやら何も考えていなかったらしい」といったことしか分からない。

では、僕はどうしたらいいのだろうか?
文章を書くことを神格化するほど文章を愛してはいないものの、今まさに指先から腐っていく身体を見捨てるわけにはいかないとして。
「あちこちに行った感想を書くことから始める」
「読んだ本のメモを残す」
「考えたことを、結論がないまま書き散らす」
どれも正しいと思う。取り止めのないことを、まとまりの無いままに書く。冷蔵庫の残り物で作ったような、ささやかなものを書く習慣から取り戻していくべきである。
そんなことは分かりきっている。分かりきっているんだけれども。

前述の通り、僕は文章を書くことを、それほど大したことだと思っていない。ある種の読書家が、書籍と水道水の違いを理解していないように。
脳で考えているときも母語であるし、視覚イメージよりも文字媒体を愛している。
僕が認知する世界の大部分は文字で構成されているし、僕の思考を規定するのも文字である。だから当然、僕から出ていくものたちもまた文字である。
いままで当たり前のようにできていたことに対して、何かしらのソリューションを処方する。この行為自体が、自身に発生した異常とそれによって被っている精神的な損害を、認める行為となる。人は花粉によって、花粉症になるのではない。花粉症の診断を受け、薬を処方され、症状が緩和していくその一連のプロセスを通じて、自分が「花粉症患者」にカテゴライズされていることを受け止めるのだ。

一番の問題は、こうしているウダウダとしている間に、「本来の自分」的な存在が、今頃何をやっているかを考えてしまう点にある。
本来の自分は、僕が足踏みをしている間に、理論値の最大速度で駆けている自分だ。
レースゲームで、ベストラップを走る過去の自分の姿のように、本来の自分はもうずうっと先を進んでいる。
言うまでもなく、本来の自分なんてものはどこにも存在しない。
本来の自分とはまぎれもなく今の自分である。
そんなことは十分わかっているはずなのに、己が己であることで、失っているものたちについて考えてしまう。
「今さら走り出しても追いつけないならば、いっそのこと逆走してやろうか」
などと思い始める。よく無い兆候だ。


とはいえ、それでも何か書かなければ、いよいよ体が錆び付いて動かなくなりそうな気がするから、こうして文章が書けないことに関する文章を書いている。
考えたことを飲み込んだり、忘れたりしているうちに思ったのは、
「何をやっていても、誰もが同じだけの時間を過ごしている」といった、至極当たり前のことである。
同じ時代に生きているのではなく、同じだけの時間経過を経験している。
何もしていなくても時間は流れている。命に意味がないように、時間に意味はない。
その時間がいかに有意義に用いられるかといったことは、だいたいの場合において我々の問題である。

話がとっ散らかってしまっているので、このあたりで一旦終わる。
それにしても、僕が書く日記は自分の内面ばかりで、直近に見たもの聞いたもの経験したものを全く書かないな。

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