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【ネタバレ】『ルックバック』感想。数多の背中が重なる。

まず、なんといってもシンプルに「絵がうまい」と唸ってしまう。
一見して、圧倒的に絵がうまい。

藤本タツキのタッチを残したキャラクターデザインや、緻密に描き込まれた背景……鍛え抜かれた筋肉の造形美のようにただ「絵がうまい」だけでスクリーンに引き込まれてしまう。
その絵に、haruka nakamuraの音楽がともなう。楽器から生まれる振動が重厚に重なりあい、時間の経過そのものに色を感じさせる。
この絵と音楽のコンビネーションの美しさは、原作や予告で開示された期待を、一瞬でとびこえていく。
製作者と観客の間で、「これからお互いに未知のものを共有し合うのだ」と、約束が結ばれるのを感じる。
小指が親密に絡み合う感覚。映画館で新作を見るのはこれだからたまらない。

原作既読者の予想を裏切って、さっそく四コマ漫画が動き始めるからまたおかしい。
小学生が描いたパラパラ漫画のように見せかけつつ、無駄の無い動きはプロフェッショナルの仕事である。
絵をやっている人にしか分からないような、計算されつくした削ぎ落としの技法があることを感じさせる(※僕はまったく絵を描けない)。
原作を再現するのではなく、原作を下地においた新しい作品を見ている。そう気づいたタイミングで、今度は別の違和感を絵から感じる。
なにか、統一感がない気がしてくる。

もちろん。ものすごく絵は上手い。全然下手じゃない。
絵が下手なはずはないのに、人物の線にバラつきがあったり、中割りから受ける印象がカットによって異なっているような気がしてくる。
原作者の妹、小学三年生のながやまこはるさんによれば、このアニメは”絵の凄く上手い監督がほぼ一人で全部描いているらしい”とのことである。

いくらなんでも原画を全て丸ごと描いているはずはない……
とすれば、作画の幅から受けるこのばらつきの印象は、おそらく意図的なものである。
(どのような意図であるかは、監督自身がパンフレットで言及していた。作画に関する制作方針について言及されているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい)
「これは演出上の意図です」と丁寧に教えてくれるからこそ、違和感に気がついたとしても不快感はない。
むしろ、手描き感溢れるタッチと作品テーマの親密度があまりにも高いからこそ、この発見が没入感をいっそうに高めてくれる。4DXだよ、4DX。

絵の凄さといえば、本作は人物の”動き・所作の演技力”がすさまじい。
個人的に唸ったシーンは、藤野が京本の家を訪ねて玄関に上がり込むときの身体の動きである。
靴を脱いで、土間から床の段差に足をかけて、廊下を進んでいく場面。

身体の小さな小学生の、体重の移動が絡んだ動きの所作がとても自然に感じられる。大したシーンでもないはずなのに、こだわりが詰まっていて、それでいてサラッと流れていく。
この後で藤野が大慌てで去っていくシーンも、開けっ放しのランドセルのなびき方も絡んで、とても生々しい。

『映像研には手を出すな』という作品で、登場人物たちが日常生活の動作を細かく観察し描く場面がある。
『ルックバック』を手がけたアニメーターの方々が、細かい仕草を何度も研究し想像し、動きをつけていく様子と重なるものがあった。

そう、互いに「バケモノ」と称する監督と原作者のみならず、多くの人々の手によってこの作品は作られている。

作中では、藤野と京本という二人の少女が、机に向かいただ黙々と手を動かすシーンが、時間の経過とともにひたすらに積み重ねられる。
この二人が絵に向かう姿に、藤本タツキ自身の経験が投影されているのは言うまでもあるまい。
そして、この作品に関わったアニメーターの一人一人が、自身の人生を、藤野と京本に重ね合わせていたのではないか。

教室の隅で(あるいは中心で)絵を描き、ときに誰かに嫉妬し、がむしゃらに研鑽を重ねていた人たち。

上映初日の朝に僕と同じスクリーンを眺めていた人たちの中にも、きっと彼らと似た人生があったはずである。
今からこの作品を鑑賞する人たちもそうだし、もっと言えば10年後、20年後であっても、同じようにペンを握り、それぞれの苦しみに向き合う人たちがいる。

"ペンを握る"と言えば、この作品は「絵を描く」という「手」にフォーカスしたシーンが多いわけだが、物語を動かすのは「足」である。
"静"の手と、"動"の足と言うべきだろうか。

藤野は京本の家に、「踏み込み」、京本は家の外に「足を踏みだす」。
2人が「手」をつないで街を駆け抜けるのも「足」のシーンである。
そういえば、藤野の作品は『シャークキック』で、ifの世界ではカラテキックを炸裂させる。

この対比が鮮やかでよい。そして、手足どちらの演技もアニメーションとしてなにひとつ妥協無く、こまやかに描き込まれている。

作品の構造が明かされるにともない、制作陣と観客との約束が変化していくのを感じた。
「作り手と、観客、スクリーンの中の人物のそれぞれに異なる人生があり、その中で同じように苦しみ、ときに喜びが生まれる。そして、この作品を鑑賞した我々は、それを知っている」


ともすれば、「クリエイターのための作品、創作への讃歌」となってしまいそうだが、この映画はそこにとどまらない。
もちろん藤野と京本、そして作品の制作陣たちも含めた、「創作という生き方を選んでしまった人たち」の情熱こそ、『ルックバック』という作品の醍醐味である。

しかし、素晴らしい俳優たちによって命を吹き込まれたのは、藤野・京本だけでない。
例えば、小学六年生のとき、藤野に「絵を描いててもしょうがない」と声をかけた同級生や、空手を奨める藤野の姉、京本の卒業証書を藤野に託した担任の先生といった人々。

これらの人々は、1ページでテンポよく読み飛ばせる原作と異なり、セリフの長さに応じた時間の経過によって、原作よりもいくぶん長い間画面の中にとどまることになる。
担任から藤野へ手渡される卒業証書は、あたかもリレーのバトンを渡すようなカットに変えられており、藤野と京本の作品を持ち込まれた編集者のコメントも、原作より前のめりの演技となっていた。

こうした描写の追記によって、主役の二人がどのような街で、どのような人々と関わってきたかが、生き生きと伝わってくる。
ドラマチックに感じられた出会いや転機が、連続する生活の中のワンカットでもあることが分かる。
藤野と京本、二人の物語であると同時に、「たまたま描かれなかった多くの人々が存在する。
そうした背景によって、単純に「誰かに向けた作品」と断言できない奥行きが生まれているように思えた。

(このあたりは上手く言えないのだが、成果物の有無を言わせぬクオリティがあるからこそ「創作者の絶対性を安易に賛美する行為」に対して、それとなく距離を取っているスタンスを感じた)


ともかく、ピーチクパーチクと感想を喋りたくなる作品である。
演出の丁寧さ、こまやかな音響、初出演とは思えぬ俳優の演技と、それを支えたであろうディレクション。語りはじめればとまらない。

それでも最も印象的だったのは、エンドロール後、明転したときの場内の雰囲気かもしれない。

場内を去るまで誰一人、声を上げることがなかった。
多くの人がすすり泣いていて、立ち上がるのをためらっている人も多かった。
たった今見終わったばかりの作品から受け取ったものに、ひとりひとりが当惑しているように見えた。
決して多くの映画を観てきたわけではないけれど、あんな体験は初めてだった。

明日から一気に話題になる映画であると同時に、その話題がこの先何年も続く様子が、自然に想像できる光景であった。
上映中にあと何回見に行けるだろうか、と考えている。

書いた人のtwitterアカウント: @tonkotu0621



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