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バックアップという祈り、散歩と朗読、低気圧と体調不良の先取り / 日記

11月の2週目から日記を書き始めたが、2日しか続かず、早速1週間ほど空いてしまった。日記とはそういうものだ。

日々は書き留めなければたちまちに崩壊してしまうし、書き留めることによって細部の欠落は決定的になってしまう。
僕たちはどのような形であれ、崩壊し続ける時間と空間の中でにいる。
目を細めて瓦礫の粒子を見つめて、風の流れを読もうと試みる。明かりを遮り、粒子を撒きあげる大きな瓦礫の塊から逃れようと、日々右往左往している。
インターネット歴が長いので、「日記は公開しなければならない」「日記には公開できる程度の出来事や思考を書かねばならない」と思い込んでいた。書いた日記をデバイス内のメモ帳に留めてもいいことや、極めて私的な人間関係のことを書いてもいいのだと気づいたのが、11月の2週目のことである。興奮冷めやまぬままに、自分しか読まない自分のための日記を書き始めたのが悪かった。突然長距離を走り始めると、たちまちに筋肉痛が襲ってくる。
脚をさすっているうちに1週間が経った。そして、1週間に感じたことをまとめて日記にしている。プライベートな日記は胃もたれをするので、公開を前提にして書いている。自分の、本当に私的な部分を、そのまま記す行為に本質的に向いていないのだと思う。そうして、日々はまとめられ、加工されていく。瓦礫に押し潰される瞬間、四肢が引きちぎれていく瞬間を、三人称視点で眺めている。何かが砕ける瞬間を、引き伸ばされた時間の中で、眺め続けている。毎日、毎日。
できるだけ、砕けているものが、自分とは関係無いものだと祈っている。そういうものだ。

撮影依頼を引き受けてしまったので、写真の管理体制を見直すことにした。
lightroomのクラウド版とデスクトップ版の違いを見極めて、クラウドに保存されていたRAWをデスクトップに保存し、クラウドに入っていたデータを全て消した。

クラウドには、2014年ごろから2020年までの僕の生活の一部が、断片的に記録されていた。ある時点、ある場所付近で、光源から反射されて僕の頭蓋骨付近まで到達した光たちが、センサーに記録されたデジタルデータたち。ツールに慣れ始めた2019−2020年ごろの写真が一番多かった。

閉店した猫カフェの猫たちや、友人が買った楽器の写真とか、そういった写真だ。
見返すほどの写真でも無いけれど、消えてしまうと間違いなく後悔するので、慎重にHDDに移した。
もちろん、これは僕の心理的な不安を取り除くための儀式にすぎない。複数のHDDにバックアップし、クラウドを使い分けたところで、同じだ。
そこには、
「自分はこのデータに対して、ここまで労力をかけたのだ」
という、虚空に向けた主張以上のものは存在しないのだ。
デジタルデータに依存すればするほど、僕たちは有益と思われる無意味な祈りを、機械に捧げる機会が増えていく。その祈りに科学的根拠を求めるほど、我々は機械に腹を立てやすい気質の人間になっていく。

すべて諦めなければならない。記録とは、そういうものだ。
取り返しのつかない大きな崩壊の中で、小さな崩壊から目を背けるための、祈りの時間なのだ。祈りの間だけは、我々はまぶたを閉じることを許される。近頃、誰もまぶたを閉じて眠らない。

土曜日の午後は、谷町6丁目までビリヤニの材料を買いに行った。
空堀商店街に「神戸スパイス」というインド食品の専門店があり、各種スパイスやバスマティライスを買うことができる。近所のスーパーで売っている小瓶を買うのがバカらしくらしくなるくらい、安価で量が多い。買いすぎてしまうことから目を背ければ、わざわざ電車で行く価値がある。
この谷町6丁目あたりは、大阪市内では貴重な高低差のある町並みがひろがっている。
路地が多く、ささやかな坂や階段が豊富だ。慢性的な傾斜地摂取不足に悩む大阪市民にとって、大変心身の健康によい場所である。
大阪市内には古民家を改装した興味深い店が多く、この空堀商店街あたりもそういった店がひしめいている。こじんまりとしているが、店主のこだわりが充満した店がたくさんある。ドアの隙間(この手の店は引き戸で、立て付けのせいか文字通り隙間が空いている)から、店の外までこだわりが染み出さん勢いである。角を曲がって路地に入り込むたびに、そういった店が一軒はある。カフェやギャラリーや雑貨屋、あるいはそれらが合体した店。
もっと開拓してみたい気持ちもあったが、神戸スパイスでたっぷりと買い物したばかりだったので断念する。なにしろ1kgの米が入ったレジ袋だけでなく、カメラとiPadとbluetoothキーボードまで持ち歩いているのだ。

空堀商店街を散歩しながら、spotifyで村上春樹と小川洋子の朗読会の配信を聞いていた。
10月に早稲田大学の村上春樹ライブラリーで行われたイベントである。とても行きたかったが、感染症対策で関東圏の人間しか応募できないため、断念した。もっとも、チケット倍率は1000倍を超えていただろうけど。
村上春樹と小川洋子が、それぞれ自身の短編を読み上げて、そのあと言葉を交わすだけの音源で、とても散歩向きであった。
あのゴツゴツとした滑舌で、抑揚をつけてどこかわざとらしく読み上げる村上春樹に対して、小川洋子は必要以上に意味をもたせないように配慮しているように感じた。棒読みというわけではなく、かといって説明的すぎるわけでもない。どこかで聞いたことのあるような良くある声なのに、なぜか耳に残ってしまう。これから小川洋子の作品を読む際は、あの声で黙読してしまうと思う。
あまりにも散歩向けの朗読だったから、結局帰りはうちまでしっかりと歩いてしまった。

夕食は買ってきたスパイスでビリヤニを作る。少し辛すぎる味付けになったが美味しかった。
イナダシュンスケさんのレシピ本に書かれていたレンチンビリヤニレシピを愛用している。蓋つきのグラタン皿を使って、鶏肉をマリネして、バスマティライスとスパイスを炊き込むだけである。
レシピに基づいてスパイスを買い込んだりとか、調理したりとかする小さな自由。そういう小さな自由を選び取れることが、少し大人になれた気がして嬉しかった。

日曜日は、グラタン皿を割った。ビリヤニを作ったあのグラタン皿だ。食器を洗ったあと、水切りの棚に置いていたのだが、そこからキッチンに叩き落としてしまう。
大きな音がして、それに負けないくらい大声をあげて、僕は両手を怪我した。



アニメの料理下手キャラが、好意を寄せる相手のために料理を作って手をボロボロにする描写があるが、まさにそんな感じの怪我をした。あの安っぽいキャラ描写の是非はともかく、本当にこんなことになるんだと笑い飛ばすことができた。なにしろお気に入りのグラタン皿だったし、30年以上連れ添った両手なのだ。怪我をしたときくらい、ネタにしなくてどうするだろうか。ネタにしないで、どうやってやり過ごせるだろうか。砕けたガラスの破片が料理に入ってしまって、夕飯はUber Eatsで済ませた。
それにしても、「料理が苦手な人物の努力」を、怪我でしか表現できないのもどうかと思う。料理が苦手だからこそ、惣菜を丁寧に選んで食卓を彩るような表現があってもいいように思う。
どうでもいいのだが。
ガラスとは、かくも鋭く割れるものなのだ。大きな破片があり、小さな破片がある。皮膚が裂かれる。
グラタン皿が廃盤になっていたので、レンジに耐えられるガラスの保存容器をAmazonで買った。

夜がやってきて、スマホに「低気圧注意」の通知がおとずれた。
この街に低気圧がやってくる。小さく前ならえをする等圧線と、それに伴う体調不良を想像すると、本当に具合が悪くなってくる。
体調不良の先取りをしているうちに、日曜日が終わった。呪術廻戦の本誌が面白くて、ざわざわしているうちに眠った。
朝目覚めると、両手の傷口はすでに塞がっていた。ガラスの保存容器は置き配で届いた。

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