剃るべきか、剃らざるべきか
人間を動物と区別するものはなにかと聞かれれば、ひとつには理性がある。そしてその理性が人間に命ずるところに、体毛への執着がある。一言に毛といっても、ある部分に生えたものは汚らしい不要物であると見なされ、ある部分に生えたものは人間の個性を代表するものであると見なされる。毛とは奇妙な存在であるが、この奇妙な存在をどのように理解すべきかによって、人間という神秘の解明の手掛かりになるのではないだろうか。
「剃るべきか剃らざるべきか、それが問題だ」とハムレットが言ったかどうかは知らないが、体毛をいかに処理するかという問題は現代人の一大テーゼであるように思われる。世には脱毛サロンが溢れ、そうかと思えば頭髪についての増毛・発毛を促すビジネスも盛んに宣伝を打っている光景は、まさに毛をめぐる狂騒を象徴しているようでもある。
頭髪については、年齢を重ねると必ず薄くなっていくという宿命があるために、髪の毛がふさふさしていることは若さの代名詞となる。すなわち生え際の退行や密度の減少が他人より早く訪れることは、あたかも老化が早いかのように受け取られてしまう。「若さが全て」の価値観においては、こうした事実を受け入れがたいのは当然のことだろう。
どういうわけか頭の毛についてのみ、人は喪失されることに抗う傾向がある。他の毛がすべて失われようと、頭髪だけは維持したいのである。その向こうには世俗の社会がある。ヘアスタイルひとつで世間からの印象は大きく変わる。やんちゃな髪型をすればやんちゃに見られ、大人しい髪型をすれば大人しく見られる。またあるいは、小ざっぱりした髪型は好印象の条件であるという「清潔感」の神話もあろう。服装よりもプリミティブに、俗界での属性を示すものが髪型である。
なればこそ、剃髪することが俗世間からの離脱を象徴するのはもちろんのことである。人間社会のどこにも帰属しないというのが剃髪の概念である。人が人でなくなるためにもっとも手っ取り早い方法は、髪の毛をつるつるに無くしてしまうことなのである。
武田泰淳のこの記述は、いかにも大袈裟なように思われるが、それこそ「頭を剃ったことにある人と、頭を剃ったことのない人には道が通じない」のであって、剃髪した経験のない自分などには到底理解できる心境ではない。
剃髪することで、顔と頭の境目がなくなり、それは単なる頭部となってしまう。その際に武田泰淳が感じたのは、「羞恥」というよりは「緊張」であった。ビフテキが食べられず、恋愛ができない緊張は、完全に社会の枠外へと追いやられる不安によるものである。
武田泰淳はまた、別の部分の毛について次のように書いている。
武田がこう書くとき、羞恥と男性性の誇りが入り混じっているように思われるが、その後陰毛を処理する機会があったかどうかは不明である。
デリケートゾーンの毛の処理は、かなり繊細な心理に左右されると思われる。例えば大西巨人『神聖喜劇』第二巻には主人公東堂が女との逢い引きに関して「剃毛」を提案される場面がある。
これは実用ではなくセクシャルな嗜好として求められている事例であるわけだが、その部分の毛を剃ることによって男女の緊張感を増し、社会から疎外されたプライベートな空間を創出し、あるいは密着した男女の境界線が失われるのである。それは、剃髪することと案外近いのかもしれない。
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