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甘さ辛さをどう分けるか

 病苦を隔てて詩情が湧き立つのだと考えていたが、罹患を経てもなお、以前はふっと降りて来ていた表現の煌きがしばらく降りてこない。それは今なお病中にあるとの証かもしれない。40をいくつも過ぎてようやく、臆せずモノを言うことが大事なタイミングと、物言わず沈黙していることが大事なタイミングがあることを理解し、その判断ができるくらいの分別がついてきたのである。というよりは、引っ込み思案な青白い顔の青年が、前者すなわち臆せずモノを言うタイミングだけをなんとなく身につけたといってよいかもしれない。にもかかわらず、身体の空気の読み方は悟っていないらしく、腹痛を起こすとわかっていながらアイスクリームを食べてしまうという愚は犯す。これではほとんど子供である。

 コロナの後遺症に間違いないが、味覚は甘いと辛いの区別がつく程度に減退してしまった。いちおうこれでも、以前は味覚に多少自信があったのである。それが、細かな味のグラデーションを感じなくなり、味蕾では0か1かという判断基準のみが存在して、感覚はすっかり仕事をさぼるようになった。コロナとは人間の本質的な怠惰を引き出す病気といえるのかもしれない。そう思うとこの忌まわしい病原体は実に人間らしい性質を持っているという気もする。ものごとを単純化する病なのであろうか。コロナがもたらした人間社会の分断の背中合わせの現象として、デジタル化の進展が挙げられるかもしれない。それは広義には各種リモート会議や業態としてのテレワークをも含むが、オンラインで資料を提供・共有するという動きもある。すなわち紙の資料は電子画像としてばらまかれるようになる。文字は文字としての実体がなくなり、情報としての価値のみになる。
 デジタルの世界においては0と1のみですべてが語られる。すなわちコロナは人間に、0か1の世界に暮らすよう迫るものであったのではないか。白か、黒か、はっきりさせることは良いことだ。優しいか、厳しいか。温かいか、冷たいか。そして甘いか、辛いか…。グレーゾーンは気持ちが悪い。はっきりさせるのが良いことだ。そんな風潮に拍車をかけたようである。

 世に蔓延る陰謀論は馬鹿々々しいと思っているが、もしこのように強烈に人間から体力・気力を奪うウイルスを人工的に生成して散布することができるとしたら、一国の生産力を根こそぎ奪って無力化し、制圧するということは容易にできると思える。

 病気で意識が朦朧としていたときに、缶飲料を冷蔵庫から取り落として左足の人差し指の爪の付け根にしこたまぶつけてしまった。その際できた、くっきりと濃い紫の内出血が、いつの間にかきれいさっぱりと消えていた。傷の治り方までがデジタル化してきたとくれば、いよいよ人間の肉体も、甘いか辛いかの世界に巻き込まれていくのかもしれない。





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