食
あなたは食事はすきだろうか?
あなたがすきなのは食べ物? 咀嚼という行為? 満腹感? 味覚を刺激されること? 人と食卓を囲むこと? 食事を作ること? ふるまうこと? どれのことを指しているのだろうか。
幼い頃、私は食に対して興味がなかった。舌が鈍感だったのか、すきという感覚が分からなかったのか、とりあえず出されたものは食べた。残すと父にとんでもなく怒られるからだ。美味しいとかはよく分からない。この料理が何でどういう工程を経て作られているのかも分からない(正直今もよく分かっていない)。
幼少期は月に一度くらい母方の祖父母に外食に連れて行ってもらっていたが、正直何を食べていたのかあまり覚えていない。祖父母は大変優しく羽振りが良かったため、高いメニューを頼んでも、それを残しても、レジ横のお菓子をねだっても、許されていた。それ故に私は父不在の食事の時には大変自由だった。三口くらいで放棄し、調理場で働く人々を眺めたりしていた。咀嚼よりも観察の方が楽しかった。お寿司屋さんなら入口の看板とか、水槽の中の魚とかそういうものはよく覚えているのに、どんな寿司を食べていたかは全く思い出せない。
中学生の頃から成長期だったことと部活動に馴染めないストレスから、とにかく咀嚼に固執し始めた。甘いものや揚げ物、お肉などカロリーの高いものを口にすると脳が何だか喜んで、ストレスが和らぐということに気づいたのだ。もうなんでもよかった。というか、「お腹が空く」と同じように「お腹がいっぱい」もよく分かっていなかったため、とにかく食べた。私のよく働く頭をカロリーで埋めて、血糖値の急上昇による睡眠で脳みそを止める必要があったのかもしれない。
思春期にそんなに暴飲暴食に走ったら勿論太る。そして、周りから「よく食べる子」というレッテルを頂き、食べる意思があろうとなかろうと食べ物を与えられる機会が増えた。正直自分にとって良いことではないことは理解していたが、もう気づいた頃にはそのレッテルから逃れられず、私は咀嚼し続けた。一種の自傷行為だったのだと思う。道化を演じることで自分自身のプライドや思考を放棄し、カースト最下層の人間として他者から評価されたりいじられたりすることを全て食べることでうやむやにしようとしていた。
一人暮らしを始めて、自分で自分の食事を決められるようになってからはほとほと困った。咀嚼をしてストレスを発散したいが、自分が一体何を食べたいのか分からないのだ。それ故に毎日毎日同じものばかり食べた。ありがたいことに毎日母の手作り料理で育ったため、コンビニで食事を調達するというアイデアやインスタント食品を購入するという発想もなく毎日自炊は行っていた。ただ、これが自炊というかは怪しげな「とりあえず肉とか野菜とか卵等を焼いたもの」を作り続けた。味付けという概念がない上に舌が鈍感なため、皿に盛って口に運んでから「味がないなあ」と思いつつも食べ進めるような感じだ。なんならただ茹でたサツマイモや加熱していないニンジン、木綿豆腐一丁をそのまま食べたりしていた。素材そのままにも程がある。自炊初めの時は一人前の作り方も、お腹いっぱいになったら明日に回すという発想もなかったため、そんな味気ない食事を吐く直前まで食べていた。意味が分からない。
当時は一種の強迫観念のように三食は食べねばならないという己のルールに則ってそんな食事を続けていた。何故だか分からないが、朝ご飯を食べないと死ぬと思っていた。そんなわけがない。作りすぎた時だって食べたい! と思って食べているわけではない。料理が目の前に存在していると全て食べなくてはならなかったのだ。三食食べれていたから健康なのかもしれないし、精神的には健康なのではなかったかもしれない。まあ、つまりは一人暮らしを始めてからも私は太り続けた。生活環境の変化からストレスもあったのかもしれないが、なんと大学一年生から二年生までの一年間で私は約5キロ太った。恐ろしい。
そんなことをしている内に自分自身の感覚というものが周囲と大幅にずれていることに気づいた。友人らは様々な形で食を楽しんでいる。私のように素材そのままで食べるようなことはないし、2~3人前のカレーを一食で食べきるようなことはしない。旬の野菜や季節の料理を食べたり、インターネットで見たレシピに挑戦してみたり、次の日にアレンジして味変を楽しんでいるのだ。大変驚いた。人によっては「今日の金曜ロードショーの作品に合わせて作中に出てくるメニューとポップコーンを用意する」なんて言う。なんてこった。これこそが人間が食事をする目的であるべきだ。勿論生きるために食べる必要があるが、それよりも人間は食事というものを楽しむことが出来るのである。
うつになってからは日中は動けず、夜中にコンビニへ徘徊し、菓子パンを大量購入して口に詰め込むストレス解消に勤しんでいた。しかし、これはなんのストレス解消にならないことはもう中高生の経験から学んでいる。というのに多分三か月くらいやめられなかった。最悪なことに成人してしまい、めちゃくちゃアルコールにも頼った。アルコールは脳を停止させることに有効だ。段々とアルコールや過食が頭の中の大半を占めるようになってからやっと病院にかかることした。ちなみにこの三か月の暴飲暴食によって私は3キロ増えた。
その後、療養する中で暴飲暴食をやめ、のんびり天井を見つめる生活なんかをしていると、私が今まで固執していたものは食事ではなく「咀嚼から生まれる思考を麻痺させる行為」なのだということに気づくことが出来た。と同時に食欲がどこかに消えた。「お腹が空く」と「お腹がいっぱい」という感覚と言葉が結びついたとも解釈できる。今まで三食食べなくてはならないという規則から解き放たれた私はお腹が空かなくなり、基本動かないからかもしれないが、殆どヨーグルトとキウイフルーツとバナナだけで生きていけるようになった。食欲減退は悪化し、その内とうとうヨーグルトやフルーツが悪くなる前に食べられなくなるようになってしまった。自分の行いによって腐敗した食べ物を処分するという行為は私の中の規則に大きく反してしまい、私は賞味期限のある食べ物を購入することを恐れるようになった。
そうして、野菜ジュースとカロリーメイトとフルーツゼリーばかり食べる生活が始まった。どんどん胃が縮み、外食では一人前の三分の二くらいで満腹を感じるようになった。一応今のところ残すことなく食べきることはできるが、外食で一人前食べてしまうとその日一日はもうその一食で十分なくらいになった。まれにではあるが、最早丸一日何も口にしない日もある。人間、意図せず食べないことも出来るのだと何だか感心したのをよく覚えている(遥か昔に父の強い勧めでファスティングに挑戦したことがあるが、めちゃくちゃ夜中にいなり寿司が食べたくなり眠れなかった記憶がある)。
健康に良いかはさておき、意外にもこの華のない食事生活は心地よかった。食事について考える必要がないし、調理だってしなくていい。何なら咀嚼だって面倒だ。私はどこまでも食に関心がない人間なのだ。
欲のない生活をしていたら3か月ほどで8キロほど痩せた。面白いことにぴったり一人暮らしを始めた頃の体重に戻った。
食に関心こそなくとも食事は好きだ。特に他者と囲む食卓は好きだ。共に調理するような鍋や焼き肉、巻き寿司なんかも楽しくて好きだ。正直味なんかはどうでも良くて、友人との楽しい会話が出来るならば私の胃袋はいくらでも食べ物を受け入れる。幼い頃から「何食べたい?」と聞かれたときは、とりあえず周りが楽しそうにしている所やインテリアが面白い店を答えていた。ファミレスや行きつけの飲食店などは幼少期の思い出補正から今でも何となく行きたくなる場所だ。また、私は現在インドカレー屋が大好きだが、最初はカレーの美味しさとかではなく、あの異国情緒あふれる空間が気に入っていた節がある。つまり、食事というよりも空間や体験ばかりに意識が行く傾向があるのだ。異国料理が好きなのはインテリアと共に刺激的な味なものが多いところが好きだ。辛いという感覚は味覚ではなく痛覚だというし、そういうところも相性が良いのかもしれない。
現在は健康的に三食食べれるように頑張っている。
ずっとずっと食事に苦しめられてきた。食事によってルッキズムを意識させられるようなこともあったし、一種の自傷行為として暴飲暴食にも走った。でも、そんな食事を疎かにしてしまっては生きていけないのだ。朝起きて外に出ることすらままならないのだ。本当に変な生き物である。上手に食と付き合っていけるようにこれからも私はまだまだ試行錯誤し、模索し、苦しむだろう。多分何年経っても上手に食べるのは難しいような気がする。関心がないし、舌が鈍感だし、面倒くさがりだし。本当に向いてない。それでも良い! 太っても痩せても何でも良い! 生きてたら良い!!
おしまい! 健康生活がんばるぞ~~~!!!!
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