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沈黙

 私は沈黙が苦手だ。よく親しい人間関係の証として「沈黙が心地よい」などと言うが、私は家族とでも、どれだけ親しい友人とでも、沈黙が恐ろしい。

 まず、私の中で「沈黙=怒っている」という方程式が存在している。父はよく怒る人だった。父の逆鱗に触れるようなことをすると、父は黙る。そして、察しろと言わんばかりのオーラを出すのだ。幼い頃はそれをよく察せずに結局怒鳴られていた。だから、どんな人と一緒にいるときでも黙っていると相手が怒っているのではないか、と不安になる。というより、自分が怒っていると思われているのではないかという不安の方が強いかもしれない。私はいつでも人に安心感を与えたくて話し続けてしまう。人によってはすごく迷惑だろうが、今のところ周囲の人間からは話しやすいと好評だ。やった~!

 もう一つの理由として根本的にお喋りということがある。私の頭の中には私にはコントロールできないお喋りな化物が住んでいる。だから、頭の中を整理するためには口から出すしかないのだ(もしくはこうやって文を書くか)。
 この脳と口が直結している癖は、特にスポーツをするときに困る。自分の体を動かすことが下手なものだから、それで手一杯でもう頭を整理している暇がない。ずっと喋り続けているし、ずっとパニックだ。あとは、目に入ったものを口に出してしまう癖もある。車とか歩いているときに看板とか見るとそのまま読み上げてしまう。これは大分落ち着いたが、今でもバスに乗るときはずっと窓の外の看板を読んでいるし、書いてあることや写真を結構覚えている。道は全く覚えられないのに!

 一人暮らしを始めてからはずっと独り言で会話していたし、四六時中テレビか音楽をつけていた。静かだと頭の中の化物が止まらない。そして、頭の中の化物はなんだか妙に悲観的で被害妄想癖があるので、とにかく音楽をかけることで沈黙を埋めて黙らせる。
 私は多分空っぽな生き物なのだと思う。軸もないし、自信もない。だから沈黙や空白が酷く恐ろしい。まるで自分のようでもあり、見えない未来のようでもあり、不安を煽る。だから、音楽をかけながらひたすらTwitterでツイートを読む。どこか全く知らない人間の呟きをひたすら読む。頭の中の空白についてを考える余地がないくらい情報や知識で埋めるのだ。最近気づいたが、博物館や動物園の紹介看板を読むのがだいすきなのはこれもあるのだろう(それから、後述するが私は好奇心の化身みたいなところがある)。一緒に行く友人の目を盗みつつ毎回しっかり読んでしまい、一周するのに丸一日でも足りないくらいだ。

 そんなお喋りな化物はあるとき、父から「落ちのない話をするな!」と怒られた。そうして、私はまるで講談師みたいなおしゃべりをするようになった。頭の中で起承転結を作ってから口に出すのだ。よく考えると、多分あれは保育園の頃で、保育園児の話に落ちなどあるはずがない。無茶な話だ。でも、落ちのない話をすると人を怒らせるのだということを学んだ私は、とにかく面白おかしく話すことに努めた。周りの保育園児たちは落ちを理解してくれないから、友人らの保護者と話して笑ってもらえることで段々学習していく。小学生の頃はクラスメイトが笑ってくれるためなら、と虚言癖レベルで話を盛っていた。本当に恐ろしい。当時のクラスメイトが皆記憶を失っていることを願うばかりだ。

 中学生、高校生になると自虐が話しやすいことに気づいた。私が喋る理由は人に安心感を与えるためなので、自分の弱みを自ら開腹してやり、面白おかしく話すことで相手に対して敵意がないことを示すのだ。あと、単純に芸能人や周囲の人間のゴシップに興味がない。私が興味があることは自分のすきなものなことだけだ。この話術は特に後輩には効果的だ。立場が通常の時点で私が上になってしまうため、失敗談や共感をして同じところまで降りる。対等だよ~という顔をする。というか、ただ生まれた順番で定められているだけで同じ地球を生きている生き物として本当に対等なのだ。なんなら後輩の方が私より優秀なことが多い。対等でいてくれてありがたいまである。

 ただこの自虐が時に刃物になる、ということは注意すべきだ。例えば、自虐をしていると「今、私笑わせたんじゃなくて、笑われたな」と感じることがある。下に降りすぎた証拠だ。下に降りすぎてしまうと『キャラ』というものをつくられる。「あの子はいじられキャラだから」「天然だから」「大食いだから」という感じ。皆どこかしらで心当たりがあると思う。周りに段々架空の自分というものを他人につくられ、そこから動けなくなってしまうのだ。これは対等な関係ではない。気づけば、私はカースト下位にいて上位の人間の傀儡と化してしまう。それに加え、自虐は同じような失敗をしてしまった子やコンプレックスを持っている子を傷つけてしまうこともある。私は人を安心させたくて喋っているのに、これでは本末転倒だ。
 また、人に話して、笑ってもらうことで上手く消化できることもある。一方で時折私が面白おかしく話したエピソードが、気づけばブーメランのように私の心臓を刺していることがある。自分の悔しさや怒りを消化できていないのだ。本当は私はずっと悔しかったり怒ったりしている。それでも、その怒りを発散したり私を傷つけた人にぶつけることが出来ないから、忘れようと努力する。でも、やっぱりそういうことは覚えていてしまうので過食や過眠に走って、傷ついたままほとぼりが冷めた頃にエピソードのネタとして活用する。それでもやっぱり傷ついている。別にそのエピソードをすることが嫌なわけではない。すきな人に笑ってもらえると気がまぎれる。良いことだ。ただ、前述した通り他人に下に見られたり、私を傷つけた人が私が傷ついたエピソードで笑っているとどうしようもない気持ちになる。

 それから私は自虐は時々にして、空想話を中心にするようにした。というか、自分が人間ではなく化物であると気づき始めてから、人間や動植物を含む生き物全般に対する好奇心が恐ろしい程あるのだ。
 相手のことを知りたい。何がすきで、どうしてそれがすきなのか、なにが怖くて、そのきっかけは何なのか、今までどんな人生を生きてきたのか。すきな人でも苦手な人でも全員等しく知りたい。だから、質問をする。「すきな動物は?」「もし自分がバンドするならどんなのにする?」「最後の晩餐何にする?」とか。生産性のない話かもしれない。それでも、会話は続くことが多いし、相手のことも知れる。
 哲学的な話もだいすきだ。「人はどうして生きているんだと思う?」「そもそもどこからが生きているという定義だと思う? くらげは本当に生きているのかな?」「本当の多様性というのはどういうことだと思う?」など。これらは流石に大分仲良くなった友人や哲学がすきだと言ってくれた人にしかしていない(普通に考えて怖いし、考えることがすきではない人からするとこの質問は苦痛だからだ)。普通の雑談でも今まで生まれ育ってきた環境が違うと、視点も全く異なってすごく面白い発見が得られる。本当に面白い。私とは違うグループで苦手だと思っていた人と意見が合ってそこから仲良くなることだってある。私はひとりで壇上で話し続ける講談師になりたいわけではなく、あくまで人とのお喋りがすきなのだ。

 対話は様々なことを生み出す。信頼関係や気づき、悲しみや怒りを生むこともある。時々お喋り過ぎて「うるさい!」と怒られることもある。でも、私はしゃべり続けてしまうのだろう。多分どんなに年老いても、病に臥せっっても、自分自身が誰か分からなくなったとしても喋る。頭の中のおしゃべりな化物と好奇心が死ぬまでは!! 必ず!! きっといつか、私はこの文を読んでくださっているあなたとだっておしゃべりするぞ!! 根掘り葉掘り聞いてやる!! 好奇心の化物を舐めるな!!


 なんか威嚇して終わっちゃった。落ちが見つからなかった。お父さんに怒られちゃうね。でも、落ちなんてなくてもいいんだよ。相手を傷つけなくて楽しければなんだっていい。ね、お喋りしようよ。


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