共感

 ちかごろさとしはものをあまり食べなくなった。夕食の時間、気がつくと手がとまっている。
「どうしたの。具合でも悪いの」
「ううん」私がたずねると、さとしはいつもうつむいたまま、目を合わせずに首を横にふるだけ。「お腹がすいてない」
声は低くて、ちからない。こわれそうなほど弱くうつろな目線が食物のうえに注がれている。口数もうんと少なかった。
 夫はどう思っているか、なかば助けを求めるような気持ちで隣を見てみると、無心でハンバーグをつついていた。さとしの問題には気づいてもいないように、赤い肉片を口に運び、白い飯をかきこみ、また肉に箸をのばす。
 さとしが、この人の真一文字に閉じた口と冷たくとがった目を受けつぐことがなくてよかったと、いつも思ってきた。この子は快活で、よく話し、よく笑う。ひととうちとけるのもうまいようだし、なによりすなおでいい。夫の陰鬱さも私のこじれも、見られなかった。
 はずだった。このごろのさとしは家でもなにも話さなくなったし、学校から帰ってきても、まえはよく友達と遊ぶといってランドセルを玄関に放って走っていったのに、そういうこともなくなった。
 まるまるしていた顔はすこし痩せた。伏せた目が夫を思わせる。
 その日などは、好物のハンバーグをまえにしてもついに一口も食べなかったので、私も心配で食が進まなかった。
「もしかして、たかしくんのこと?」
あの子の名前は出さないことにしてきたけど、このさいしかたない。おもいきってたずねてみた。
 すると、さとしの、呼吸してかすかに上下していたちいさな肩の動きがとまった。しばらく私とこの子のあいだの時間が停止したように見えた。
「ううん」
首を横に振るが、その目は普段とは異なり、半身を乗りだしている私の顔をまっすぐ、みつめていた。おびえている。さきほどまでのうつろさはなく、たしかに私の目を見ていた。
「やっぱりたかしくんのことなんだ」
「ううん」この返事はすばやかった。なにかを隠しているみたいに。「ちがうよ」
「さとし、ママ別に怒ってないよ。どうして、ねえ、そんなに怖がってるの? ママそんなに怖い?」
笑いかけて、私はハンバーグを口に放った。さとしの顔は変わらず、血の気がひいたような青白さだった。いまにも泣き出しそう。
 やはりたかしくんのことが忘れられないんだ。みんなはかなしさを乗りこえてあたりまえに生活しているのに、じぶんだけ昔にとらわれているみたいで、怖かったり、不安だったりするのかもしれない。
 感受性の強い子供のうちにこういうことを経験し、学ぶことができるのは、あるいは彼の将来にとって有益かもしれないと、私は思った。そして箸をおいた。
「ねえ、さとし。よく聞いて」すなおで利口なさとしは、こういうと本当に、ひとことももらさずよく聞き、覚えることができる。「イソベちゃんが死んじゃったでしょ、そのとき悲しかったね」
さとしはゆっくりとうなずいた。玄関にはイソベを飼っていたときの籠や滑車がそのまま置いてある。
 入学する直前に死んだので、あれから一年ほど経ったろうか。まだ夜になると滑車の音が聞こえる気がする。磯辺焼きのような体色を一番可愛がっていたのはさとしだったが、あのハムスターの死を一番ひきずっているのは私のようだった。
「あのときさとし泣いてたね。どうして泣いてたの?」
「かわいそうだったから」
その声は案外、芯をもってしっかりと答えた。
「そう感じられるさとしはとてもえらいよ。わかる?」さとしの目は丸くて大きくて、かわいい。「イソベちゃんが死んじゃうとき、すごく苦しそうだったよね。でも、さとしは苦しくなかったでしょ。ほかのひとの痛みを想像して、かわいそうと思えるのは、すごいことなんだよ」
「そう思わない人もいる?」
私は一瞬、どう答えたらいいのかわからなかった。さとしの目はやはり、たすけを求めるような色をしていた。
「うん、いるかも。でも、ママはそういうひとは知らない。みんな、だれかが死んじゃったら悲しいなって思うよ。それが普通なんだよ。でも、ずっと、ずーっと、永遠にずーっと泣いているわけではないよね。さとしだって、イソベちゃんのこと思いだしても、もう泣かないね。どうしてだと思う?」
「それは……」
突然のことだった。私は息を呑んで椅子から立ちあがっていた。
 さとしの体がなにかに憑かれたように激しく震えはじめた。私はその肩を抱くようにした。知り合いの子がてんかんを持っていて、その発作の瞬間を見たことがあったが、それとは様子が違った。得たいのしれないものを見て戦慄しているような表情だった。
「それは……それは……」
さとしは言葉を続けようとしていた。私はなにが起こっているのかわからないおそろしさで、なにも言えなくなっていた。ただただ、涙をこぼしはじめたその子の肩や背中を抱いて、撫でていた。
「ぼくがたかしくんをかわにながした」
息子はそういった。乱れる呼吸のあいまに発した言葉が偶然そう聞き取れるような音だっただけかもしれなかった。しかし、息子はもう一度たしかに言った。
「たかしくんを川に流した」
その瞬間、夫が食卓をたち、テーブル越しにさとしのうでをつかんだ。一瞬食器がふるえぶつかりあい耳障りな音をたてた。呆然と夫のほうをみあげた。私はほとんど自分の脚では立っていられなかった。
「たかしくんがどんな気持ちだったか考えたか」
夫の声は強かった。
「かわいそうだった」
さとしの目はぼんやりとちゅうに向けられている。首は座っていないかのようだった。母親でも父親でもないなにかにむかって話しかけているような、遠さが感じられた。

 まだしたいこととかがいっぱいあるのに、びょう気でしんじゃうのは、たかしくんだけしんじゃうのはかわいそうだった。だから、たかしくんが、川にながれていきたいっていって、だから、そのときぼくがそのとおりにしてあげようとおもった。
 びょういんにお見まいに行ったとき、たかしくんはもうおれはしぬんだなっていってて、ぼくはすごくかなしくて、じゃあ、しんじゃうのにどうして、なおらないのにどうしてびょういんのなかにとじこめられてるのって、ぼくおもったんだけど。
 でも、たかしくんはとじこめられてるんじゃなくて、本とうはどこにでも行けるっていってた。車いすをおしてもらったら、いけるっていって、ぼくにおしてってたのんだから、ぼくがおした。それで、どこいきたいっていったら、そしたら、あの川のところっていうから、つれてってあげた。
 そこで、たかしくんはうみになりたいっていってた、川がうみにながれていくから、この川をながれていけばうみになれるってたかしくんはいってたから、ぼくは、たかしくんはうごけないからぼくがたかしくんをだっこして、水のところまではこんであげた。
 たかしくんはきもちよかったんじゃないかな。みずのなかでねむってた。



 
 夜の道は暗い。片田舎の広い道路にはひとひとりいず、街灯と街灯のあいだが長く、目の前をゆらゆらとさまようように歩く夫と息子のふたつのぼんやりとした影が白い霧のうえに浮かんでいるのを見失ってしまいそうな濃い暗さがなんどもやってくる。つぎの明るみにおよぎつくのと家族三人がこの闇におぼれしぬのとどちらが早いだろう。
 夫がこんな辺境に赴任されると聞いたとき、そんな不公平なことがあるだろうかと思った。小さな子がいるのに。
 ここにはなにもなかった。田畑があり、そのあいだに家があり、老人が死ぬ場所がある。人口だとか村政のことを夫からたまに聞くことがあったが、そのような全体的なことは私にとってはどうでもいいことだった。私はただ自分の半径数十メートル、家のなかだけのことを考えていた。
 むこうにいたときに勤めていた会社の人たちのことがたまに頭に浮かんでは消えた。たまに夢のなかにも職場のひとたちが出てくる。目がさめると、じぶんはなにもない土地にいるのだと深く自覚する。
 林に歩みいってからはついに完全な闇のなかにとじこめられた。ぬるい風が枝のあいだを吹きぬけていく。川の流れる音は低く、虫の声の底をはって近づいてくる。見えない目には不吉なまぼろしが投影される。
 たかしくんの顔が水面に浮かんで笑っている。体は溶けてなくなっていた。かろうじて残っていた腕も、私たちを手招くようにうごめきながら分解され、広い海へ流れていった。
 この暗がりのなかから一生出られないことが想像できた。来た道を引きかえすことはできず、ただ呼ばれるほうに歩いていくしかなかった。

 川べりの砂利を鳴らす足音がとまった。上流は水流が弱く、浅い。ひとつひとつの岩間から水の柔らかくぶつかりあう音が絶えまなく聞こえる。
「ここにたかしくんを流した」 
それを聞いて、夫が私のほうをふり返った。その顔を見たとき、いや暗くて見えないのだけれど、なつかしさを感じて胸がぬくんだ。
「こんなに浅いのに、人が流れるわけないじゃんか、なあ」
夫の声は明るかった。何年ぶりだろうか、こういうこの人の声を聞くのは。
 みんなはたかしくんのことをかわいそうっていうけど、たかしくんは海になれたから、たぶんよろこんでる。さとしもそう言って笑った。
 私もつられて笑顔になった。
「たかしくんはうれしそうだった」
「ほんとうかなあ、さとし嘘ついてるんじゃないの」
「ついてないよ、たかしくんきもちいいっていってた」
「でもさあ、だって水冷たいよ」
夫は姿勢を低くして川に手を触れているようだ。いいや、たかしくんは確かに望んでいたのだ。さとしは人の気持ちがわかる子だから、たかしくんの夢を叶えてあげたのだ。
「そうだよね、さとしは嘘つかないよね」
私はさとしに近づくと、頭だと思うところに手をおいた。やわらかい髪が触れる。そっとなでた。
「うん」
「じゃあ、ためしにながれてごらんよ、きっと冷たくていやになるから」夫は冗談めかしていって、まだ小さいさとしの体を抱きあげた。「うっ、重たくなったなあ、いま何キロなの体重」
「20キロ」
「学校では小さいほうだよ」
私がいうと、夫は笑い声をあげながら息子を川のなかによこたえた。
「俺がチビだからな」
せせらぎが乱れるのがわかった。しかしほどなくして、川は20キロの体躯を岩と同じような物体として受容し、自然の流れのなかにとけこませた。
 しばらく、私たちはただじっと、息子が自然と同化していく様を見つめていた。月明かりを照りかえして光る波のなかをしきりに探したが、私にはさとしの顔とほかの岩との区別がつかなかった。
「どうだ、さとし。どんな気持ちだ」
「きもちいい。すごくきもちいいよ」
みつけた。やっとみつけたさとしの顔は、しあわせそうにほほえんでいた。やがて水に浮かびながら、ゆっくりと川下のほうへ流れていく。
 私は夫の手を握っていた。
「さとし、怖くないか」
「うん、こわくない」声が次第に遠くなっていく。「たかしくんに会えるからこわくないよ」
「さとし、私たちも会いにいくからね」
なるべく大きな声で闇にむかって呼びかけたが、返事はなかった。私の声はもう届かないようだった。また、なにも見えない暗さのなかにまぼろしが見えはじめる。いまそれは、しかししるべとなる明るいまぼろしだった。
 さとしがここにいる。
「そうだね、忘れたんじゃなかったんだね、一緒に生きていくんだね」
こころのなかに居るさとしにいったのだか、となりに在るおっとのからだにいったのだかじぶんでもわからなかったが、私はただ一番大切なことを確認したかったのだ。
 おたがいのぬくもりをふかくたしかめあいながら川をながめる。そのようにして夜は明けた。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻