(3)三単現

 塾が終わって友達の家の前までつくころには夜十時だった。人通りのない住宅街を街灯がこころもとなく照らしているだけの夜、女子中学生ふたりだけで立ち話していたのはどうかとおもうけど、あのときはなにか危ないことがあるなんて考えなかったし、危ないことがあっても平気な気がした。いつもその子の家のまえで気がすむまで立ち話をする。
 友達との話はたあいなさすぎて忘れちゃったけど、その子とは好きなアニメの話とか、誰かの悪口とかで盛り上がっていたと思う。きれいな話ではなかった。
 ただ、たまたまそのころは、ちょっと違ったことも話題にのぼりがちだった。その友達が仲良くしている男子の話だった。別に、その男子のことはなんとも思ってないんだけど、人気のある子だから、同じクラスの他の女子から、嫉妬されていて、それがすごくめんどうくさいの。
「いちゃいちゃしてるって言われるの」
「いちゃいちゃしてるの?」
「してないよ。かってにあちらからいらっしゃる」
「じゃあ、ちょっかいだされてるの。かわいいから」
「かわいくないですよ。違うの。聞いて。たぶん、なんかわたし、面白いかんじだからそれでかまわれてるだけなの」
「面白い反応をするから気をひいてると思われるんじゃん」
「だれだって微笑むのに」
あたりさわりない位置をうまくたもちたい。無意識だろうか。
 幼稚園のときから一緒にいるけれど、この子はぼうっとしながら、なにも考えていないふりをしている人もいるけど、もっとなにか、ほんとうになにも考えないようにしている。なにを見ても聞いても無関心をつらぬく。だから誰かに好かれていても気付かない。そういうところは下手すると鈍感に見えて純粋そうだから、ますます好かれるのかもしれない。でも、わたしには、ほんとうは考えて行動しているように、たまにみえる。
 わたしはだれかを好くことはあっても、だれからも好かれたことはない。少なくとも、あの子みたいな好かれかたをしたことはなかった。両想いになったこともあったけど、なんか、わたしはそういうふうな人間じゃないなと思って、やめちゃった。必要ないや。女友達と話しているほうが楽しい、漫画やアニメがあればいい、面倒くさがりだから、なんか、他の女子とは違う気がする。彼女たちの立ち話はわたしたちの立ち話とは違って、いまある気持ちでいっぱいなのだろうけれど、わたしたちはどこか遠くからなにかを見据えている。
 あの夜は、たまたま、他の女の子たちがしているような立ち話に近い立ち話をしていた。でも、わたしたちは変わらないし、すぐにでも今期アニメのはなしに戻れる。いつでも昨日届いたキャラソンCDのはなしに戻れる。いつでもそこにもどれるから大丈夫。
 好きなものの話より、嫌いなものの話がいい。わたしが次に話そうと思っていた悪口を始めるためにだれかの名前をつぶやいたとき、静かな、でも確かな強さの声で、目の前のその子が「あ」と声を上げた。目は道路のむこうがわを見ていた。ああ、この顔。身のまわりがめんどうくさくなったとき、自分に火の粉がかからないように知らないふりをするときの顔だ、わたしもこういう顔をできたら、もっと器用に生きられたはずなんだ。
「え」といって振りかえると、むこうの歩道に、人影が見えた。街灯の光の届かないところに、男がじっと立っていた。こちらを向いているのはわかった。でもわたしは目が悪かったから、男の顔まで見えなかったし、細かい様子はわからなかった。黒い服を着ていた。最初は知っているひとかなと思ったけど、なんともいえない不自然な立ち姿のような気がして、ふとこわくなった。
「ねえ、うちの車で送っていってあげる」
友達はずいぶん落ち着いて、でも早口で言った。それから、変な人を節操なく好奇の目でみつめてしまう子供にするように、わたしの袖を引いていたが、わたしは子供じゃないのでずっとあの男のほうを見ていた。その人がゆっくり、視線に答えるように街灯の真下に歩み出ると、その全体が明らかになった。両脚は肌色だった。なにごともないような顔をして揺れている。股のあいだにペニスが見えた。
 友達のうちに入って、友達のお母さんに通報してもらって、それから車でうちまで送ってもらった。街灯の下にはもう露出狂はいなかった。友達は怖くなったのか、車に一緒に乗っていた。わたしはずっと口を利かなかった。友達も車のなかでは無口だった。でも、二人とも、なにを思い出しているわけでもなかった。友達のお母さんは、なにもなくてよかったと繰り返した。既になにもなくはないだろと私は思った。
「またあしたね」
わたしがマンションの前で車をおりるとき、友達がそういった。その真剣な顔を見たら、なんだか力が抜けて笑いがこぼれた。わたしが笑うと、その子も笑った。声を出して笑いはじめると、もうとまらなかった。なにがおかしいのかはお互いにわからなかったけど、どうしようもなくおかしくて、二人で笑って息ができなくなっていたら、友達のお母さんに少し叱られた。
 玄関を入ると、すぐに自分の部屋であかりもつけずにベッドに倒れた。涙がこぼれてとまらなくなった。指は冷たかった。あの子もいまごろ泣いているだろうとなんとなく思った。またあしたなんて言葉をあの子はふだん言わなかった。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻