ジョゼフはそう言った。

「きみの絶望の理由がわからないままだよ。ところでメアリー、ぼくがもともとデブのいじめられっ子だったって知ってるかい?

 パパとママが教師だということは、話したことがあったよね。彼らは生徒たちこそ我が子というかんじで、実の息子であるぼくのために時間を設けることはほとんどなかった。ぼくは寂しかったから、それを表面に出して伝えようとした。大抵の子は両親の注意を引くために悪いことをしたりする。忙しい親は子供に時間をとられるのをいやがって、子供の機嫌をとるのに必死になる。そこまで裕福というわけではなかったけれど、不自由ない生活を送っているというのは、子供ながらに自覚していた。だからかな、甘やかされたこどもは大体ひねくれて育ってしまうね。きみも、ぼくのひねくれたところが好きだろう。しかし、ぼくはこんなぼくはいやさ。

 小学校からいじめを受けはじめた。受けはじめた、というのは、そうだな。つまり、周りの人間も魔が差してやったというわけではなかったし、ぼくにとっても一時的に周囲とそりがあわなかったどころの話ではなかった。どういうことかというと、ぼくはどの集団に属してもいじめられたというわけ。いじめられる運命にあった。場所や人が変わってもいじめられるということは、原因はぼくにしかないと思った。

 そのころのぼくはスポーツがだいの苦手で、ほら男というものはボールみたいなものを追いかけたがったり、それに群がるほかの男を蹴散らしたい習性があるだろう? その気持ちというか、感覚がまったく理解できなくて、みんなになじめなかった。

 それでいて、ギークたちの仲間にはいるのもごめんだという尊大さがぼくにはあった。パパがフットボールのスター選手だったということは事実ぼくの自己肯定感を高めていた。それが深層心理にこびりついているものだから、ぼくに似合っているのは nerd-yな世界だと頭ではわかっているのにどうしてもそこにいる自分はほんとうのじぶんではなくて、すべての人間から認められる保守的なヒーロー像をかたどったような、秘められた力がいつかぼくを目覚めさせてくれると確信していたんだ。

 高校生のとき交通事故にあった。この話もしたよね、この……傷がここにあるといったね、腕を複雑骨折したのと、それから背中の傷も見せたよね。投げ出された体が店のショウウィンドウに突っ込んだんで、いろんなところを切ったみたいで。それから、頭を強く打って、ぼくはしばらくのあいだ記憶をなくしてた。全身ぐちゃぐちゃになった。あれを見た人は全員、バイクに乗っていた高校生は即死だったと思ったろう。しかし、そのころのぼくには死んでも泣いてくれる人などだれひとりとしていなかったから、ぼくにも守りたいものなどなかったから、生きようと死のうと関係なかったかもね。

 意識がもどったのは一週間後のことだった。とても不思議な感覚だったんだ。それまでの人生すべてがまるで夢のような感じで、断片的にしか思いだせない。あのときのことはあんまり誰にも話したくないから、いままで話してこなかったんだけど、きみになら言うよ。死んでほしくないんだ、愛しているから。よく聞いてほしい。

 はじめて目を覚ましたとき、ベッドのよこにはママがいた。ママはおどろいて……いや、この時点ではぼくはまだママのことをママだと気づけなくて、ただのおばさんだと思っていたんだけど……知らないおばさんが目のまえでぼくを抱きしめようとしてやめたり、病室から跳びだしていこうとしてやめたり、言葉をなくして口元を押さえたままかたかた震えて涙を流しはじめたりしているのを見た。記憶を失っても、この人はぼくのことを愛してくれているひとだと心で感じた。ぼく自身もだれだかわからないぼくを、だれだかわからないこのおばさんが、とても愛しているという客観的な事実として直感できた。

 自分がなにものなのかわからないという恐怖はすさまじかった。不気味で、孤独だった。知らない国に来たみたいだろうとカウンセラーは言っていたが、それとはちょっと違う。知らない国に来たというより、もといた国がわからないのにここがあなたの国だと言われているような気分さ。

 そんなことはすぐに忘れた。体がものすごく痛かった。痛みに耐える時間というのは長く長く感じるとおもう。メアリー、ぼくにもわかるんだ、その痛みを超えたところにはかならず希望がある。

 痛みを感じる神経の反対側で、もうひとりのぼくがなにかを訴えていた。これは記憶喪失の患者がよく覚える感覚らしいんだけど、いままでの自分と、これからの自分、ふたりが自分のひとつの体のなかに存在するような気がするんだ。それから、記憶がもどってくるにつれて、だんだんとふたりの像が重なっていく。そうか、ぼくたちは同じ人間だったのかと。

 ぼくの場合もまさしくそれだった。傷が治ってくると、その感覚は日増しに強くなった。いままでのぼくといまのぼくは違うという意識だった。これは、具体的にいうと、いままでのぼくというのは鏡に映ったぼろぼろ、傷だらけ、縫い目だらけの豚のような姿、そしていまのぼくというのは、理想のぼく、パパのように強くて、ママを守ることができるぼくだった。

 人間の体はほんとうに不思議だと思う。脳の神経を負傷したあと、それを埋めあわせるためにほかの神経が発達するという話を聞いたことがあるかい。ぼくはあの事故から変わったんだ。いいや、還った。ほんとうのじぶんにかえったんだ。

 成績のことは……正直、これはぼくの力じゃない。あの事故のとき、神様がくれた力だと思っている。だからあまりひけらかさないことにしてる。それはおいておいて、努力をいとわなくなった。それはつらいリハビリを乗りこえたからかもしれないけど、どんな新しいことにもチャレンジするようになった。スポーツ嫌い、人間嫌いだったぼくは急にあの丸いボールを追いかけたくなった。ボールを追いかけて、体を鍛えて、ダイエットにも成功した。体が変わると、心も変わったような気がした……いや、心から変わっていった。性格も明るくなって、いまではきみのような綺麗なガールフレンドもいる。むかしのぼくは一生童貞で死ぬと神様に誓ったこともあった。

 いまは違う。なにもかも違うよ。一生手に入らないものなんてないんだ。望めばなんだって手に入るんだよ。メアリー、きみは完璧な女性だ。生きなければならない。生きなければならないんだ。ぼくたちは生きるために、しあわせのために生まれてきたのだから」



 ジョゼフはそう言った。メアリーはみずからのこめかみにあてがった銃口の冷たさと皮膚のやわらかさのあいだで汗がすべるのを感じた。めのまえのジョゼフは例の如く自信に満ちた笑みを浮かべている。

 その顔に飛沫する鮮血を想像して目を閉じ、そしてなるべくゆっくりと引き金に力を込めた。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻