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「忘れられる権利」について~直近の東京高裁逆転判決を題材に~

今週月曜日(6月29日)、東京高裁があるツイートの削除請求をめぐり、地裁判決を覆し、原告逆転敗訴(ツイートの削除を認めない)の判決を出しました。Twitterの検索で過去の逮捕歴が表示され、人格権が侵害されたため削除を求めるという原告の主張は、東京地裁では認められましたが、この控訴審によって削除が認められなくなったということです。(これ以降、今回のツイートの削除請求に関する事件を便宜上「Twitter事件」といいます。)

実はこの問題、日本の「忘れられる権利」を考えるにあたって、示唆深い論点が含まれているため、頭の整理としてここに記しておこうと思います。
(なお、この内容については、月曜日のアベプラでもかいつまんでお話ししたので、よろしければご高覧ください。ただ、私の説明が拙いため、本記事を読んでいただいてからの方が理解は深まるかと存じます。)

「忘れられる権利」とは

 「忘れられる権利」とは、インターネット上で掲載・拡散された個人の情報について消去・削除することを求める権利などと言われます。たとえば個人の逮捕歴などのプライバシー情報がインターネット上で掲載されてしまうと、それが能動的に削除されない限りデジタル空間に残ってしまい、完全に消し去ることは極めて難しくなります(「デジタルタトゥー」とも呼ばれます)。これに対抗する概念として考えられているのが「忘れられる権利」です。
 しかし、「忘れられる権利」という言葉を冒頭から使っていますが、現在の日本ではこのような権利が確定的なものとして保護されているわけではありません。次に述べる平成29年最高裁決定では、このような権利を認めるという判断は下されませんでした。

「忘れられる権利」を巡る先進事例:平成29年最高裁決定

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 日本で「忘れられる権利」を主張して争われた事件で、最高裁が初めて判断を下したのは平成29年1月31日の最高裁決定(以下「平成29年最高裁決定」といい、この事件全体をTwitter事件への対比として、「Google事件」といいます)です。この事案の概要は上図のとおり、ある男性が、自分の過去の犯罪に関する情報がGoogle検索の結果に残ったままであることについて、「忘れられる権利」に基づく削除請求をしたというものです。

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 結論から言うと、一審のさいたま地方裁判所は、明確に「忘れられる権利」を認め、検索結果の削除を命じましたが、上図のとおり最高裁判所は「忘れられる権利」には一切言及せず、プライバシー権の侵害の有無を判断し、検索結果の削除を認めませんでした。つまり、Google事件では、「忘れられる権利」という新たな権利に関する判断を最高裁は避け、従来から確立されているプライバシー権侵害の有無の判断枠組みを利用して、決定を下したということになります。
 もっとも、さいたま地方裁判所と最高裁判所は、「忘れられる権利」という権利を認めるかどうかという点においてのみ判断が分かれていたわけではありません。むしろ注目すべきは、Googleという検索エンジンの性質をどのように解釈するかによって、削除請求に関する判断枠組みが両裁判所で大きく異なっており、そこに本質的な違いが生じていました。そして、今回取り上げる東京高等裁判所の逆転判決も、全く同じ構図になっていたため、この点を丁寧に整理したいと思います。

 Googleはこの事件で次のように述べ、一貫して、自らのサービスの公共性を主張しました。

「検索結果を削除することは、それが必ずしも違法ではない内容を含むウェブページに係る表現の自由や知る権利を著しく制限する結果を生じさせることに照らすと、検索サービスを提供する者への検索結果の削除請求が認められるのは、検索結果における表示内容が社会的相当性を逸脱することが明らかであって、検索結果に係る元サイトの管理者等に当該ウェブページに含まれる表現の削除を求めていては、削除請求者に回復し難い重大な損害が生じるなどの特段の事情がある場合に限られる」(強調筆者)

 つまり、Googleという検索サービスは国民の表現の自由や知る権利にとって重要なサービスであり、重大な例外を除いて削除は認めるべきではないと。

 それに対して、さいたま地裁の考えは以下のようなものでした。

「検索エンジンの公益的性質も十分斟酌すべきであるが、そのような検討を経てもなお受忍限度を超える権利侵害と判断される場合に限り、その検索結果を削除させることが、直ちに検索エンジンの公益的性質を損なわせるものとはいえない。検索結果の表示により他人の人格権が侵害され、それが検索エンジンの公益的性質を踏まえても受忍限度を超える権利侵害と判断される場合には、その情報が表示され続ける利益をもって保護すべき法的利益とはいえないからである。このような利益衡量をした上で、権利侵害への個別的な対応として権利侵害にあたる一部の検索結果のみを削除することは、それにより元サイトの情報発信者に対して何らの弁明の機会ないし手続的な保護を与えることなく検索エンジンからの削除を認めることになったとしても、その情報発信者の表現の自由ないし公開の情報流通の場に置かれる利益を著しく害するとはいえない」(強調筆者)

 つまり、さいたま地裁は、個人の人格権(忘れられる権利、あるいはプライバシー権等)と検索エンジンの公益的性質・情報が表示され続ける利益を平等な価値として比較し、どちらを保護すべきかを検討すべきであると考えたわけです(シンプルな図としては以下のようになります)。

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 これに対して、最高裁は、以下のようにGoogleの主張に近い判断を下しました。

Googleなどの検索エンジンは、「公衆が、インターネット上に情報を発信したり、インターネット上の膨大な量の情報の中から必要なものを入手したりすることを支援するものであり、現代社会においてインターネット上の情報流通の基盤として大きな役割を果たして」おり、「当該事実を公表されない法的利益と当該URL等情報を検索結果として提供する理由に関する諸事情を比較衡量して判断すべきもので、その結果、当該事実を公表されない法的利益が優越することが明らかな場合には、検索事業者に対し、当該URL等情報を検索結果から削除することを求めることができる」(強調筆者)

 ここはとても注意深く読まなくては違いに気が付かないかもしれません。重要なのは、「優越することが明らか」という部分です。さいたま地裁のように、双方の権利・利益を平等に比較し、どちらが優越するかを考えるのではなく、個人の人格権が、検索結果を表示する利益を明らかに優越している場合に限り削除すべきであるといったわけです。念のため、こちらも図示してみます。

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 しかしこの図だと違いがよくわからないと妹に指摘され、誤解を恐れずもう一つの説明をしてみようと思います。以下の図示はいかがでしょうか。

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 つまり、最高裁の判断基準でいくと、個人の人格権が、検索結果を表示すべき理由を、誰がどう考えても上回っている(これはさすがにもう検索結果から消してあげたほうがいいんじゃないか)と考えられる場合にのみ、削除されるというわけです。相当ハードルの高い基準であることがお分かりいただけたかと思いますが、その理由はGoogleが公共性の高い、「情報流通の基盤として大きな役割」を果たしているからです。

今回のTwitter事件について

 少々前置きが長くなってしまいましたが(そしてその理由はこの平成29年最高裁決定を前提としなければ今回のTwitter事件の本質的な理解ができないためなのですが)、先日、原告逆転敗訴となったあるツイートを巡る削除請求訴訟について、見ていきましょう。概要は以下のとおりです。

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 そして、結論から言いますと、第一審の東京地裁と第二審の東京高裁で、考慮すべきとした事実は全く同じでした(以下の通り)。というより、これは平成29年最高裁決定が考慮すべきとした事実をそのまま踏襲しています。

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 しかし、両者で大きく異なったのは、平成29年最高裁決定のときと同じく、どのように人格権と検索結果を表示すべき理由を比較衡量すべきかという判断基準です。

Twitter事件で東京地裁はどう考えたのか

 東京地裁は、以下のように、平成29年最高裁決定とは異なる判断基準を示しました。

「ツイッターに投稿された記事について、ある者の前科等に関する事実を摘示して、そのプライバシーを違法に侵害するとして被告(※Twitter)に対し削除を求めることができるのは、…当該事実を公表されない法的利益と本件各投稿記事の公表が継続される理由に関する諸事情を比較衡量して、当該事実を公表されない法的利益が優越する場合であると解するべきである」(注釈・強調筆者)

 平成29年最高裁決定がいう「明らかに優越」という文言ではなく、下図のように、等価的に(平等に)双方の利益・権利を比較衡量すべきであると言っていることがわかります。

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 しかし、なぜ東京地裁は、Google事件の平成29年最高裁と異なる判断基準を用いたのでしょうか。前科等に関する事実摘示のプライバシー侵害の有無を判断する事件であることは同じだったわけです。

 それは、TwitterとGoogleというサービスの捉え方の違いにありました。Google事件で平成29年最高裁は、Googleという検索サービスについて、「情報流通の基盤」であり、国民の知る権利に資する公共性の高い事業であることを述べていました。それに対して、Twitter事件の東京地裁は次のように述べています。

「ツイッターの利用者が多数に及ぶことから、ツイッターへの投稿又はその閲覧が情報の発信又は取得のための簡易な手段として多数の者に利用されていることは認められるものの、ツイッター自体はインターネット上のウェブサイトの一つに過ぎず、これが、グーグル等の検索事業者による検索結果の提供のように、インターネットを利用する者にとって必要不可欠な情報流通の基盤となっているとまではいえない」(強調筆者)

 簡単に言えば、Twitterはたしかにサービス利用者も多いが、Googleほど情報流通の基盤を担うサービスとは言えないため、国民の表現の自由や知る権利の保護のために特別視するほどのサービスではなく、前科を持つ人の人格権(プライバシー権)とツイートを継続的に表示する利益は、対等な関係として平等に比較しましょうとしたわけです。その結果、今回のTwitter事件では逮捕歴等を表示するツイートについて削除を認める判決が東京地裁で出されていました。

Twitter事件で東京高裁はどう考えたのか

 東京地裁がこのように判断したのに対して、東京高裁はやはり平成29年最高裁決定と同じ基準を用い、原告逆転敗訴の判決を言い渡しました。

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 なぜ東京地裁と異なる判断基準を用い、平成29年最高裁決定の判断基準を採用したのか。それは言うまでもなく、TwitterとGoogleのサービスの捉え方に理由があります。東京高裁は、Twitterというサービスについて、次のように述べました。

「全世界におけるツイッターへの月間アクセス数は約39億回(平成29年6月当時)であって、全世界で6番目にアクセス数が多いウェブサイトである。一般の私人のほか、米国の現職大統領をはじめとして、各界の著名人、官公庁、民間企業も、ツイッターを利用して情報発信を行い、これを受信する者も非常に多数にのぼる。ツイッターには検索機能が付加されており、利用者が検索ワードを入力すると、投稿記事中からこれに対応するものが検索結果として表示される。この検索機能は、公衆がツイッター上の膨大な量の投稿記事の中から必要なものを入手することを支援し、ひいては投稿者による投稿行為の情報発信力も高めるものである。そうすると、ツイッターは、その検索機能と併せて、現代社会においてインターネット上の情報流通の基盤として大きな役割を果たしているということができる」(強調筆者)

 つまり、TwitterはGoogleと同じくこの現代社会における情報流通の基盤であり、表現の自由や知る権利に多大な貢献を果たすサービスであるからこそ、Twitter上からツイートを削除するのは、プライバシー権等の人格権が明らかに優越する場合に限定すべきであると判断したわけです。

 以上がTwitter事件でなぜ東京高裁と東京地裁で判断が分かれたのかの説明です。Twitter事件だけに着目するのではなく、わが国で初めて「忘れられる権利」が争われたGoogle事件を理解することで、その本質的な論点が明らかになってくるかと思います。

 この裁判は、TwitterはGoogleとどう異なるのか、あるいはどう重なるのかという重要な問いを社会に投げかけました。そして、より根本的には、GoogleやTwitterへの特別扱いはどう正当化されるのかという議論がなされるべきです。従来の出版物(雑誌や書籍等)や一般のウェブサイト記事を巡るプライバシー権侵害の争いでは、「プライバシーの保護」(事実を公表されない法的利益)と「表現の自由/知る権利」(事実を公表すべき理由)を等価的に(平等に)比較する判断基準が用いられていたにもかかわらず、なぜGoogleやTwitterという「情報流通の基盤」サービスにおいては後者を優先することが前提とされ、「明らかに」前者が後者を上回るという極めて高いハードルをクリアしない限りには削除が認められないのか。「情報流通の基盤」という意味では、FacebookやInstagram、Yahoo!といったサービスも同じように削除のハードルが高まるのか国民の知る権利や表現の自由といった言葉を盾に、プラットフォーマーがあぐらをかく懸念はないのか。「忘れられる権利」を巡る戦いはまだ始まったばかりです。

参照:
・「第108号 最高裁は「忘れられる権利」を否定したのか~~最高裁平成29年1月31日決定~」(中央大学法科大学院佐藤信行教授)
・「逮捕歴ツイート、削除命じる 裁判所が示した「ツイッター」と「グーグル」の違い」(弁護士ドットコムニュース)
・「逮捕歴ツイート、削除認められず 男性が逆転敗訴 東京高裁」(弁護士ドットコムニュース)

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結城東輝(とんふぃ)
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