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目覚め 1


 夜っぴいて酷い降りが続いていると耳をそばだてたまま眠っているような心地がしていたが、目覚めてみれば窓の外では屈託ない太陽の光が隣家の庭先に割いた薔薇をあかあかと切り抜いて、静まりかえっていた。雨が止んだとあればその隙に、このところのぐずりがちな天候のために黴のにおいがつきはじめた洗濯物をやり直して部屋の濁りかけた空気も換えた方が良い、と、毎年毎年梅雨の晴れ間に行きあうたび繰り返してきた一仕事のことを頭では考えながら、また実際、ここ数日中に洗い物が台所の片隅と布団の足元、それぞれの場所に小さな薄汚れた山を築き始めているのを横目で捉え、その片づけの算段さえ立てながら気分はまだ締まりなく崩れかけたかと思えば、苦しげに雨をせき止められて久しかった曇り空に閉じこめられたままでいるようで、半身を起こしたキリ手足はだらりと落ちきってぴくりとも動かず、無遠慮に人の家の花を見つめるまなざしは辺りの静まりこそを訝って何度もまばたいた。人の背丈をゆうに超える高さの鼠色のブロック塀の上から、ぽつねんと、項垂れるようにして顔を出している一凛は驚くほどに鮮やかだ。深い奥行きを幾枚もの紅色の花弁で覆い隠している姿は、この長雨のあいだに渾々と蓄えた生命力の全てを今日一日のうちに出し尽くそうともしているようで、既に開ききった外側の何枚かを腐敗の色に縁取らせながら、一身に朝日を弾ねかえす。そうして枕元の電子時計が鳴らすけたたましいアラームが四度はやり過ごされ、遠くアパートの住人たちが建てつけの悪い戸を力づくで閉める響きや、幅の狭い道路をバイクや自動車が慎重に抜けていく低い唸りが聞き分けられるようになるまで眺めつづけられた紅色は、やっとのことで持ち上げた、一七〇センチメートル程の背丈に薄い脂肪をあちこちに貼りつけた体が起き抜けの放尿を済ませ、洗面台に屈みこんでねばりつく口内と顔面とを濯いで青く茂りだした髭を剃り落としてもまだ、醒めたはずの瞼の裏に熾火となってちらつくらしかったが、それもコンセントを入れた湯沸かし器の天頂から頼りなげに吹き出す湯気が、油に汚れた換気口に吸い込まれる頃にはきれいに無くなった。代わりに本物の炎がコンロと油をひいたフライパンとのあいだで青く、音もなく燃えあがった。
 卵を二玉とハムをひとまとめに焼き、その合間にトースターに入れていた二枚の食パンを引き取り、一本で一日の必要量の半分がまかなえるとかいう野菜ジュースの更に半量を硝子のコップへ注いで、浅い青色に塗られたマグには沸きあがったばかりの熱湯で粉珈琲を溶けば、午前一杯をしのぐための朝食が、北向きの窓から入りこむ明かりのなかに、不安げな輪郭をあらわす。昼夜はともかく、寝覚めの一食を欠かせば仕事のままならない体だった。その向こうで、習い癖で点ける、テレビニュースのキャスターはこの快晴が一日限りのものであることを歯切れよく告げ、画面上には青傘のマークも踊るが、今から洗濯機を回すだけの時間は残されていないらしいので仕方なしに座卓に腰を下ろして、乏しい味付けの飯を口に運ぶのも何年となく繰りかえしている景色だ。そうして少しずつ男盛りの峠へ差し掛かっているはずの身体とは裏腹に、何十年もこの部屋の空気を呼吸した挙句、ついに老いの入り口に立ったような徒労感が、ものを食らう時の恍惚とざわめきたつような意識にほの白く差すことも度々あった。年の割には落ち着いていると周りには評される。しかしその落ち着きが、実のところ自分自身の拭いきれない小児臭さを庇うための殻ではないか、などとろくろく頭も冴えないうちから、矛盾含みのもの思いに耽り、もぐもぐと口を動かしている姿こそ殊更に年甲斐もない、浅ましいものではないか。
 そこまで考えが行きつくと食事そのものも急につらくなったが、とはいえさしたる量も彩りもなく、マグカップのあからさまな化学塗料らしい青がやたらに際立っていた食膳は息を詰めるのにも似た心持で、このところ心なし筋張るようになった手先を動かせば、あっけなく空になった。画面はニュースから朝の連続ドラマに推移し、何かを期待しているかのような逼迫をふっくらと包みこむ声が、次から次へ、交わされるのにふと追い立てられながら、隅々に水垢の凝るシンクに、食べ滓のついた食器類を放り込むところまで片付けて、さあ働きに出かけようとテレビの電源を落とした途端、出所の知れない軽さに五体は運ばれだしている。気が付けば着古しのシャツと背広で、しかめつらしく角張った骨肉をくるんだ男の姿が、玄関口にぼおっと立ち尽くしている。
 表はやはり静かで、切れぎれにしか覗けぬ青天を取り囲む雲も、空の比較的高いところをゆっくりと移動しているようで、今日限りは確かにその釣り合いは保たれているという予感は、水気の枯れかけた微風や、淡い緑の輝きを幾筋も宙へと伸べる道端の草にも漲り、その中を黒々光るアスファルトの舗装路を辿って抜けていく肩口が自然と強張るのは、ここしばらくは外に出るたび、広げた傘で背広と鞄とを庇うような、どこか後ろめたそうな歩き方ばかりしていた名残らしかった。人より遅めに家を出るせいで、通勤者よりよほど多くすれ違う、近くの小学校の生徒たちが通学がてらに戯れあう声も心なし、いつもより数段甲高く響いて、遠い環状線から、海鳴りのように低く押し寄せる車の音も、さえぎられずに住宅街を覆い、ところどころの植えこみからぬっと道に突き出た紫陽花の、丁度今が盛りの萼の花の塊ばかりが、所在なげに顔を背けているかのようだった。それが徐々に幅を広げ、人影を増し、朝な夕な自動車の走行の絶えない大通りへと流れこんでいく最寄り駅までの道のりに、何度も何度も現れる。
 これ以上、君に頼るのも、申し訳なくてね。自らに非があるような口ぶりで、その実、此方の侵略から身を守ろうとしてか、憎しみさえ既に脱ぎ捨て、硬い鉱物の沈黙ばかりを前面に映し出した青いような黒いような、色ももう定かには思い出せない瞳に背筋を震わせ、気圧されるがままに別れを了承した昔の恋人が最後にどういう心算なのか頭を深々と下げた時の、垂れ落ちるがままにした長い黒髪のすだれの向こうに表情の気配も、息づかいさえも隠しこんだ姿が唐突に甦りかけて、風雨に目鼻立ちを削られた道端の石地蔵に似ていなくもないなと思ううち、雨上がりの光線をまともに受けた、辺りの満遍のない明るさに打ち負かされてかすごすごと退いていったあとも、ざわざわとした異物感が跡を引いた。大学時代の相手の一人だった。
 それで自分は恋愛事に相応しい人間でないのかもしれないという薄い疑いがつのりだした。尚も二人、三人と間も空けずに近づきかけては、寸でのところで離れてを繰り返してメール、ライン電話、夜の道端、異なった別れの場面のどれもに同じように息を殺し、此方を窺おうとするまなざしも戒め、頑是なく振りかぶりかける頭(こうべ)を必死に留めて地面にすりつける拒絶の姿が付いて回っていたと気づいてからは、色恋自体への熱も冷めたと思った。だがそうして自分の傍を通りすがっていく人という人のすべてを、冴えざえとした輪郭のみを青い遠景に浮かべた山並みのように眺めだした心に、行き場をなくした情欲はかえって濃く煮詰まって、体からはよりあからさまな男の匂いを昇らせていたのだろう。
 新卒として職に就き二月が経つ頃、色恋から離れた付き合いが続いていた二人の女のあいだで、いつのまにか若い男は争いの種になっていた。面識さえ持たない二人は始めは男の些細な目つきや仕種に深い注意を傾けては無言のうちに様々の思いをこらえているようだったが、その年の梅雨の中でも、南洋の台風の影響もあって特に酷い降りが朝晩と続いたある日、一方が飲み屋に置き忘れたライターを男が預かった時からはっきりと、女たちは男の顔かたち、指をいじる癖、繕う服の僅かなよれ、においの向こうから透けるらしい別の女たちの肌合いを同じ肌で感じ取っては嫌がって、男の不実を責めるとも縋るともつかない、弦の爪弾きのような声音で言い立てるようになった。
 二人の嫉妬が激しさを増して、ともすれば男の細かな私生活まで険を帯びた目線が探ろうとするにつれて男は自分を空虚な存在と思うようになっていった。二人の女は男の心身を取りあっているように見せながら、男の向こうから気配をにおわせる恋敵を捻じ伏せることにこそやっきになっているようで、その相手ももはや現在、男の傍に姿を現している二人ばかりに留まらない。過去に恋仲だったもの、そう呼び得たかも分からないものたち、中学時代のままごとまがいの相手にさっき道で肩が擦れたことを詫びた相手、そして女家族。無数の女たちがあなたの体には棲みついている、まるで亡霊のように、と、酔って呂律の回らなくなった舌で呟きながら水嶋は鳥肌の立つ生白い腕で男の首根をとらえて、温く酒臭い唇を押しつけてきた。全身をくったりと男の腕に預けながら、雨上がりの夜の闇を透かすように照らしている月明りに、力を込めて見開かれた瞳が青く、艶めかしく光っている。公園の植えこみの影に身を隠すようにして求めに応じ、口付けを交わし合っているうちにその眼の光のすぐ傍ら、水嶋の体から離れた足元に、既に時期に過ぎ去られて貧しく萼花をしぼませて、撓む茎に広い葉を恨めしげに茂らせている紫陽花が風もないのに右に左に、緩やかに揺らめくようなのに男の意識は次第次第に奪われていった。出勤のたび、通学のたび、最寄り駅の沿線に植わっているので列車を待ちながらプラットフォームから見下ろしていた、それと同じ景色にふと許されたような気持ちになって堂上はより深く女の口内に入りこんでいく。それでいて細いくびれを委ねられるがままに抱きかえす掌は、相手にのめりこもうとする堂上自身を戒めるように緊張を漲らせ、冷や汗さえにじませるのが、舌先のぬくい感触よりもより深い覚えとして体に残される。後ろ暗さから抱き竦めようとして、初めて三角関係の一方の角に立つ女は腰元を捩らせ、堂上を見つめる目の光はそのままに、逃れようとした。
 やはり貴方は憎んでいる、ああ、そこが恨めしい。けれど愛おしい。
とうとう男を力任せに突き飛ばした二本のむき出しの腕を正面に掲げたまま、きれぎれの息の下から女は喘ぐように叫んで、さしたる抵抗もせずに二、三歩よろめき離れ、何を苦しんでいるのか分からないという表情を隠しもしない男に、放心しきって瞬きも忘れているまなざしを茫洋と降り注いでいた。その更に奥から、いとけない少女の血を失ったような顔立ちが、ぽっかりと街灯が一つしかない公園の暗がりに浮かびあがってきたが、水嶋の顔ではないらしい。
 雨水を存分に吸いこんでふくよかな土からは、甘いとも饐えているともつかないにおいが少しずつ湿度の抜けていく空気の中に広がりはじめていて、ふと近くの公衆便所から 不浄の臭気が流れ、鼻孔を刺激しても二人はそのままでいる。黙りこくった間のあいだいに夜の蝉の、濡れたよう鳴き声が苦しげに落ちてきて、蝉だなあ、と調子外れに堂上がぼやいても、まだ男の体は突き飛ばされた直後の半ば後ろにかしいでいる格好で、水嶋は水平を保つ両腕の緊張を解かずに、あたかも堂上でない誰かが応えるのを待ち詫びている。あらんかぎりの生命力を虚ろな体内へ漲らせて大自然へ訴えかけようとする、そうして果てのない大自然を肥えに肥えた音声(おんじょう)でもって犯しながら、自らもその昏い懐に沈み込んでいく、いや産まれながら既に埋められて、消え去った叫びの後の、余韻と予兆に張りつめた寂黙ばかりが次の世代の生命に受け渡されていく。そしてまたこの年こそが然るべき時であるものたちが、雨の気配と共に地表へと這い出て、先祖代々に分かち与えられた寂黙の舞台へ向けて目一杯の声をのべつまくなしに吐きまくる、オスの蝉たちの、秋にほど近くなって息も絶え絶えな姿を束の間思い浮かべて、それから人々に振り向かれもしないで、喚声に打ちすえられるがままに木影を伝ってゆくメスの蝉たちの、産卵に至る暗い道行きのことをも思う。この瞬間にもどこかの木には白い楕円形の卵が一つずつ丁寧に産みつけられていって、形になるより以前の命は怯えに身を震わせることもない。気配はなくとも、繁華街の隣にぽかりと口をひらいた公園の片隅の木でもそれは起きているのかもしれなかった。そうして無数の年月をかけて産み、産ませ、産まれを繰り返した挙句がこの情けないように尻窄んでいきながら、止め時も失ったオスの一声だった。長々と、寝支度をする人たちの耳にも入れず、宙を漂い、ついに力尽きて、未練がましげに二度咳き込んだっきり、静まりかえる。
 止んだのね、と唸るように呟いて、差し伸べた腕をゆっくりと自分の体に引きつける水嶋の俯きかけた額の下からようやく、小さな二つの瞳が堂上の顔をまともに捉えて、これがファーストキスだった。淡く、今にも闇に滲みだしそうな己が身をしっかりと抱きしめて、此方を振り仰ぐ恥ずかしげな笑みが、男を疎むしかめ面にも見えそうだった。とてもじゃないが信じられない、上手だった。本当なの、信じてちょうだい。信じてと言われたら、そりゃ信じるしかないけれど、君はそれで良いのか。何が。君の初めての相手が俺ということになって……。
 堂上は女のか細く縮こまった肩口を左腕に庇うようにして、表通りの賑わいが忍び込む路地裏を歩いて行き、息を合わせているつもりでも、気づけばローファーを履いた足先をもつれさせ、二歩、三歩と引きずられるがまま焦げ茶色の革に引っかき傷をつけていく女に、その度男は酔いに濁ってふとましい声で呼びかけ、女は酒くさい呻きをあげている。表通りをまっすぐ遡った先の駅まで送っていくだけのつもりが、店々の看板やネオンが無尽蔵に光を放って夜を押しかえし、ひっきりなしに喚声が飛ぶ広い道に入ろうとするたびに酔っ払いが嫌がるのでずるずると行ったり来たりをしているうちに、住宅街との境にあたるらしい小さな公園へと迷い込んで、ベンチに座りこんだのがつい二十分程前のことだった。そこで一気に疲れと酔いが回って動けなくなった堂上とは逆に、人目の無い気ままさ中でのびのびとした表情を現し、歩けなくなるほどの酔いも忘れたように透けるほどに白い丸襟のシャツで包んだ半身をすっきりと起こして自販機へ水を買いに行き、だらりと汗を垂らす堂上の額を薄手のハンカチで拭い、ベンチからずり落ちかけた鞄を置き直しさえする水嶋がその甲斐甲斐しい働きの合間に潤んだ声音で、知り合ったばかりのゼミの同輩同士でしかなかった頃から堂上を思っていたと語りかけるのがますます堂上を夢心地へと追いやって、十メートルも離れたところに立つ街灯の温みが自分の掌から零れているような、感覚の揺らめきの傍らで一人の女に口説きかけながら、とうに水嶋の生活の一角にふてぶてしく居座ってものも思わぬ目線を投げかける青くさい若僧の姿になりかかる。例えば一人で御飯を食べる時、と既にそれが来る邦楽も危うくなった声が歌いかければ、大学進学を機に始めた一人暮らしのために買った安い折り畳み式の座卓の、今日に至るまで食器を並べ続けている白い天板の塗料の照り返しがぼんやりと瞼の裏に現れて、肉じゃが、残りものの野菜を片端から煮こんだコンソメスープ、オムレツ、リゾット、冷凍餃子、コンビニで買うサラダチキン、また出来合いの親子丼、そういった自分ひとりを支えるための手抜き気味の食卓をあつらえる、長くはない仕事のあいださえ沸き立つ湯の底、包丁を濡れたまな板を叩く音の切れ目、コンロに火が入る瞬間の瞠目に、これが他の人間の口に飲み込まれる質感がまざまざと迫ってくる。甘やかな野菜類の匂いが塩気の奥に膨らむのを味わい滑らかに肉を伝わせる喉元が、この喉元ではないと感じられるとき、私の一人暮らしに寄り添っていたのはあなただった、当時は誰とも知れない、酷く曇った昼日中の足元にわだかまる影のような、朧な予感でしかなかったけれど、今思い出せば、影はもうあなたの顔かたちをつくって微笑みかけていた。丁度正体を失くしているあなたの眉間にこもる力が、だらしなく開いた薄い唇の両端をほのかに吊り上げているのとそっくり同じ顔をして、時々閉じかけた瞼の下からちらりと潤んだ光ともつかないものが覗いて、裸形の生活が眺められるがままになるのを防ごうという気にもならない。そもそもがこの肉体に取り付くようにして出現した幻のまなざしなので、苦笑ひとつ零してやり過ごすほかにすべもない。恥じらいも憎しみもなべて晒させられて、自分の在り処、五体の感触や、自分の手で配置したはずの机や書棚や箪笥などの部屋の家具の微妙な間合いがふと掴みづらくなり、生まれも育ちも同じ町の角に立てば、辺りの建て物や色とりどりの看板が一斉に見ず知らずの他人の面相を剥き出すのに怯じた心がひとりでに余所へとさ迷い出ようとするのをこらえながら、息ばかりが遠い、夜が明けるごとに真っ先に白く染まる地平から、細い一筋の糸を手繰って、一瞬の健やかさを胸に広げては、否応もなく吐き出しつづけている。そのあいだに月のものも何度となく過ぎた。と、不意にくっきりと見開かれた両目に応えるように男の意識も酔いの淵から引き上げられて、ベンチからやや外側を向いて突き出た左右の膝頭に辛うじて触れ合わない距離に、一回りほど小さな膝頭が内側へとひそまるように閉じて、此方の眼を覗き込もうと中腰に折れた女の体を窮屈げに支えている」、あなたを愛しているのはあなたがそのすべてを許していると思ったから、けれどあなたは一体何人の体を、同じように眺めてきたのかしら。
 淡々と呟かれる水嶋の言葉をまどろみの濃く淀んだ頭はただ疎ましがって、とどめさせようと、中空にものを食うよりもはしたないような動きで蠢いている一対の紅色の唇へ此方の口を寄せれば、その分だけ女はのけぞる。喉の奥から欠伸とも威嚇ともつかない呻きが込み上げるのを噛み殺しながら重い腰を上げ、酔いしれて肩を預けた拍子に撚れてしまった丸襟で、弱々しい首を包む姿がまっすぐに立ち上がり、胸を少し反らして男に対するのを見下ろす形になっても、仰向けた面は静かな陰影を公園の薄い灯りの中に浮かべるばかりで男が近付けば、微かに砂を踏む音を足元から響かせて、また同じ分だけ遠ざかる。
 腕一本、一尺の距離の内側で水嶋は黙りこくって、小さく引き結ばれた上唇に沿う、柔らかな皮膚の盛りあがりを産毛が淡く覆っていた。鼻柱が細く張り出して、細かな光をその峰に集めながら片一方の頬を暗く沈みこませ、流体の形に切りひらかれた二つの瞳は薄い瞼の下で、海原を時も忘れたように進んでいく小さな舟の帆のように、寄る辺を失くしかけた体を支えている。支えながらそれ自体も茫洋たる中空に境を失いかけて、男に見つめられるのをひたすらに童女のように見つめかえしてようやく外界に釣り合いを取ることができている、抱いてやらなければならぬ体だ。だがこの釣り合いを破り、女の体へと踏み入ったときに尚もあまりに閉じ切った水嶋の神経を支えていられるのは、堂上ではないのだろうという無力感が、やがて膝頭から足のつけ根へ、また踝へと澄んだ気怠さを広げて自分は果たしてまだ両足を地に下ろして立っているのか、それとも既に厄介な荷を不夜城の盲点のような公園の暗鬱な湿り気の中に置き捨て、気ままな酔漢の足取りを、戸外にまで寝息が張りつめる宅地の静かさに忍ばせているのかも分からない。ものも言わぬ面(おもて)に見つめられながらいつしかその浮遊感を支えるためだけに、酔漢のふとましい体躯は右へ左へ、風もないのに、役を終えてあとは枯れ落ちるばかりとなった花弁のように揺らめいてさえいたかもしれない。何に困らされてか、吐息ばかりのやる方なさげな女の笑いが水嶋の喉元から膨らんで、それから寒々しい冬枝に似た腕が向こうから伸び、宙に結びつけられたまなざしの儚いような釣り合いは慎重に保ったまま、ぎこちなげな肘の折り曲げの内へ、堂上を招き入れた。甘いというには些か尖った、どこか金物くささを含む体臭が骨ばった男の肉体を包みこむのを受け入れながら、水嶋が布地を持ちあげる骨の形をなぞり、そこに棲みつく女たちを夢現に数えあげているあいだ、男はまたこの女をもの(、、)にして、子種を孕ませることを薄ぼんやりした、我のものともつかない空ろな頭で考えあぐねている。
 紫陽花は細々と土を剥き出しにした、私鉄の沿線にも装飾花を垂らしていた。繋ぎ合わされた八つの各駅停車の箱が、電線にパンタグラフを押しつけながら軽快に速度を上げていけば、赤と青の色の重怠い連なりも飛ぶように耐久硝子の窓の外を走っていく。新年度の慌ただしさを越え、その反動で気の塞ぎやすい、新緑のさわぐような季節も過ぎて、次第次第に眩しさを増していく日差しとは裏腹に下っていく天候がとうとう見る目も、聞く耳も覆いつくす雨の足もとへと人を追いやるその末に、もやの中から、柔らかな色彩を織りこんだ花弁を水滴で飾り、ひと際鮮やかに輝かせている紫陽花が立ちあらわれるのに出会うごとに花見よりも、除夜の鐘よりも一年の巡りは生々しい梅雨のにおいと共に身にのしかかる。だが、それが雲の途切れた向こうの高い空から、限りなく日射を注がれつづけて嵩をしぼませ、悪天に抑えつけられていた彩りを一挙に爆発させる辺りの景色の背後へ、淡く退いていこうとするのを目にするのも、己こそ辺りとの繋がりを断たれて自然の力に押し流されるがままの生きものと化してしまったかのような妙なひだるさを覚えさせて、吊り革に掛けた左手の指の内側が汗ばむにつれて膝下から後ろ暗いような肌寒さが這いのぼり、列車の震えとの釣り合いを保とうとする腰の揺らめきが、軸を外して大きくぶれ始め、直立したままの不自然な眠りへと意識が押しこめられる、その間際にいつかと同じ若い女の、力ない笑いが切れ切れに耳を掠める、ような気がする。
 ふと腫れぼったく感じられる瞼をこじ開ければ、褪せたモスグリーンのカーディガンを羽織り、痩せこけた体を丸く縮こまらせて堅く目を瞑っている正面の座席の老婆の二つ左隣に、三人連れの、まだ中学生とおぼしき制服姿の少女たちが肩を寄せ合って腰掛け、そこそこに混み合う列車の澱みきった熱気の中に、周囲を憚りながらも楽しげな、むしろそうして包みこむべき恥もないのに、人を憚ること自体に無性な楽しみを掻きたてられているような囁きをほんのりと広げては車両の駆動音に満たされた静けさの中に引っ込み、時折ぱっと花火が散るように笑いが上がって声が消えた後も、まだセーラーの白い袖口に隠れた細い肩口が小刻みに動いている。一人一人の顔立ちは一つ手前の席にやはりむっつりと目を瞑り、赤らんだ顔の皺まで不機嫌に硬直させている、恰幅の良い中年男の背広にさえぎられて見定めようもないのに、そこにひょっとすると良く知り合った女の面影が紛れていはしまいかという奇妙な訝りが、再び瞼を落としただけの、耳と肌の感覚を明らかに残すまどろみにしつこく付きまとうが、それも反復を重ねれば、訝り自体がひとつの眠りを導く空虚な容れ物になって、どの少女らも懐かしみを帯びるか、帯びないかの微妙な境に漂いだしながら、朗らかに相好を崩しだす。そのような眠りに落ちるのは自分一人ばかりのことではない。少女らのすぐ隣で、寝入ってなおしゃちほこばった肩口で一人分以上を左右に陣取る中年男にせよ、ふくらはぎの半ばまで垂れた黒地のスカートのほかには、細腕も喉元も頬も枯れゆくがままにして、性差も失せていく姿をぴくりとも動かさずに、狭い座面に据えつけている老人にせよ閉じきることのできない耳の奥には既に少女たちのかしまし笑い声が触れていて、列車の轟音共々、自身さえ知らない眠りの底で、タガを与えられることもなく溢れ猛っている記憶という記憶の奔流に掻き消されては、自身からも忘れられていた他の記憶と交わって、キメラのような像をまどろみの端に結びかけては今度は電車のひっきりなしの轟きとざわめきに、押し流される。そうして見ず知らずの、産まれさえもしらない女たち、恋人たちの、ありもしない死面を朝ごと夕ごとに見送っている。水嶋の鬼気迫って目を剥く顔差しも朧に混じって、ゴトンゴトン、ドン、といういうような、車輪が枕木を、鉄線の切り替えを打つ拍子に合わせ、長い息を吐き、ひょいとおかしげに眉を吊りあげたような印象を残して失われていく。かと思うと蘇り、打って変わってけたたましい笑いに咽せさえしながら、うっすらと開いた黒い瞳は片時たりとも男から背けようとしない憤怒の相が、ふつりと流れ込む音の絶えた一瞬間に写真のように焼きつく。水嶋でなければ左斜め前の男の女かもしれないし、母や娘でもあるかもしれない。あるいは皺に埋められた老婆の若やいだ頃の名残か、己自身の母や、祖母でもあるか。あるいは堂上の、まだ男にもなりかねた丸い輪郭が、今にも泣きだそうとくしゃくしゃに凋みだす寸前の、自らを外へと投げ出しきった、白いような虚脱の表情でもあるか。
 いや、やはり水嶋だ。水嶋一人であってくれなければ、この情欲はどう落とし前をつけてくれる……。
 不意に湧いた怒りに浅い居眠りの上澄みを真っ赤に染めあげられ、目を勢いよく開いたところで、目的の一つ前の駅の名を告げるアナウンスに耳を打たれて、紫外線を弾くためかやや緑がかって見える窓硝子の外の、プラットホームの日陰を水嶋ではない女子中学生たちの、紺のスカートのプリーツがひらひらと音もなく滑っていく。日焼けの跡もない頬の照り輝きが一歩ごとに僅かに上下している景色を残して、三つの空席を抱いた列車は何度目かの出立に全身の機械を唸らせている。
 植え込みはおろか、雑草が敷石の隙間に根を下ろすのさえ稀な架線を、いつの間にか、眠気に閉ざされた列車は控えがちの速度で駆け抜けていて、車窓はところ狭しと並ぶビルや住居の四角や三角や台形の屋根屋根の一面ばかりを濡れた光の中に差し出し、視界の途切れかかるところで雲の灰がかった下腹(したばら)と溶けあう様が、揺らめく体の芯に、澄んだ腫瘍となって居着いた、夢の名残の内側にまで流れ込む。不安定に傾ぎつづける床を、革靴を履いた足の底でしっかりととらえ、穏やかに胴体を揺すぶって機械の不随意な運動に応えている通勤途中の男の姿が、日の舌の硝子にも辛うじて映されているのに今更ながら気がつくのが無性に滑稽なことに思われて、こみあげる衝動に身を屈めれば当然のように、鏡の中の姿も苦しげに折れ曲がる。それが男を招くとも拒むともつかない水嶋の恰好にも似かよって、「山口。」堂上はとうとう水嶋ではない女の名前を、昼の列車の真っ只中で淫靡なもののように口ずさんでいた。

後半> https://note.mu/tonatsu/n/n964d20dbdb02

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