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目覚め 2

 前半> https://note.mu/tonatsu/n/na0b4d80fafae

 山口は水嶋と憎みあった、堂上よりも年嵩の女である。世間の人並みとは外れた自らの気質を守るために大学院へ逃げ込んだ節のある水嶋とは似ようもなく社交好きで、学内の新聞サークルで幹事を務めている折から発揮してきた手腕を、今ではどこぞの大企業でも存分に振るっているというが、その具体的な活躍を堂上は直接に知っているわけではない。入学したての浮足立っていた時期に二月ほど顔を出していた、堂上の性格に合いもしないそのサークルを丁度取り仕切っていたのが山口で、何度かの飲み会で、肩を並べさえすればおのずと杯の傾け方に先輩連とコールを飛ばし合う間合い、堂上には面白いのかも分からない雑な講談に向かって、まるで深い辞儀でもするように上体を沈めて、陽気を極めてかえって色も情も表れぬ、若い音声(おんじょう)を安い飲み屋の天井に張り出たパイプや、くすむ電灯へと吹きあげる作法まで心得たかのような新入生らの陣中にあって、早くも取り残され、陰気な顔つきを周囲の目に立たぬようひそませているのをそれこそ目敏く見つけだし、勺をするついでとばかりに二言三言、会話の穂を継いでいく。そうして堂上が隣りあう学生たち当たり障りのないこれまでの身上を話し出す頃には女子学生らの輪の一隅で快活に笑いこけて、此方を窺う様子など微塵も示さない。その背が丸まったのをちらりと見やった先輩の男子が急に真剣さを装って、あの女には気を付けろよ、つらは良いが、先日ウッカリ近頃は女子生徒や職員がすぐ口ごたえするのでやりにくい、などと口を滑らせた教授をコテンパンに言い負かせたばっかりの鬼婆だ。どう返したものか、黙りこくる新入りの男どもをぐるりと睨めまわし、おまえたちもこれで△△大学新聞部タコ部屋班の晴れて仲間入りというわけだ、おめでとう……と、皆まで言うより早く、野田君たちがちゃんと期日を守って会計報告を出せば済む話でしょ。澄んだ声が横面を叩く勢いで飛んできて、そうだそうだと聞き耳を立てていたらしい他の女衆も口々に野次りだし、実のところ馴れたやりとりらしく、わざとらしく頭を下げ、言いつのる男を楽しげに詰る女たちの瞳は生白んでいて、とうの山口はといえばとっくに関心をなくしたらしく、今度は上級生らの輪の一角で何やら大真面目に頷いている。
 その野田が卒業の間際に山口に交際を申し入れて玉砕したという噂を、二年後に堂上は新聞部に残した知人らに聞かされた。丁度同じゼミに参加するようになっていた水嶋とは授業時間中ばかり闊達に話し、堂上は付き合いだしてようやく一年目の相手に特に集中していた時期だったので、ジーパンのだぶつきに強調された水嶋の貧相な体つきも、山口の学生らしからぬ沈着ぶりを支えている丸い腰回りを、滑らかなスカートで覆った居住まいも決して若い男の意識を誘うことはない、はずだった。
 私鉄の終点からJRの上り線へ、通勤ラッシュはやや過ぎた時間帯とはいえ、改札から改札にかけては一定の人の流れができていて、山口に似た、仕事を持つ女たちのひらめかすスカートはその中で揉まれているとも、むしろヒールに戒められているにしては大股の歩みで人波を先導しているとも思われて、水嶋らしい女の影は見当たらない、その隙間を定まらぬ足腰にくたびれた背広を纏わせて、ひょこひょこと一歩ごとに肩を人に預けるばかりに傾けては寸でのところで持ち上げて、次の一歩への推進力にする若い男の俯きがちの頬にふと爛れたような赤みが差して、さてこれは元より老人であったか、齢二十八にしてとうに身の寄せどころも忘れ呆けて、人中(じんちゅう)のまにまに独りきりの徒労を惚れ惚れと広げながら踏んださきから足跡は消える。白磁のタイル、雨上がりの泥濘、草いきれの被さるアスファルトに酒さえ呑めなくなった体臭の甘酸っぱさは居着いて、あちらは姥捨て山におのずと疎ましげなる目つきは剥かれて、だがこれもみなし児として産まれついたものの因果か、憎むなら己の生まれこそをば憎め、人はみなあのような山の深い懐からやってきた……、と、吐き紡ぐ息に雨か、雪か、天から降る水の気配が静かに滲んで、ついとこちらを向いた眦の険しさも、ひたひたと足元から昇る音も雑踏に、発車ベルの響きに徐に紛れて、遠のいていく。
 それでも堂上の汗ばんだ体には、天気予報を裏切り、暮れ方に天気は崩れるだろうという予感はくっきりと刻みつけられていた。山口とのことの後にも似たような体感があったと思う。窓の外から入る一筋の光の線が次第に室内の簡素な調度の奥にまで膨らんで、一瞬の後にまた灯りを落としたままの暗さにほどけていく度に、緩やかなシーツの溝を押し潰している淡い橙色のブラジャーの留め金が鈍い反射を繰り返すのを、自分はシャワー上がりの冷めはじめた体を持て余して、狭い壁際に立ちつづけたまま飽きもせずに眺めていたときの、あの心持ちだ。山口は山口でふくよかな胸元をうつぶせた体の下に敷いて、左頬を掲げるように捻る首の付け根から掛け布の下に潜った尾てい骨へ、緩く湾曲している背骨の影の連なりを惜し気もなく晒しておきながら心は幹線道路のわきのホテルの一室から遠く離れているようで、それがむしろ肌を押しつけあっていた最中の我も彼もない夢中さに不思議と似通う。まだ二人してことに耽りこんでいながら通り過ぎたヘッドライトの数だけ月日が過ぎ、気がつけば青々と陽光を吸いつくしている葉も余すことなく地に落ちて、その乾いた組織が崩れるのを靴底で無邪気に楽しんでいるような影が、身じろぎひとつしない二人の周りに音もなく踊り出る。そしてあられもない声を立てる。二つの肩甲骨のあわいの灰いろがかった肌に疲弊を滲ませる女の上に再び乗り上げて、ともすれば殺しかねないな、などと剣呑なことを呟きかけて棒立ちのまま居眠りをしかけていたらしい自分の姿にはたとおののき、それが交わりのさなかにあったときよりも、その直前に深夜喫茶で各々にカクテルを傾けていたときよりも余程慰撫の込められた睦言めいている。冷ましたはずの下腹が情熱も伴わないままに苦しく淀んでいくのをこらえながら、山口が此方を振り返り、青白いまなざしに堂上を認めて、嬲るでも許すでも、とにかくこの欲情に一定の形を与えてくれることを殆ど祈りにも近い気持ちで願う、一方でもし僅かでも怯える素振りをみせられたならば、男もまた恐れに満ちたまなこを見開いて、視界の全てである女の風船のような肉体に飛びかかり撲つか、絞めるか、髪を引っ立てるか、また舌を絡め合わせるか。未だ微睡の縁にあるらしい女の裁定を待ちわびながら、しかし薄ぺらいスリッパを履いた足で汚れの滞る壁際の床を踏みしめ、両腕をきつく抱きしめ、膝も腰も直立不動の形で硬直させて、黒々と毛の旺盛に茂る頭ばかりを前へ垂らす姿が徐々に信心深い行者とも似通いだす。女の寝姿を睨むあまりに、かえって何を見ていたのか分からなくなった両の目も二つ、三つとくぐもったエンジン音が近付き、遠ざかりするのを数えるうちに、ふと精根も尽きたように閉ざされる。
 そして一瞬とも永劫ともつかない眠りの中で、堂上はまた睦言を聞く。今度は女の声のようだった。子種がいつまで経っても胎に着かないことを嘆いている。今時、子が出来ないくらいで世間に後ろめたいということもあるまい、どうしてもという訳でもないのだから、少し寂しくても二人で気楽にやっていけば良い。男がそう宥めれば、女はあどけないような顔を此方に差し向けて、ほんとうにそうかしら、ところであなたは、どこの誰なの。
 気がつけば男は眉をしかめながら、幹線道路のどこまでも拓けていくような視野の限界で、雨に漱がれたばかりの地平が赤く滲み始めるのにまっすぐに向かい、今に雄叫びをあげてやろうと全身を熱く怒らせながら、だが呼びかける宛も相手も無い恐怖にせぐりあげかけた叫びは寸でのところで押し詰められ、苦しげな喘ぎとなって何度となく空を裂くのを、我が身のことながら憐れんでいた。家も親も捨てた、結縁も破った、女には見放されて、社会とやらははなから自分の名を覚えていない。鼻つまみもののように身を膨脹させた装飾花はこの道沿いにも連綿と植わっていたが、土壌の成分によって決定づけられるはずのひとつひとつの色は、明け方の鈍い暗さに一緒くたに塗り込められて不吉な様相を表している。風はない。しかしあの豆粒を並べたような建造物のほんのりと焼けている地平の赤らみと、この体とを微かに繋ぐ気配がまだ男を生かしている。荒い呼吸が、渇きに粘る喉を鳴らす間は徐々に遠く、ひとりでの賑わしさが耐えるごとに前へと傾いだ額に痛いような静かさが触れて、この体もいずれはあの日と同じ色に染まるのか、内側から音も温度もなく炙られてまっさらにされておきながら自分でもそうとは知らないで、殊勝な目つき腰つきは守り通して女を抱きに行くのか。抱かれに行くのか。あれは経血の色、と嘲りの言葉を吐き捨てながら、気づけば我が身こそ果てもなく憎んでいる自分がいた。そして子が成らないのはひとえにおのが前世の所業のためだと、同じ口で身に覚えようもないことを懺悔しつづけている自分もいる。いいや決して罪を犯したという訳ではない、犯すべき罪さえ持たなかったということがこの男には業で、その報いをこうして今生限り悪夢を見つづけることによって支払っている。顎を胸につけ、開いた足で一心に土を踏みにじる苦しげな立ち姿での眠りに堂上が入ってから早くも三日が過ぎた。山口はひと晩こっきりの関係ですっかり気の済んだらしい晴れやかな表情を、優しい輪郭の頬に浮かべ、秋日の健やかな日差しの下にサテン地の黒いスカートを翻し、堂上の元から去っていった。もう二度と会わない、と年少の男をまっすぐに見据える面差しに、遠いか近いかも分からないような未来にまた出くわすような予感を早くも覚えながら、それでも堂上には、ホテルの前の横断歩道を対岸に渡って充足しきった足取りを電柱や街路樹の陰影の反復の中に溶けこませ、小さくなっていく姿を、背筋を堅く引き締め見送るよりほかのことはできない。更に日は落ちて、また昇って東の空が陶然と染まり始める頃になって不意に、事は成れり、しわがれた声が朗々と果てしもない景色の天から降ったか、地から湧いたか、それともそうと知らぬうちに己が喉を振り絞っていたか。一体何が成ったというのか、結局この女とも何事もなく切れたというのに、と思いっきり眉を顰めた男のしかめ面がいきなり目と鼻の先に迫り、怯えに急かされて怒鳴りたてようとするのを宥めるように、今度は黒い背広姿の中年男が、そうか、成ったか。なら名前はどうしようか。何もかも心得ているらしい、堂々たる物腰で頭を前後に揺らめかせ、それでいて細められた両目は甘い夢でも見ているかのようにほんのりと濡れている。
 あのような男を何度となく見かけた、朝の酷い混雑が通り抜ける駅の片隅で、遅々として進まない列に焦れて前を睨んでいる憮然とした面持ちが住み処を失くした犬の、やるせなげに人の方へと鼻を突きだしている様に似通いだすのを自分もそっくり同じ顔になって眺めている。怒鳴っている男もよく居た、ひたすらに頭を下げて耐え忍んでいる職員たちの体から滲み出す無言の質量に憎しみと怯えをますますつのらせて、一人芝居の哀しみへとのめっていく。誰しもが泥濘に足をとられたまま身動きさえできず、もはや沈んでいくほかないと言わんばかりの絶望感をうっすらと額に漂わせていた。電車は人身事故のために止まっていた。繰り返される今日一日の絶望をこらえきれずにゆっくりと、極まった疲労のためにかえって一歩一歩の定まった軽やかな足取りで、線路に乗り出していく人の姿を不謹慎だと律しつつも思い描いて、この黒雲のごとき人混みの中にそうやって死んだはずの人間が、まだ通勤鞄を片手に引っ提げ、不機嫌そうにまなざしを曇らせて紛れていたところで誰も気付きやしまい、ともすれば親兄弟さえ、馬の骨も知れないはずの皆が皆そっくりな虚ろな面相を浮かべる中から、たった一人を見分けることができない。そうして生死の隔ても破れたアスファルトの道路上を、それでも慣性に押し流されるようにしてじりじりと人並みは這い進んで、生めく吐息を混じらせながら、我も彼もない体を密やかに揺らめかせながらプラットホームの断崖に辛うじて全身を張りつめさせて立ち竦む。渦巻くような車両の轟音に轢かれるか運ばれるかの境もしかし緩んでいて、その刹那に差し入る花の狂い咲く色や、風の香りにいっそ誘われるか、我に返るか。どちらも同じ目覚めである。
 堂上がようやく壁際から離れ、強張った肘や膝の節々をほぐしたのは、東向きのホテルの窓がカーテンの隙間にしめやかな青みを湛えだした頃で、すっかり眠りに落ちている山口の剥き出しの裸を、寝覚めたばかりのぶしつけな眼で女とも思わず、ただ淡々と眺めまわしている。二人の女を同時に相手取り、争わせていることへの悔いもとんと湧かないで、どころか二人の憎しみが深まるほどに男の体は清められていくのかもしれない、と惨いことさえ考えている。
 やがて山口も目を覚ました。撚れたシーツを引き寄せ、つらそうに両足をベッドの脇に下ろすと、おはよう、と薄く隈に縁取られたまなざしをちらとだけ此方に差し向けて、冷えたシャワー室へと後ろ背を運んでいった。
 次に現れた時には、女はもう昨晩と同じ余所行きの衣装に身を固めていた。臙脂色の絨毯が毛羽立つ廊下を並んで歩きながら度重なる休日出勤への愚痴を零す、その堂上より低いところにある襟首が白く、輪郭を失くしたように滲みかかって、湯上がりの肌の水っぽいにおいを控えがちにふくらませている。今日は雨が来るかもしれないと思いながら表に出てみれば、午前七時の秋の空は気の遠くなるほどに青く晴れ渡り、天頂から西の方角にかけては特に色も濃く、端々の鉤の手のように折り返した雲は空の高みに滞ったまま、僅かずつのその変容を、人の視力は追いかけることができない。アイボリーのトレンチコートで包んだ丸っこい肩口が不意に立ち止まり、此方を振り返ると、じゃあね、堂上君。昨日は楽しかった、でもきっともう二度と会わない。束の間、意志のまとまりを欠いたような顔が、抱きあっていたときよりも露わな面相を剥きかける。だがそれもすぐによそよそしい微笑に代わられ、口紅を優しく輝かせる唇の端がほんの少しばかり寂しげであるように思われたのは女の、男に対する同情がその小さな陰にばかり名残を留めているためらしかった。くたびれた体からはやはり水のにおいがした。
 憎むほどに我が消えていく、ということもあるものなのね。
 一体何を考えているんだ、と手を伸ばしかけたときには、女の緊張に凍てつくようだった細い背中は急にその制御を失って、遅々として進まない人込みの中へと引き込まれるように倒れていった。すぐ前で焦れったそうに、乗り換え口を埋め、ホームに続く階段の上まで尽きない人並みの向こうを窺おうとしていた、背広姿の中年男たちがぎょっとしたように振り返り、まだ年端もいかない学生らしき制服姿を寸でのところで、狩りで仕留めた獲物でも振りかざしてみせるように掴みあげた。馬鹿、貧血だったらどうするんだ、と一回り若い男が声をあげたのを境に辺りがにわかに騒ぎはじめ、ごったがえす人の影が割れてタイル張りの地べたに女が横たえられる一方で、改札口に近い客が駅員を呼びに走る気配が立った。少女は固く瞼を瞑っていた。すぐに褐色の防止を被った二人組が担架を運んできて、一人がスカートのすそからしどけなくはみ出した膝裏を、もう一人が白いブラウスの少しくすんだような両脇をそろそろと抱えて、肩甲骨につくか、つかないかほどの長さの黒髪が、青白く引き締まった少女の苦しげな寝姿を裏切るように豊かなにおいの気配をふくらませて、せかせかと駅員室へ、いかにも頑丈なつくりをしていた担架が運ばれていったあとも、我を失くした女の体の、遥々と草野原を渡る風をうちに孕んでいそうな印象が頭について離れなかった。相変わらず人身事故に堰き止められたまま路線の振り替えもままならない人だかりの、物にでも憑かれたような黒い蠢きも、この一瞬の出来事に正気を取り戻しでもしたように静まり、先へ先へと駆けようとする目が束の間、何の標もない宙空へと集中を散らされて、年齢も忘れはてたような体だった、あの体にこの生者たちの咎も穢も集わされて、ようやく供養が成った、あの娘は立派に勤めを果たし申し上げました、あなありがたや、ありがたや……。
 むごいことを考えていると知りながら頭は深く、供儀の成就を請い願う役を務めあげようとする祭司の姿となって垂れながら、無心に開かれ、血の跡も女の影もありやしない床面を人の足の隙間から見張っている両目は、何かから必死に背けられているようだった。だがそれは一体何か、と問いかけようとすると辺りのざわめきはひと際、花火でも爆ぜるように膨らんで、距離感を無くした耳から押し入ると男を内側から荒らしていく。変わらずに目だけを凝らしながらいつしか、行けども尽きない、丈高い枯れ草ばかりが空一面の雲の鈍色を吸いあげたように重苦しく、萎えた諸手をしきりに振り回し、地中を浸す水が生き物の糧になることもやめてしずしずと這い回る寒々しい情景を思いながら、男は疼く下腹を押さえこんでいた。口内が粘り、脂汗を滲ませる己が肉体が饐えたにおいを放つのが、人の目に立たぬようにそっと服の上を探る左手が骨と血管を浮かせているのが、今更不思議なことに思われて、草の中に、泥に半ば沈みこむようにして自らも泥のようなものを知りから吐き出しているあの子どもは、ことの済んだ後も、済んだ後だからこそ何かの予兆に感じて、まだ其処に息を殺しながらうずくまりこんでいるのだろうか。虚弱な体を疼きの抜けきった安堵の中でなお震えさせながら、膝頭ばかりを熱く泣きべそに濡らしている、そうして自らの生まれてきた世界が、縋るべき標も境も持たずに広漠と続くばかりの泥と水の野っ原であることを天へと向けて、丸く縮こまった背中で一心に訴えかけている。
 その頭が不意に天を振り仰いで、泣きはらした眼を赤く剥いた。
 列車の運行再開のアナウンスが降るのに、弾かれたように睡りに浸りかけていた顔を上げて、ホームへ続く上り階段へと一斉に向き直る人混みをたった一人、逆方向へと押し分けた。そこだけは外の賑わいに関わらずひっそりと静かさを守っている公衆トイレの個室へと駆け込んだところで、天井からの轟音が建物を包んだ。少しずつ加速していく。コンクリートの壁に隔てられていても、ようやく人が動きはじめる気配は感じ取られて、その安堵感に繋がれながら、息を吐くように込みあげる疼きを押し流す。同じ安堵に、衆人の目に仰臥の姿を晒させられていたあの少女も繋がれているのかもしれなかった。そういえば生理の時には下腹から腰にかけてものべつ引き攣れたように痛みつづけるが、腸の方も一緒に調子が狂うらしくて出しても出しても内蔵まで綺麗さっぱり無くしてしまわなければ収まりそうもない、とあからさまに言いつのったのはどの女だったか。
 女に生まれたことを恨んでさえいる、と同じ会話の中で、濡れた唇に上らせていた。濃い光を薄い皮膚に集わせながら、その遠近を掴むことさえ堂上に許さず、雨の余韻を甘く含ませた大気を滔々と渡っていく声はひょっとすると堂上の体の深いところから、軒に染みる水滴のように漏れでてさえいるのかもしれなかった。あなた、と同じ声が今度は馴れた響きで語りかける。あなたを愛したのはあなたならこの恨みさえ解いてくれる、あなたなら、私が女であることを忘れさせてくれると思ったから、けれど実際には逆だった。私が私であることを忘れていくほど私の体は女になっていく。あなたも、あなたでなくなっていくほど男の体になっていく、どれほど互いに泥んで互いを互いだと思わなくなっていっても、刹那、切り結びあったまなざしは憎しみばかりを賽の河原の石のように成就させる。ならば、どうして私はまだ私であることを愛していられるというのかしら、そしてあなたが、あなたであることを。
 それで女を愛したのか、と問えば少しのだんまりの後に、そうかもしれない、と怯じたような目線が返ってきた。散々に詰っておいてまた男からの宣告を待ち侘びているような、草を食む小動物のように潤み、黒々とした瞳で相手を窺うその仕種にふっと怒りを誘われて、だから大人しく抱かれておくべきだったのだ、おまえたちは。言葉にしてしまったことの惨たらしさに戦慄を覚える頃には、体中の筋を硬く凝らせて、死体のように白く染まりながら天を仰いで横たわる女を、手洗い場の鏡に茫洋と写る、若めいた歳月を徐々に後ろにやって、弛む皮膚と肉とを分別の鋳型へ収めつつある男の、むさい体の向こうに、それとも手前に描き出している。十本の足の指はどれも垂直に天を差す冷たい峰となり、淡く窪みゆく臍のあたりで両手は組み合わされて狂おしいほどの力を込められ、そこから手首から肘にかけての貧しげな線が、薄い胸板の上に潰れかけている乳房のふくらみが遥々と広がりながら、青ざめて、尖って顎ばかりが力なく突きあがり、喉首の滑らかな曲線がぽっかりと露わになっている。本当に死体なのかもしれなかった。膝はきつく閉じて男を拒絶し、薄くあいた唇からは整然とした歯列が覗き、結ばれた上下の瞼の黒ずんだ線が肉体の境も越えて流れ出かかるものを頑なに押さえつけて、たった今まではさっきの少女の反復と見えた像が、此方から迫ろうとするほどに山口にも、水嶋の姿にも成りかかるのを、尚も執念深く追い込もうとする男の眉はいつしかその中点へ寄せられて、赤らんだ両目を飛び出さんばかりに丸くして此方は口の方を真一文字に噤んでいる、そうして言葉さえ戒めた末にまだ横臥した女との距離を鼻づらで測り、死生さえ忘れて女の体の中の静けさを乞うように求めている。
 静かさや岩にしみ入る、と埒もないことを唐突に思って、手洗いを離れて、また構内の人いきれの中に鼻を突きだせばホームはともかく、通路に足止めされていた人群れはすっかり失せて、四つの階段と二基のエレベーターに囲まれ、あちこちを隈なく広告に覆われている改札とホームとのはざかいの場が思いがけず閑散と開けて、無表情な床面ばかりを電灯に照り映えさせているのに感心しつ、荷を降ろしたあとの澄んだ徒労感に、むしろ狂わされた足取りを運び出そうとしたところで、蝉がどこからともなく細い声を震わせだして、きりもなく伸びながら、既に土中へ還っていった仲間たちの声さえ集わせていくようなのに耳を奪われ、今ここはどこで、誰のために自分はこうして立ち尽くしていたのだろうか。訝りを振り払い、歩きだす自分の姿が、ついさっき乗って来た電車へ踵を返すのを見送っている気分になりかけながら、目的の列車の到着を知らせるアナウンスが響けば何食わぬ顔をして、まだ混雑の抜けきれない階上の搭乗口の並びの中に、四角い鞄をぶら提げ滑り込む堂上の姿があった。それでも浅ましいような気持ちが暮れ残りの日のように、跡を引くのが不思議だった。
 堂上、とそっとざわめきの中で呼びかけられて、その出所を掴めないでしばし、眼を邪気のない子どものように澄みとおらせて、表情の失せた人の顔のきりもないようなごったがえしのあちらこちらを振り仰いだのも、五年前のことだった。姿を認めるよりも前に、思っていたよりも低い位置からにゅっと痩せた腕が伸びて、ぼんやりとしたこちらの肘を他愛もなくつまみ、次いでくぐまりがちの肩に黒髪が触れ、恥ずかしげな面(おもて)が夏の終わりの入り日に柔らかな両頬を照り輝かせて、男を仰ぎ見る。黒々とした両目が陰気な光を篭らせて二言、三言、何事かを囁くのを実のところ何を求められ、確かめられたのかも分からないでいながら、鷹揚に頷いて見せる男の影が立ちあがる。その仕種に誘い込まれるようにして肩口の強張りを解き、瞳はますます潤みながら心持反らした胸の、気疎げなふくらみを夕時のあからさまな陰影へ曝け出すのに応えて男の姿も夜のにおいを深め、しかし曰くありげに受け答えをしている顔面の、眼球や鼻梁や口唇のなだらかな盛りあがりは全体の統一を欠いて、それが甘たるいようにも陰惨なようにも思われる。さては向こうから誘いかけられたのを根も葉もない理由、袖摺り合いの多少の縁にして、交わる以上のことを犯すつもりだな、それを前世の無垢の報いにして今生こそは自分の在り処を定めようとしているな、とそのしかめつらしい後ろ姿に呼びかけようとしたところで、やはり季節外れの、今度は向日葵の大群が視界一杯に咲きひらいて、断末魔のような西日に、柔らかな花弁の繊維を焼かせながら、ひょろ長い茎を気ままな風の圧に委ねている。大袈裟な嬌声をあげる唇の内側で、歯が白く艶めくのを垣間見ながら、既に男に手を掛けられて倒れ伏し、苦悶に手指足指の先々までを捩らせた、肢体を幻に見ていた。濃い余韻の中で、その弱々しい痙攣にあわせ、血がゆっくりと流れ出している。
 引き続いて男は電車の人群れの中にひっそりと佇んでいた。事故のせいでラッシュのピークを越えても車内は混み合っていた。左肘に、女につままれた時の感触が淡く残っているのを、朝の通勤客らのそれぞれにもの思いのすっぽり抜け落ちているような仏頂面の前に晒しあげているのを恥じて、それとなく脇に引きつけて庇うようにしていたのが、都心が近付くにつれて身動きもままなくなり、とうとう、他線との連絡がある駅での乗り降りの人の勢いにまかせて一人の女子学生が、教科書やらを限界まで詰めているらしい革の肩掛け鞄を重装歩兵団の大盾よろしく構えて車内の奥へ奥へと進もうとするのに圧し負け、吊り革を離し、たたらを踏み踏み既に他の客も入って狭苦しい通路の僅かな隙間に身を捩じこませたところで、痴漢の冤罪を気遣って女子学生のそれよりはよほど軽々とした仕事鞄もろとも両手を別の吊り革に下げたので、肘に染みついたあるかなきかの女性(にょしょう)のぬくみも必然、俯きがちの人々の頭の上へと差し伸ばされて、汗と水と化学塗料とが腐れていくらしい、疎ましいにおいの中に音(ね)のない喘ぎを徐々に膨らませていくのではないかと恐れられた。泥みさえすれば他人(ひと)も恋人もないのが情欲というものだ。たった一度限りと言えど、自分の肉の一部へと迎え入れられた女が、そうして外へ外へと自らの名残を広げて他人(ひと)の吐息を吸い、他人(ひと)の靴の下に身を延べ、光の中に立ち居する他人(ひと)のそれでも目覚めきらない意識の奥底に触れてまわろうとするのを、所詮は粘着男の妄想に過ぎないと戒めながらも、憎みかけている。憎みかけながら、野にひとりっきりで取り残され、はだけた尻を無遠慮に突き出した事後の恰好のまま動けず、汚い汚いと頭では思いながら、体はひとりでに自分が吐き出したものの温みを慕って座りついている小僧のように、ちぐはぐな我が身の遣る瀬のなさを哀しんでいた。しかしそうして世界に一人勝手に甘えようとする男を草原の一角から、角張った腕の中から、街角ですれ違う一瞬間の静まりの中からまっすぐに見つめて、一斉の音も言葉もほころびかけた忘失の白さのさなかから、尚も語りかけようとする女たちを自分たちは愛したかったのではないだろうか。女たちは女たちでたおやかな掌に自らの汚物を抱えて眉をきつくひそめたり、時には茫然と中空を彷徨う瞳に、我知らぬ涙をしらじらと溢れさせている。
 己が手に掛けられてあさましくなる有様さえ思って、あげく争わせておきながら、何を今更、という自嘲が口元にまで上りかけた。女の、または堂上自身の欠片は列車のひた走る、途方もない音の重なりに安らがされて、すっかり通勤客のくさいような人いきれに泥み、在り処も定かでなくなった。さしあたっての憎しみは堂上を車内に押しこんでおいて、満員の電車であるにも関わらずその嵩張った鞄を下ろそうともしない、女子学生へと向けられた。一瞬、先ほどの少女が立ち直り、遅刻を取り戻すべく遥々駆け込んで来たかとも思われたが、先の少女は肩甲骨に着くほどの長さの髪を流したままにしていたのに対し、此方の少女は後ろ頭の高い位置で一つに結い、内向きにくるりと巻いた毛先も、華やかな薄桃色の地のシュシュも、いかにも活発な年頃の娘らしい。そもそも人身事故の立ち往生のさなかで少女が倒れた駅からは、もう何駅も隔たっている。けれども張りつめた頬の青白さだけは酷く似かよっていた。いくら毎朝の登下校で慣らされたといっても、成長途中の未熟な体にこの人混みは慣れきれるものでないのだろう。通学鞄は真実、少女を身も知らぬものたちとの接触から守るための盾だった。正面に抱えこまれた鞄は向かい合う形に立っている男との緩衝材となり、しなやかな背は後ろへ反らされ、他の男の背から下を自分の体から遠ざけている。そうして半ば他人にもたれながら、自らも両脇の他の客から圧迫される、無理な姿勢の苦しさを、鞄に引きつけた左腕で支えるスマートフォンにまなこを注ぎ、丁寧に切り揃えられた桜色の爪で画面を弾きつづけることで、紛らわせている。一度でもまともに辺りを見回そうものなら、辛うじて踏んばっている、硬い革靴に痛む両足の力さえ抜け落ちかねないが、その垂れた項の、依怙地な白さに吸い寄せられた男の目線が、知らずの内に少女の依怙地さと同じくらいの険相を浮かべていくのを、堂上はふと遠くから眺めているような心持ちになって、苦笑を零す。成程、この目によって女を憎みながら、男は男で自らを守っているというわけだ、情欲に落としまえをつけて、名前を授けて……それを罪なき罪と悟って、身を引いたのだな。
 両手を宙吊りにした情けないような体勢に、鈍く痺れた上半身をほぐそうと一つ息を深く吸い、吐き出せば、焦点の弛んだ視界の央ばよりやや低いところに、ほっそりと縮こまった肩口が緊張するがほのかに走って、しばらくは頭(こうべ)を手元へと埋(うず)めるようにしたまま指先もろくに動かさず、幾筋かばかり、人波をすり抜けた朝日に肉付きの悪さを明らかにされた、寂しげな姿がひたすらに外の変化を推し量っている。私にもあんな時期があったものよ、と肘頭辺りを背広の上からつまんだ女がまたひょっこりと顔を差し向けて、男のまなざしを夕日に濡れる遊歩道の片隅、よく手入れされて今は花こそ咲かないものの、多年草の園芸植物と思しき株が連綿と寒々とした葉を土の表面に広げている花壇の、低い煉瓦の囲いの上に、スカートが汚れるのも構わずに腰を下ろし、さして楽しくもないような顔つきで携帯をいじる女子学生の方へと促した。唇を少し突き出し、殆どまばたきもしないで液晶画面に集中する横顔の、赤く燃えるような線こそ険しかったが、開きかけた膝の上でだらしなく天を向いた携帯を持たない方の手や、半端に前方へと投げやられ、地面から浮いた爪先は、心細さを誤魔化すように揺すぶられることはあれ、誰かを待つような気配もない。ああして色んなものから逃げているのね、と。睦まじい恋人同士の、腰に腕を添えあった格好で少女の正面をすっかり過ぎてから呟く女の肉体に、ふと己を抱く男に決して馴染むまいとするような、戦慄にも近い力が走るのを感じて、咄嗟に押さえこもうとした堂上の耳に刹那、時間の尽き果てたような静かさが飛び入って、ジイと空蝉の透明な翅を打ち鳴らすような兆が立って、自分では駄目なのかというようなことを口走ったらしい男に向かい合う女は、常よりも幾回り、幼い目元に暮れ日の最後の煌めきを帯びさせて、駄目よ。だってあなたもまだ男のひとだから。甘いように囁いて再び、くたりと自分よりも大きな体にその重みを預けた女の印象が、ふと掴みがたく遠のいていく。
 それでも女との縁が切れなかったのは、男が追い縋ったためだった。どころか女の幽かな拒否に触れて初めて、欲望に定まった形が備えられ、そこからとても己のものとは思われない言葉が恥も外聞もなく溢れかかって、既に腕の中に体を預けているはずの女をひたすらに口説いていたと思う。その間に秋は着々と深まり、一日ごとに長引き、寒さをこらえる人々の背が屈みがちになりながらも徐々に早い日没にも慣れ、闇中の騒がしさが極まると、クリスマスに年末年始がやってくる。世間の流行りを疎みがちな男にも、大学生活一年目の同輩たちがあちらこちらで色めき立つ中で眺めるイルミネーションの煌めきには妬まされるものがあった、と一つ前の冬のことを思い起こしながら、借り部屋の近くのファミリーレストランで向かい合った相手はますます頑是なく、ぷっくりと寒さに赤らんだ頬を膨らませていた。まだ小学生にも上がらない、親戚の子どもの面倒を見させられていた。付き合っているはずの女は、冬休みは雪に埋もれる実家でずっと過ごすと言い置いて、あっさりとスーツケースを転がして都内を去ってしまった。きっと年末の大掃除にも付き合わされるし、雪掻きもさせられる、という、その眉をしかめながらこんこんと仕事に打ち込み、額を白く汗ばませた姿を気散じの想像に描きながら、しかしふと目の前で不器用に子ども向けの先の丸いフォークを使う合間合間に、自分の手の中の道具をこれは何だろうと訝るように見つめる童女と、自分の抱こうとする女の想像の境が溶けかかる。体の芯にまで染みる寒さをくぐり抜けてようやく人口の温もりに和まされ、知らず胸の息を吐きだすようにする、その霜焼けた頬に、ついさっきまでの緊張の名残のような汗が薄く滲みだして、ほんのひととき、緩まされたまなざしがほのかに彷徨いだしかけたところで、まだ片付けるべき仕事が残っていることに何度でも驚かされたように目を見開き、その放心が過ぎ去らぬうちからもう指先は、作業にかかるための集中を反射のように篭らせはじめている。片付けても片付けても終わりやしない、なにしろ先祖代々の家だから、と一度だけ鬱陶しげにかぶりを振って、それから長く伸ばした髪を恨めしげに垂らし、俯いた先には子ども向けセットメニューの一角に添えられたサラダの四分の一ばかりが、幾度とないフォークの丸い切っ先の躊躇いに突き崩され、皿のあちこちに無頓着に食い散らかされている。そんな食い方をするな、御両親に叱られるだろう、と我ながらぞっとするような猫撫で声で諭そうとすれば、こうして食卓を共に囲んでさえいる男を一体誰なのだろうと今更に怪しむ目つきがまず前髪の廂の下からおずおずとせり出して、やがて男の鼻先のあたりで焦点を結んだ途端に、あなたにまでそんなことを口出しされるなんて、とあからさまな憎しみが水面を漂う垢のようにかの女の姿として浮かびあがりかけ、しかし次の瞬間には何事もなかったように視線を下ろし、もそもそとプラスチックの皿に汚らしく張りついた菜っ葉を口に運び入れている。またもや奈落に溶け消えるような面影に引き込まれかけて、男は刹那、自分が誰であるかも、今がいつで此処がどこであるかも分からない。あの女の幼い頃にも、こうして自分と食卓を囲んだことがあるのかもしれない、などありもしない昔話が湧きあがりかけるのを振り切ったところで、外には十二月の都内には珍しい雪が、はらはらと慎ましげに舞い踊りながら、コンクリートの街並みを緩やかに覆い始めていた。
 気がつけば、堂上は少女が坂道をまっすぐに上がっていくのを付かず離れずの距離で追いかけて、梅雨の晴れ間の日差しに視界が眩みかけるのを厭うては目を細め、鞄を持たない左手を翳しにしたり、腰元にぶらつかせたりして、しきりに自分の騒がしいような足音ばかりが立つのに耳を傾け、もう幾つもの山並みを何日もかけて越えてきたあとのようにうっとりと、何の変哲もない、精々五、六階程度の四角い建物と申し訳程度の花壇と街路樹が入り組む、勤めだして数年になる会社への通い路の景色に眺め入っていた。丈高い銀杏の樹が今を盛りと、全身の葉を濃く照り輝かせて、空の青さえ吸いあげていくようなのが無性に喜ばしかった。何のことはない、勤務地の近くが学校なので、恐らくは同じ人身事故に巻き込まれた者同士、いつまでも猥雑なままだった車両から同じ駅でようやく抜け出し、同じ道を二人きりになって歩いていた。しかし見るからに朝っぱらから早くも疲れきり、一歩一歩にもたついているような後ろ姿を、何がやましくて追い越そうとしなかったのだろう、と我を顧みたところでふいと少女は左手に折れて、そこで坂は切れていた。あとにはふつふつと近くの幹線道路を行き交う車の唸りと、線路の震えと、体育館らしき傍らの建物から甲高い女たちの声とホイッスルとが零れ落ちてくるなかで、所在無げな、三十路手前の、くたびれた背広を刻々増しゆく蒸し暑さにも鈍いらしく着込んだままで、厚い肌を汗に粘らせている男の体がいつまでも取り残されている。いいや、堂上もまた他の数多の、遅延を取り戻そうとする人間たちと同じように急いでいたが、駅の便所に流しきったはずの人酔いの疼きがまだ抜けきらないでいた、あるいは女たちに見捨てられたことへの数年越しの戸惑いが今日限りの雨の絶え間にひょっこりと現れて男の足つき腰つきから、男が男であることの確信を奪っていた。あるいは、そうして久方ぶりに目にした自分の姿があまりにも生命のそれ自体の力に打ちひしがれた動物であるのに絶句し、昨日も今日も明日も繰り返すべき事柄さえ忘れ、アスファルトの道の半ばと荒野との見分けもつかずに尻を落として居着きながら、晴れた大気が運んでくる他の生命たいのにおいに本能のままに鼻を擦りつけ、無心に歩み去っていく黒い人影には目もくれない、認めていても、分からない。
 アスファルトでさえ、同じ生きものだった。
 やがて坂の向こうからやってくる人の姿に堂上は呆けきったような顔を上げた。遠くからでも、今にも歯を剥かんばかりの仰々しい笑みの印象が目について、向こうは平地に立っているにも関わらず、上り坂の途上で背を屈め、頭ばかりを不自然に上向けている堂上とそっくり同じ格好をしている辺りからしていかにも年寄りらしかった。それが杖をつきつき、いよいよ坂を上りきろうという堂上のすぐ真正面にまでにじりよってきて、近付けば却って表情の読めぬような皺だらけの顔が、笑いと長い苦悶の境も分からぬ表情に溶けかけたところで、やにを溜めた両目をぱちぱちと幼子のように瞬かせ、垂れた鼻頭を心細げにすんと鳴らし、不意に大口を開ける、その紫がかった赤色の肉の洞の中で、数えられるほどしかない歯が酷く黄ばみながら、それぞれの居場所にどこか賢しらに収まっている。一本、二本……八本あるぞ、と思わず素っ頓狂な声をあげると、あるだろう、あるだろうと老人は火のついたように腹を捩って笑い出した。
 八本、自分にもそれしか歯のない時期が過去にはあったな、と小高い丘の上からぎっしりと建物の詰まった市街を見やって堂上はまた思っていた。ところどころに緑も茂り、広い公演地さえあるのが、人の密集を逆に際立たせているようなのが、いかにも都心らしかった。少し前まで荷運びにも頻々に用いられていた川や、急な坂の連なる地形も。土の膿むようなにおい共々、ひとしなみに大小のビルの乱立に覆い隠されて、その表面を無数の背広姿の男たちが、自分でもそうと知らぬ自然の力に捻じ曲げられながら滑らかに動き回っている。その気配をしみじみと懐かしむ堂上の上半身は坂を上りきったあともまだ深く屈められて、背には幾十もの歳月の日と雨と風とに擦り削られてきたような、穏やかな骨の凹凸が露わになっている。早くも初夏に応じた肌着一枚、シャツ一枚の服装で、発汗の滞りが皮膚を外気へと当て、気楽そうに人様の土地の樹木に凭れていた。ここもかつては山だったか、姥捨て山だったかも呟きかければ、所詮は平地の一角、とても人の生活を根から切り分けるとは思われぬ高低の差がその色合いを深め、山は山として森厳な人のまなざしの力を集め、低地には山を見上げるものたちの吐息ばかりが流れくだって暗く淀みながら、誰の目にも顧みられない泥の中で、ひそやかに新たな生命を育んでいる。女たちのほの白いような喘ぎも混ざりながら、やがては風と共に温い波となってそれは山上へと運ばれた。山上には一人の歯抜けの老いらくだか、幼児だかが一心に掌を擦り合わせ、瞠られた目は地表のあらゆる光を含んでより黒く輝きながら、病んだ気管支をか細い笛のように掻き鳴らして、いつしか地平のあらゆる音声という音声を呑みほすほどに成長したその大波に、我が身を浚われるがままして、しかしふと足元に触れた茂みの枝が撓み、平らかな葉が幾つも揺さぶられるのに他愛なく注意を引かれ、膝を折りかけた姿をいつまでも、波頭の一瞬の静まりの中に浮かべている。
 それにしても姥捨てというが、爺も捨てられたのだろうか。捨てられたのだろうな、女ほどではないにせよと一人合点にしきりと頷きながら、ふと白けたような面を上げて、俺もそろそろ捨てられに行くか。それが女たちへのせめてもの供養かもしれない、と呟く男の傍を、湿りついた首元を空いた手で仰ぎ、坂道を埋めつくす、初夏の叫びのような日差しをゆっくりと掻き分け、どこか見覚えのあるような勤め人の影が通りすぎていく。
その後ろ背に、堂上。細々と囁きかけるようにしながら、まだ遠い雨の気配へと耳を澄ませている自分がそっと寄り添っていた。

2017年11月 十夏光

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